~「もう一つ上の日本史」出版に伴い、勉強方法も変える必要が出たので、全面改訂突入します~

☞【シベリア出兵ならコレ!】『シベリア出兵~近代日本の忘れられた7年戦争~』(麻田雅文、2016年、中公新書)[後編]

文字数が多くなったので、[後編]に。<前編はコチラ>

目次

ここまでの流れ

<1919年>

  • 1・18 パリで講和会議が開幕
  • 2・10 シベリア鉄道、中東鉄道の管理について日米が協定
  • 3・2 モスクワにてコミンテルン創立大会
  • 3・4 コルチャーク、西へ向けて大攻勢開始
  • 3・22 アムール州イワノフカ村の焼き討ち
  • 4・12 外務省、モンゴル独立運動に関与せずの声明
  • 5・17 日本、コルチャーク政権を承認
  • 6・9 赤軍がコルチャーク軍からウファを奪回
  • 7・22 コルチャーク政権の二個師団派遣要請を日本が拒否
  • 11・11 コルチャーク政権がイルクーツクに移転

<1920>

  • 1・1 本庄支隊がイルクーツクに到着(日本軍の西進の限界)
  • 1・5 イルクーツクでコルチャーク政権が崩壊
  • 1・8 アメリカのグレイブス司令官、シベリアからの撤退を通告
  • 1・13 日本軍を「東部シベリア」へ追加派兵の閣議決定
  • 2・7 コルチャークが処刑される

<第3章:赤軍の攻勢、緩衝国家の樹立ー1919年~1920年>

【1.米英仏の撤兵】

カナダの撤兵とイギリスの動揺

★カナダは国内世論からいち早く撤退。イギリス(ロイド=ジョージ)も続こうとする。

※ロイド=ジョージ首相(自由党)も撤兵を望んでいた。ソヴィエトと険悪なままではロシアからの安価な小麦輸入が不可能になると考えた。しかし、議会では保守党が、閣内ではチャーチル陸相が反対。

★「チャーチルは反ボリシェヴィキ戦争のもっとも強力かつ無責任な推進者であった」。

※ロイド=ジョージの発言。トロツキーも「チャーチルは内戦の扇動者であり、組織者であり、資金提供者であり、予言者だったのだ。資金提供者としては気前がよく、組織者としては凡庸で、予言者としてはさっぱりだったが」

チャーチル陸相の大計画

★コルチャーク退却と入れ替わるようにモスクワに進攻したのがデニーキン将軍。

※デニーキンを後押ししたのが英仏。特にチャーチル。その勢いでソヴィエトを包囲してその後の国づくりまで計画していたが、国内でもバルフォア外相反対、日本も応援反対。あくまでもアメリカの意向を尊重するのが原首相の方針。

デニーキン将軍の敗北と英仏の撤兵

★チャーチルの計画は机上の空論に終わる。

※赤軍はコルチャークを追撃したあと、デニーキンも退ける。デニーキンはウクライナに逃れ、英仏も撤退。

チェコ軍の反乱

チェコ軍は民族独立のために戦っていたが、パリ講和会議で達成されたためシベリアで戦う理由がなくなった

※しかし、英仏の思惑でなかなか撤兵できず。遅々として進まない撤兵についに反旗を翻し、1919年9月28日、撤退を決める。

★のちにはコルチャークを革命政権に引き渡す。

※さらにはセミョーノフの軍隊と衝突。1920年2月7日にソヴィエトと休戦協定。日本軍とも関係悪化し銃撃戦を行うことも。1920年9月に撤退完了。

アメリカの撤兵通告

★ついにアメリカも撤兵。

※原内閣にとっては衝撃。しかも打ち切りの通告は故意ではないにせよ国際慣行に反したものだった。日本軍の駐留は認めさせる。日米共同出兵は最後までかみあわなかった。

【2.日本軍の独行ーアムール州からの撤退、沿海州の制圧】

撤兵するためにも追加の派兵を

★原は大規模な撤兵と小規模な増派を同時進行させることを思いつく。

※軽々しく撤兵することはできないとした。

撤兵を胸に秘めつつ

★この方針は内密に行われた。

ウラジオストクの政変

★沿海州も革命軍に。

日本軍のアムール州撤退

★ハバロフスクも革命派。アムール州も。

中国軍に追放されたホルヴァート

★コルチャーク政権が崩壊するとホルヴァートは独立。しかし中国がみとめず。追放。

※日本には応援要請されたがシベリア出兵継続のため中国との協調を保つことを優先して動かず。

日本軍による沿海州制圧

★アメリカ撤兵後、日本は沿海州臨時政府と強気の交渉行うも、調印前夜、襲撃を受け応戦。

※翌日までにシベリア鉄道沿線のパルチザンを武装解除。

原首相の落胆

★結局ウラジオ派遣軍は沿海州を武力制圧。これは東京では寝耳に水。

※現地軍と内閣の意向もかみあわなかった。

【3.極東共和国の建国ーザバイカル州からの撤兵】

日本への交渉よびかけ

★日本軍の沿海州への駐留継続が確実になるとソヴィエトは武力ではなく外交によって撤兵を試みる。

※具体的には極東における日本の特別な経済的・通商的利益を認めるという下手に出たものであった(1920年2月14日)。しかし、この直後に尼港事件、沿海州で日本軍による武装解除もあって実らず。ソヴィエトはヨーロッパで苦境に立たされていたことも一因。新生ポーランドとの戦争は1920年4月25日から開始。

極東共和国建国へ

★1920年4月6日、赤軍によって占領されたばかりのヴェルフネウヂンスクで極東共和国の建国が宣言された。

※緩衝国家としたが、極東共和国軍は建国するとすぐにセミョーノフの根拠地チタへ進軍を求めた。レーニンは日本軍との衝突をあくまでも避けるため却下。

ザバイカル州からの撤兵へ

★コルチャーク政権崩壊後、原首相はザバイカル州から撤収。

原首相の参謀本部批判

★閣議決定に逆らいを見せる参謀本部に原は怒り。

※背後には山縣有朋の影。田中は閣僚としての立場を優先し撤兵。これは田中辞任の伏線になる。

高橋蔵相の参謀本部廃止論

★高橋蔵相も怒っていた。参謀本部廃止論を原に訴える。

※第1次世界大戦でのドイツの例を引き合いに。これは内密にするべきであったが漏れてしまい山縣も少々興奮。

赤軍の攻勢とセミョーノフの亡命

★赤軍とポーランドは10月に休戦。ポーランド軍と共に赤軍と戦っていた反革命軍は赤軍に敗北。

※リーダーはベルギーに亡命。つづいてセミョーノフも攻撃を受けて満州に逃げ、中国軍により沿海州に送られる。なおセミョーノフは1930年代には満州国に腰を落ち着けたが、1945年8月に満州に侵攻したソ連軍により大連で逮捕され、翌年モスクワで絞首刑となった。

<1920年>

  • 3・12 ニコラエフスクの日本軍がパルチザンを襲撃
  • 4・1 アメリカ軍、シベリアからの撤兵完了
  • 4・4 日本が沿海州の武装解除を開始
  • 4・6 極東共和国建国
  • 4・25 ソヴィエト政府とポーランドが開戦
  • 6・3 ニコラエフスクに日本の救援部隊が到着
  • 7・3 北サハリン占領とザバイカル州撤兵を官報で告示
  • 7・9 尼港事件首謀者トリャピーツィンが銃殺される
  • 7・12 中国軍がウスリー地方より撤兵
  • 7・15 日本軍と極東共和国が停戦協定を結ぶ
  • 7・21 日本軍、ザバイカル州から撤兵開始
  • 8・15 赤軍がワルシャワ攻略に失敗
  • 10・12 ポーランドとソヴィエトが停戦
  • 10・21 極東共和国軍がチタ占領。セミョーノフは中国に亡命。
  • 12・8 山縣有朋、原敬に北サハリンを除く撤兵を助言

<第4章:北サハリン、間島への新たな派兵ー1920年>

【1.尼港事件ー北サハリン占領へ】

サハリン島略史

★1920年に日本軍はアムール州とザバイカル州から撤退し、沿海州南部と北満州の中東鉄道沿線に兵力を集中させた。その一方、別の地域(北サハリン)へも派兵すると言う矛盾した行動に出たためシベリア出兵は長引くことになる。

※樺太は1855年の日露和親条約で日露の雑居地となっていた。1875年の千島樺太交換条約でロシア領となり、日露戦争の終盤で日本軍が占領、1905年のポーツマス条約で北緯50度以南を日本が獲得していた。

北サハリンの石油を狙う日本海軍

★北サハリンに野心を燃やしていたのは石油を狙う日本海軍である。

尼港事件の勃発

★北サハリン占領の口実となったのは尼港事件である。

※1920年1月、23歳のトリャピーツィンをリーダーとする4000人のパルチザンがニコラエフスクを包囲。反革命軍や彼らを支持したロシア人を処刑。

ニコラエフスクの日本人たちの決起

★現地の日本人も武装解除を要求される。

※救援部隊は現地で和平成立との報を受けて旭川に帰隊してしまった。現地の日本人たちは数で勝るパルチザン相手に乾坤一擲の勝負に出る。

中国艦の砲撃と朝鮮人の離反

★奇襲は成功したかのように見えたが、予想外だったのは敵がパルチザンだけではなく、中国艦隊、朝鮮人住民もパルチザンに加わったことである。

※結果、日本人は大半が戦死。残ったものは監獄に収容。

原首相と田中陸相の反応

★原内閣は最終的に救援軍派遣をあらためて閣議決定。

※北サハリンを2000人で占領し、ニコラエフスクと連絡をとる作戦。田中はシベリアから撤兵して代わりに北サハリンを占領する案を出すが、陸軍内で反対され孤立。

惨殺された日本人たち

★トリャピーツィンは市街地を焼き払い、日本人捕虜を全員殺害したうえで撤退。

※しかし、途中で部下に裁判にかけられ家族と共に銃殺。極東共和国を建国して日本軍との直接対決を避けようとするモスクワに批判的であったため、モスクワの怒りを買ったためという説も。尼港事件は日本人735人が犠牲となった。

いきり立つ世論

★香田一等兵「大正九年五月二十四日午後十二時忘るな」との走り書き。

※事件を特集する雑誌や映画が出る。

世論を操る者たち加藤高明の出兵批判

★復讐を求める世論の背後では尼港事件を機に北洋漁業の利権に結び付けようとする漁業家も。

※またしても東大七博士が訴えた。実は九博士も七博士も大谷誠夫というジャーナリストが仕掛け人。彼のスポンサーが三浦良次であり、北洋漁業トップの堤清六の側近である。

加藤高明の出兵批判

★原内閣のもとでシベリア出兵は確固たる目的がないと憲政会総裁加藤高明は批判し続ける。

【加藤高明】(1860~1926)

愛知県出身。東大法学部を首席で卒業後三菱入社。岩崎弥太郎の長女と結婚。1900年外相、1913年立憲同志会腠理。1914年大隈内閣で外相。対中強硬外交を進める。下野後は憲政会総裁。1924年6月首相就任。

原内閣への不信任案

★憲政会の内閣攻撃は加藤、浜口らにより次第に抑制。

※内閣の攻撃が国家の声望と尊厳を列国によって傷つけてはならぬとの配慮。もっとも言論界は黙っておらず。与謝野晶子は「パルチザンが悪いのではない」とし、石橋湛山は「世論が復讐に向かうのは国家にとって百害あって一利なし」として尼港事件の悪用化を警戒

北サハリン占領へ

★尼港事件は北サハリン占領に道を開くきっかけになった。

※1920年7月3日、ロシア領北サハリンを「保障占領」することを宣言。なぜ事件現場ではないのか、というのはアメリカも抗議。

「保障占領」の始まり

★北サハリンはサハリン州派遣軍により直接統治されることになった。

※軍政部は日本人とロシア人で構成。

北サハリンへの移民増加

★人口増加し、物資欠乏、物価高騰が問題に。

※日本からの移民も多かったが、ウラジオストクから逃げてきたロシア人、朝鮮人、中国人の難民の数はそれを上回る。

資源獲得が最優先の北サハリン統治

★英米企業が北サハリンの油田開発に参入しようとしたがサハリン州派遣軍により阻止。

※このことが日米関係をさらに悪化させた。また日本政府は保障占領と言うあいまいな領有ということもあって思い切った投資はできず。

カムチャッカ半島への艦船派遣

★さらに北まで出兵範囲は広がり、カムチャッカ半島は日本の影響下に入った。

※以後、1922年秋までオホーツク海では日本軍の艦船がにらみをきかせることとなる。

【2.間島への越境、ウラジオストクへの執着】

撤兵を言いだした山縣有朋

★1920年末になるともはやシベリアでは出兵を続けても先がないことが明らか。

※コルチャークは銃殺。ホルヴァートはハルビン追放。セミョーノフも亡命。人材不足の革命軍に日本が希望を託せる駒はなかった。山縣は原に撤兵をもちかけるが、原も半年前に撤兵をもちかけており、原は山縣の真意をつかみかね留保としていた。

原首相、撤兵を拒む

★原と山縣の考えは似ていたが、ウラジオストクへのこだわりという点で異なった。

※ロシアの過激主義者と朝鮮人運動家が結びつくのを避けるために原にとってウラジオストク撤退はあり得なかった。田中も同じで、実は日本は琿春(こんしゅん)、間島(かんとう)で新たな軍事行動を展開していた。

朝鮮独立運動の拠点、間島

★間島地方は三一独立運動で弾圧を避けた活動家が多く逃げ込んでいた。

※1920年春頃から紛争が多発しており、出兵を考え始めていた。もっともここは中国領。

日本軍の間島出兵

★出兵は中国の反対を無視して行われた。他国の非難を受ける。

※背景には対華二十一カ条と南満東蒙条約での間島地方も日本人と主張したこと。この地域を治める張作霖の親日的態度も出兵を可能にした。1921年1月、日華陸軍共同防敵軍事協定は廃止。中国政府に代わって張作霖を援助して北満州での権益を確保する方針が決まっていたから特に反対もしなかった

沿海州からの撤兵を遅らせた間島出兵

★間島への出兵がウラジオストクからの撤兵を拒む理由となった。

※朝鮮人の民族運動の背景にはロシア共産主義者、チェコ軍団の影も。

<第5章:沿海州からの撤兵ー1921年~1922年>

【1.極東共和国との交渉ー原敬首相の暗殺】

再びアメリカに接近するソヴィエト政府

★1920年秋、民主党は敗北し、共和党のハーディングが勝利。

※ソヴィエトはウィルソン時代には関係改善は期待できなかったと考えていた。レーニンはハーディング当選を見越してカムチャッカ半島における石炭、石油、漁業資源開発を約束にソヴィエト承認、米露防衛同盟を依頼していたが、日米を戦わせるための策略とアメリカ国内では警戒。

レーニンの誤算

★しかし、アメリカへの期待はしぼむ。

※ところが、彼が根回しをしていた鉱山技師ヴァンダーリップはハーディング政権に影響を与えられるほどの人物ではなかった。

★今度はドイツに接近。

※1921年5月に臨時通商条約。これが翌年のラパロ条約への布石。極東共和国もアメリカに頼らず日本と直接交渉に。

不評のシベリア出兵

★日本国内では各紙ともシベリア出兵批判。

外交交渉に応じた原内閣

★山縣の了解をとりつけた原は極東共和国との交渉次第で撤兵となる。

※4月10日からのジェノヴァ会議にソ連も加わっていることから、このままでは国際社会から孤立することを恐れた。

田中陸相の辞任

★田中は心臓病を理由に辞任、上原も辞職希望も上原辞職は山縣が許さず。

※宮中某重大事件で批判にさらされていたこと、裕仁親王が欧州歴訪していたことなども関係。欧州歴訪から帰ってきたが、辞任はさせず。山梨半造陸相とはなったが、「極めて平凡な人物」と言われた秋山好古参謀総長は実現せず。

極東共和国大統領の失脚

★モスクワの方針が最優先されることを物語る。

大連会議ー1921年8月~22年4月

★撤兵の代償に利権を求める日本と、撤兵なくして利権無を貫く極東共和国。隔たりは大きかった。

撤兵の代償を求める原首相

★原も当初は縮小に奮闘していたが、次第に何かしらの代償が必要と考えた。

ワシントン会議代表団への訓令

★原の基本姿勢はアメリカとの協調であったが、アメリカから何を言われてもウラジオストクや北サハリンからの無条件撤退はせず。

原首相暗殺

★1921年11月4日。犯人は18歳の山手線大塚駅職員。真相はやぶの中である。

※間もなく裕仁親王が摂政就任。翌年2月1日に山縣も死。

【2.ワシントン会議での「公約」-追い込まれた日本】

決着のついたロシアの内戦

★ロシアにおける反革命派の敗北、ワシントン会議における撤兵約束、国内での批判から1922年には撤兵を強いられる。

※反革命政府(メルクーロフ政権)も一時的にできたがすぐに追い詰められた。

ワシントン会議での撤兵「公約」

★幣原はシベリア出兵はシベリア在住の日本人の自衛のためと説明。

※しかしこれが新聞で報じられると、日本は撤兵を国際的に約束したとみなされるように。(!?)

撤兵を求める世論

★批判は強まる。

コミンテルンの指示と日本共産党

撤兵運動にはコミンテルンも一役買っていた。

※1921年7月には上海で中国共産党、翌年7月には日本共産党が発足。1922年7月に日本共産党・堺利彦らに対露非干渉運動を指示。非共産党員である与謝野晶子らも運動に参加。労働運動の高まりとも相まって当局は危機感。1923年6月5日の共産党員一斉検挙、9月1日の大震災時の弾圧は危機感の裏返し。1924年3月、弾圧に耐えかねて日本共産党解党。

【3.無条件での撤兵ー加藤友三郎首相の決断】

大連会議の決裂

★原の後任は高橋是清に。

※しかし、結局、平行線に終わり会議は決裂。

高橋内閣の総辞職

★このままでは極東共和国との一戦もあり得たが、交渉再開依頼を受け交渉再開。

※しかし、政友会の内紛で内閣改造に失敗した高橋是清は6月6日、総辞職。

加藤友三郎の組閣

重大な岐路でシベリア撤兵と軍縮を進めた加藤は現在も歴史家の評価が高い。

※元老松方正義の推薦で加藤友三郎海相が就任。加藤は政友会の党員ではないが間接的支持を得ていた。知名度は低いが、日本海海戦では東郷平八郎と共に三笠で指揮をとり、またワシントン会議では首席全権委員をつとめ、英米の政治家の信任も厚い。

【加藤友三郎】(1861~1923)

広島出身。海軍大学卒。1915年海相就任、1921年ワシントン会議で全権委任。軍縮推進し、1922年に首相就任。沿海州から撤兵を決断。国民の人気はなかったが実力は高く、英米の信任厚い。

沿海州からの撤兵決断

★加藤は撤兵をいそぐ。

沿海州各地からの撤兵

★反革命政府にとって日本軍撤兵は事実上の死刑宣告。

長春会議ー1922年9月

★会議の争点は北サハリン。尼港事件の解決と撤兵をセットにする日本側の提案にロシア側は反発。

ウラジオストク陥落

★極東共和軍による。日本が上陸してから4年3ヶ月。

「大日本帝国臣民」たちの脱出

★報復を恐れ日本人3386名はほぼ脱出(10月)。

※朝鮮人1万5000人は安全だろうとのことで政府の支給はなし。受け入れ先で混乱があったのも原因。

ロシア難民のその後

★亡命できたものはまだましで、そうでないものは収容所へ。

※神戸でチョコレート会社「モロゾフ」を創業したフョードル・モロゾフも亡命者の1人。

「出兵完了」の儀式

★1922年12月、青島からも撤兵(山梨軍縮)。余剰予算は火力と航空戦力に。外交調査会も廃止に。外交は内閣の手に。

※戦時体制を平常へ復帰させた加藤友三郎の功績は大きい。
※山縣亡きあと、陸軍主要ポストは田中派に。上原派との争いは醜いとの評判。征韓論以来の悶着とも。

ソ連誕生

★極東共和国は用済みとなりソ連に合流。

※1937年からのスターリンの粛清でクラスノシチョーコフ、ブリュッヘル、ウボレヴィッチといった極東共和国の主だった面々は粛清。シベリアの自治という点で彼らが再評価されるのはソ連崩壊後

<1921年>

  • 1・28 日華陸軍共同防敵軍事協定廃止に関し公文を交換
  • 3・8 第10回ロシア共産党大会。新経済政策(NEP)採用
  • 5・13 極東共和国との協定を結び次第、沿海州撤兵を閣議決定
  • 5・26 ウラジオストクでメルクーロフ政権が誕生
  • 8・26 極東共和国との大連会議が開催
  • 10・25 原内閣、極東共和国との軍事協定案を閣議決定
  • 11・4 原首相、東京駅で刺殺
  • 11・5 ソヴィエト政府とモンゴルが修好協定を締結
  • 11・12 ワシントン会議が開幕

<1922年>

  • 4・3 スターリン、書記長に就任
  • 4・16 大連会議が決裂 ドイツとソヴィエトがラパロ条約に調印
  • 6・23 加藤友三郎内閣が10月末までのシベリア撤兵を閣議決定
  • 7月 沿海州でヂチェリヒス将軍が権力を握る
  • 9・4 極東共和国との長春会議が開幕、同月に決裂
  • 10・25 ウラジオストクから日本軍が撤兵
  • 12・30 ソヴィエト社会主義共和国連邦が成立  

<第6章:ソ連との国交樹立へー1923年~1925年>

【1.孤立する日本ー中ソ接近への危機意識】

ソ連との交渉の立役者、後藤新平

★最後の問題は北サハリン。後藤新平が仲介役を買って出た。当時、東京市長。

後藤の秘めた目的

★後藤は東京市長を辞職してヨッフェとの交渉に臨むほど力を入れる。

※ただ、秘めた目的としては、加藤首相と内田外相が推進するアメリカ協調路線を快く思っていなかったことが挙げられる。後藤の考えは日中ソが提携して、米英に対抗するという構想であった

協力した新潟県出身者たち

★堤清六(日魯漁業現マルハ)ら協力者たちは新潟県出身者が多く、ロシアへの関心が根本にあったかも知れない。

※他にも川上俊彦、布施勝治、芳沢謙吉らもそう。もっとも、北一輝、九博士のひとり建部もそうであったため、全員が同じ意見ではない。

政府内の反対を押し切って

★最終的に「一観光客」という立場でヨッフェ来日。

東京会議ー1923年2月~7月

★ヨッフェの条件は、①相互平等の権利の保障、②法律上の対ソ承認、③北樺太からの撤兵時期の明示。日本は尼港事件の見返りとして北サハリンを1.5億くらいで売却してもらおうと話すが、モスクワは15億位と設定。

東京会議の決裂と関東大震災

★後藤に代わった川上とヨッフェの会議となるも平行線。ヨッフェは更迭されカラハンに。しかし、日本はその後、加藤友三郎首相が胃がんのため死んだこと、関東大震災で交渉どころではなくなる。

※死者・行方不明者14万人。

第2次山本内閣の消極姿勢

★山本権兵衛内閣発足となるが、交渉には消極的。

震災の救援物資とともに共産党員も入ってきたことも影響しているか?後藤は東京復興に集中。山本内閣も共産主義に共鳴する難波大助により起きた虎の門事件(1923年12月27日)で、即日辞任。

ソ連の中国接近

★1924年1月より山縣直系の司法官僚である清浦奎吾が組閣も6月で加藤高明に。

※加藤高明は憲政会総裁だが政友会、革新倶楽部も招き、「護憲三派内閣」を組織。

★2月、イギリスがソ連を承認。労働党内閣成立による。5月には中ソが国交樹立。

※1月、レーニン病死。前任のヨッフェは国民党支援だったが、カラハンは張作霖とも提携するという現実路線。モンゴルの独立承認、中東鉄道の経営にソ連も参加するなど決定。日本は焦る。

【2.北サハリン放棄と石油利権獲得】

首相としての加藤高明

日ソ交渉をまとめあげ、北サハリンからの撤兵に導いたのは加藤高明である。

※岩崎弥太郎長女を妻。政治資金豊富。原敬とはライバルでもあり、戦友。加藤の腹心である若槻禮次郎が言うには、「加藤は老人を喜ばせることができないのに対し、原はできた」と。とりわけ山縣に嫌われる。

日ソ両国の交渉方針

★北サハリン買収は交渉の条件に入れず。ポーツマス条約の効力確認、尼港事件の謝罪、富源開発権など。

北京会議ー1924年5月~1925年1月

★日本軍の撤兵がいつかが問題に。双方の妥協のもと国交樹立。

日ソ基本条約の調印

★日本は共産主義の拡大を恐れた。コミンテルンの活動禁止を示した条件も採用。

※ソ連にとっては不利のようにも見えるが、1924年11月に保守党政権が誕生して英ソが関係悪化したことで、カラハンにも焦りが出たか。南樺太、千島の領有権確認。油田は産出地の50%を与え、ソ連の取り分は産出量の5-15%など決定。7年ぶりの国交。

治安維持法の制定

★1925年4月22日、治安維持法決定。

♨選挙と関連、という面もあるが、日ソ基本条約の成果、という見方もあるんだな。

同床異夢の日ソ基本条約

★幣原は日ソ基本条約で日ソが同盟したと思われる誤解を心配し、アメリカ大使に説明。

※幣原は岩崎弥太郎四女を妻としていた。

★他方、スターリンは、「日本人が東洋においてもっとも進歩的な民族であり、抑圧された諸民族の解放に関心を抱いているのは間違いない。日本とソ連の人民の同盟は、東洋諸民族を解放する決定的な一歩となる。この同盟は、大植民地帝国と世界における帝国主義の、終わりの始まりとなるかもしれない」

※このように双方の思惑は異なった。

北サハリンの撤兵、南サハリンへの行啓

★1925年5月15日、条約通り、北サハリンから撤兵。

※日本人1700名は財産を捨てて南樺太へ。加藤内閣は日本人以外にも旅費を貸与。裕仁親王は南樺太を訪れ、本土との結びつきを示す。

北サハリンの利権獲得とその後

★唯一残された利権は石油と石炭。最初の3年は順調な経営を見せたが、その後はソ連による「圧迫の歴史」であったという。

※1937年に北樺太鉱業が操業停止、1941年に北樺太石油も日ソ中立条約の際に利権移譲。

【3.失われた人命と財貨ー7年間の戦争の結果】

日露の犠牲者数

★シベリア出兵で死亡者数は軍人だけで3333人。

※ただ、死因の1位は急性胃腸炎であったりスペインかぜであったり。病に倒れたものが多かった。死亡者数は尼港事件での民間人を含まない。ロシア側は数万単位。

日露の経済的損失

臨時軍事費として7億程度が損失。さらにロシアの借金をソヴィエトが引き継がなかったことでロシアに売った武器の費用などが回収できず民間負担となった。

機密扱いとなった史料

★陸軍は出兵にまつわる史料の公開に消極的であった。

※このため、一般人含め、何も学ぶことができなかったと言えよう。

<1923年>

  • 1・26 孫文=ヨッフェ共同宣言。ソ連の国民党支援が本格化
  • 1・29 ヨッフェが来日、後藤新平が会談
  • 3・3 レーニンが三度目の発作で倒れ、政治活動から離れる
  • 6・28 川上俊彦ポーランド公使とヨッフェの会談開始
  • 8・2 ハーディング米大統領が在任中に死去
  • 9・1 関東大震災
  • 11・8 ヒトラー、武装蜂起を企てて失敗(ミュンヘン一揆)
  • 12・27 摂政の裕仁親王が狙撃される(虎の門事件)

<1924年>

  • 1・7 清浦奎吾内閣が組閣
  • 1・21 レーニン死去
  • 2・1 イギリス(労働党内閣)、ソ連を承認
  • 5月 芳沢駐華公使とカラハン駐華全権による北京会議開始
  • 6・9 加藤高明内閣が組閣、外相は幣原喜重郎
  • 9・18 第二次奉直戦争が勃発。張作霖が北京を掌握

<1925年>

  • 1・15 トロツキーが陸海軍人民委員を解任される
  • 1・20 日ソ基本条約調印。ソ連との国交樹立。
  • 5・15 日本軍、北サハリンより撤兵 12月 ロシア共産党が全連邦共産党と改称

<終章:なぜ出兵は7年も続いたのか>

もともとは第1次世界大戦の一環として始まったシベリア出兵であるが、大戦後も長く居座り、多大なる犠牲を払うことになるが得るものはほとんどなかった。なぜこのような長期戦になってしまったのか。

考えられる原因は3つほど挙げられる。

①「統帥権の独立」

★原首相がシベリア出兵を抑制するには3つの壁が立ちはだかった。1つは首相が国務大臣に命令できないということ。そのため陸相、海相と協力関係にある、というのが大前提。(その点、田中義一、加藤友三郎は協力的であった。)2つ目の問題は参謀本部。これがことごとく反対。閣議決定を外交調査会で権威づけ押しつける形で乗り切る。3つ目は参謀本部の背後の元老。 しかし、1921年にはこれらの壁は解消できていた。それなのに撤兵できなかった理由は残りの2つ。

②親日政権の樹立に失敗

★軍事的には当初、成功していた。しかし、そもそも日本はソヴィエトを国家として認めていないので、日清日露のように国家間で条約を結ぶことができなかった。さらに戦争ではなく出兵であること、各国との共同であることが交渉による撤兵をより難しいものに。日本にある道はソビエトを国家として認め、撤兵の代わりに協定を結ぶか、ソビエトを国家として認めず、日本に有利な撤兵協定に応じる親日政権をシベリアに樹立することであるが、日本は後者をとり、失敗した。結果的にソビエト政府を過小評価したのである。

③「死者への債務」

★出兵して何も得ずでは負い目があった。自らの間違いを認めることができず、死者への債務はあらゆる時代に起きる。開戦の決定は華やかで勇ましいが終わらせることがいかに難しいかを戦争は教えてくれる。加藤友三郎が撤兵できたのは政党の利害関係がなかったから。

拡散していく出兵地域と迷走する大義

★撤兵に手間取る間に出兵地域は拡散。

※政友会、財界、新聞にも責任があるが、石橋湛山、与謝野晶子、中野正剛のように一貫して撤兵を主張していた言論人がいることも無視すべきではない。

シベリア出兵と日中戦争の類似

★ロシア難民を多く見たことは白人に対する劣等感を希薄化させたという話も。

※もっともこれは1人の軍人の回想録に依る記述であるが。

★政府の方針に軍部が抗って二重外交となったこと、さまざまな工作、特務機関、傀儡政権などシベリア出兵が起源とする研究者も。

※もっとも、軍部と政府の対立は明治維新以来たびたびある。

★緒戦で大勝するも、広大な舞台で神出鬼没の非正規軍に悩まされ、現地の住民を敵視し、結果的に四方を敵に回して兵が疲弊していく、というのは日中戦争に酷似。日中戦争はシベリア出兵に参加した多くの将校が出世して指揮をとっているが、シベリア出兵時の経験が生かされていないのがシベリア出兵のさらなる悲劇である。

★シベリア出兵は政府が軍部を従わせて撤兵に成功した最後の戦争であった。満州事変をきっかけに政府と軍部の地位は逆転。歴代の内閣で撤退を決断できるほどの指導者も欠いたことがシベリア出兵と日中戦争の違いでもあった。

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