こんにちは。
今回ご紹介しますのは、「南北朝時代第2期㉕:1355年」です。
足利直冬ら南朝軍は入京しますが、
それこそ尊氏の作戦通り。
幕府軍の挟撃により、直冬は撤退を余儀なくされます。
文和4年(1355年)年表
1/16 | 桃井直常・桃井直信・斯波氏頼ら北陸勢が入京 |
1/20 | 足利尊氏、武佐寺を発して京都に進撃開始 ※瀬田の橋を破壊。あえて退路を断つ。 |
1/22 | 足利直冬、石塔頼房・山名時氏ら中国勢を率いて入京 ※平安京大極殿跡に布陣する。 ※仁木頼章は丹波国にいたが、一戦も交えず通過を許したため世間の嘲笑を買う。しかし、これは【京都を一度明け渡してから包囲する】という尊氏の戦略に基づいてのことであろう。 |
1/24 | 足利義詮、反転し、摂津国宿河原に進出。 |
1/25 | 足利直冬、東寺実相院に本陣を定める。 |
1/29 | 足利尊氏、比叡山に入城 |
2/3 | 足利尊氏、比叡山を下りて西坂本に布陣 |
2/6 | 足利尊氏、六条河原・七条河原に進出 ※仁木頼章も嵐山に布陣。 |
2/6 | 神南(こうない)の戦い(~第6次京都合戦の幕開け~) ※摂津国神南山(こうないやま:現大阪府高槻市神内)で大規模な戦闘。幕府軍圧勝。 ※幕府軍…足利義詮、佐々木道誉、赤松則祐、細川頼之 ※直冬軍…山名時氏、山名師義、石塔頼房、楠木正儀 |
2/8 | 錦小路猪熊大宮付近で尊氏軍と直冬軍で戦闘。 ※当初は互角。しかし、義詮軍が西から攻めてきたことで直冬軍が劣勢に。 ※執事・仁木頼章は傍観するだけ。かつて打出浜の戦いでは執事・高師直が最前線に出て、尊氏が傍観していたが、今回は尊氏が最前線に。 |
3/12 | 足利尊氏、直冬の本陣、東寺に突入 ※佐々木六角氏頼は光厳上皇の警備にあたっていたが、居ても立っても居られなくなり敵陣に突撃 ※細川清氏は敵陣を破る大活躍をするも負傷。尊氏は清氏のもとへ行き、自らの鎧を与える。尊氏はあえて高矢倉にのぼり、敵の標的となって味方を鼓舞もした。(※ただ、細川清氏はその後、義詮の執事となるも失脚して南朝へ) ※足利直冬、八幡へ撤退。直冬の敗因は「尊氏と本気で戦う意志を持たなかったため」というのが定説。 ※以後、直冬は中国地方の一弱小勢力に転じ、細々と反幕活動を行いながら、1400年頃まで生きたとされる。 |
4/25 | 畠山直顕(直冬派@日向国)、尊氏に降伏 |
8/8 | 南朝に幽閉されていた光明上皇、北朝へ返される ※光厳上皇(兄)、崇光上皇(光厳天皇第1皇子)、皇太子直仁親王(光厳天皇第2皇子)は捕らえられたまま。 |
なんや。簡単に入京できた。
仁木頼章なんてビビってたもんな。
うーん、上手くいきすぎてる、、
あの父親のことだ。なんか嫌な気がする。。。
義詮、そろそろだ!
はい!父上!
ヤバい!!
挟み撃ちにあった!!
直冬、お前は俺によく似ていて戦の天才かも知れん。
だからこそ今のうちに芽を摘まないといけないんだよ。
私は父上に認めてもらえさえすれば良かったんですが。。。
あと、俺のかあちゃん怖えからな。
認知するわけにはいかないのよ。
すまんな、戦乱の世とはいえ。
あ、直冬どの発見、
斬り込んでやるー!
うわ、なんかヤバいの来たっ!
全軍撤退!!
うーん、足利ブランドも通じなかったか。。
しょうがない、うちらはうちらでやるしかない。。