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こんにちは。

今回ご紹介しますのは、「シベリア出兵」の第3章。

革命政権軍が破竹の勢いで領土を取り返します。

チェコ軍は戦争の名目を達成し撤退、アメリカ軍も撤退しました。

残った日本は――。

以下、読書メモです。

<第3章:赤軍の攻勢、緩衝国家の樹立ー1919年~1920年>

【1.米英仏の撤兵】

カナダの撤兵とイギリスの動揺

★カナダは国内世論からいち早く撤退。イギリス(ロイド=ジョージ)も続こうとする。

※ロイド=ジョージ首相(自由党)も撤兵を望んでいた。ソヴィエトと険悪なままではロシアからの安価な小麦輸入が不可能になると考えた。しかし、議会では保守党が、閣内ではチャーチル陸相が反対。

★「チャーチルは反ボリシェヴィキ戦争のもっとも強力かつ無責任な推進者であった」。

※ロイド=ジョージの発言。トロツキーも「チャーチルは内戦の扇動者であり、組織者であり、資金提供者であり、予言者だったのだ。資金提供者としては気前がよく、組織者としては凡庸で、予言者としてはさっぱりだったが」

チャーチル陸相の大計画

★コルチャーク退却と入れ替わるようにモスクワに進攻したのがデニーキン将軍。

デニーキンを後押ししたのが英仏。特にチャーチル。その勢いでソヴィエトを包囲してその後の国づくりまで計画していたが、国内でもバルフォア外相反対、日本も反対。(アメリカの意向を尊重するのが原首相の方針。 )

デニーキン将軍の敗北と英仏の撤兵

★チャーチルの計画は机上の空論に終わる。

※赤軍はコルチャークを追撃したあと、デニーキンも退ける。デニーキンはウクライナに逃れ、英仏も撤退。

チェコ軍の反乱

チェコ軍は民族独立のために戦っていたが、パリ講和会議で達成されたためシベリアで戦う理由がなくなった

※しかし、英仏の思惑でなかなか撤兵できず。遅々として進まない撤兵についに反旗を翻し、1919年9月28日、撤退を決める。

★のちにはコルチャークを革命政権に引き渡す。

※さらにはセミョーノフの軍隊と衝突。1920年2月7日にソヴィエトと休戦協定。日本軍とも関係悪化し銃撃戦を行うことも。1920年9月に撤退完了。

アメリカの撤兵通告

★ついにアメリカも撤兵。

※原内閣にとっては衝撃。しかも打ち切りの通告は故意ではないにせよ国際慣行に反したものだった。日本軍の駐留は認めさせる。日米共同出兵は最後までかみあわなかった

【2.日本軍の独行ーアムール州からの撤退、沿海州の制圧】

撤兵するためにも追加の派兵を

★原は大規模な撤兵と小規模な増派を同時進行させることを思いつく。

※軽々しく撤兵することはできないとした。

撤兵を胸に秘めつつ

★この方針は内密に行われた。

ウラジオストクの政変

★沿海州も革命軍の手に。

日本軍のアムール州撤退

★ハバロフスクも革命派の手に。アムール州も。

中国軍に追放されたホルヴァート

★コルチャーク政権が崩壊するとホルヴァートは独立。しかし中国がみとめず。追放。

※日本は応援要請されたがシベリア出兵継続のため中国との協調を保つことを優先して動かず。

日本軍による沿海州制圧

★アメリカ撤兵後、日本は沿海州臨時政府と強気の交渉行うも、調印前夜、襲撃を受け応戦。

※翌日までにシベリア鉄道沿線のパルチザンを武装解除。

原首相の落胆

結局ウラジオ派遣軍は沿海州を武力制圧。これは東京では寝耳に水。

※現地軍と内閣の意向もかみあわなかった。

【3.極東共和国の建国ーザバイカル州からの撤兵】

日本への交渉よびかけ

★日本軍の沿海州への駐留継続が確実になるとソヴィエトは武力ではなく外交によって撤兵を試みる。

※具体的には極東における日本の特別な経済的・通商的利益を認めるという下手に出たものであった(1920年2月14日)。しかし、この直後に尼港事件、沿海州で日本軍による武装解除もあって実らず。ソヴィエトはヨーロッパで苦境に立たされていたことも一因。新生ポーランドとの戦争は1920年4月25日から開始。

極東共和国建国へ

1920年4月6日、赤軍によって占領されたばかりのヴェルフネウヂンスクで極東共和国の建国が宣言された

※緩衝国家としたが、極東共和国軍は建国するとすぐにセミョーノフの根拠地チタへ進軍を求めた。レーニンは日本軍との衝突をあくまでも避けるため却下。

ザバイカル州からの撤兵へ

★コルチャーク政権崩壊後、原首相はザバイカル州から撤収。

原首相の参謀本部批判

閣議決定に逆らいを見せる参謀本部に原は怒り

※背後には山縣有朋の影。田中は閣僚としての立場を優先し撤兵。これは田中辞任の伏線になる。

高橋蔵相の参謀本部廃止論

★高橋蔵相も怒っていた。参謀本部廃止論を原に訴える

※第1次世界大戦でのドイツの例を引き合いに。これは内密にするべきであったが漏れてしまい山縣も少々興奮。

赤軍の攻勢とセミョーノフの亡命

★赤軍とポーランドは10月に休戦。ポーランド軍と共に赤軍と戦っていた反革命軍は赤軍に敗北。

※リーダーはベルギーに亡命。つづいてセミョーノフも攻撃を受けて満州に逃げ、中国軍により沿海州に送られる。なおセミョーノフは1930年代には満州国に腰を落ち着けたが、1945年8月に満州に侵攻したソ連軍により大連で逮捕され、翌年モスクワで絞首刑となった。

【年表】<1920年3月~12月>

  • 3・12 ニコラエフスクの日本軍がパルチザンを襲撃
  • 4・1 アメリカ軍、シベリアからの撤兵完了
  • 4・4 日本が沿海州の武装解除を開始
  • 4・6 極東共和国建国
  • 4・25 ソヴィエト政府とポーランドが開戦
  • 5・24 3-5月にかけて尼港事件
  • 6・3 ニコラエフスクに日本の救援部隊が到着
  • 7・3 北サハリン占領とザバイカル州撤兵を官報で告示
  • 7・9 尼港事件首謀者トリャピーツィンが銃殺される
  • 7・12 中国軍がウスリー地方より撤兵
  • 7・15 日本軍と極東共和国が停戦協定を結ぶ
  • 7・21 日本軍、ザバイカル州から撤兵開始
  • 8・15 赤軍がワルシャワ攻略に失敗
  • 10・12 ポーランドとソヴィエトが停戦
  • 10・21 極東共和国軍がチタ占領。セミョーノフは中国に亡命
  • 12・8 山縣有朋、原敬に北サハリンを除く撤兵を助言

【尼港事件】(次章)

アムール河河口、ニコラエフスクで赤軍パルチザンがニコラエフスク在住日本人を虐殺した事件。

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