~「もう一つ上の日本史」出版に伴い、勉強方法も変える必要が出たので、全面改訂突入します~

昭和史講義
『§14.聖断と終戦の政治過程』
(鈴木多聞先生)

【これまでの理解】

★原爆投下で大打撃を受けたうえにソ連参戦で敗戦の可能性が高くなったことでポツダム宣言の受け入れを決意。

【新たにまとめるとすれば】

★6月8日の御前会議の決定どおり、本土決戦となって東京が危ういとなったら天皇は長野県松代に移動する計画がなされていた。
★日ソ中立条約を結んでいるソ連には仲介を頼んだが、ソ連に裏切られた。8月9日、ソ連参戦。2つの原爆とソ連参戦、どちらがポツダム宣言受諾に影響を与えたのか、またはそれらではなく、松代遷都なのか石油が切れたことなのかなどは議論のわかれるところである。
★いずれにしてもソ連参戦からポツダム宣言受諾まで連合国が予想していたよりも早かった。
★天皇は国内クーデターも起こらないように配慮しなければならなかった。
★最終的に8月14日、ポツダム宣言受諾、8月15日、玉音放送。(降伏文書調印は9月2日である)

♨昭和後期生まれの感覚だと、昭和天皇は政治に関わらない、というイメージがあったが、今回、いろいろと勉強するにあたってそれはとんでもなかった。昭和天皇が指導力を発揮していなければ、本当に日本が消滅していたかも知れないし、もっと指導力を発揮していれば戦争が起きなかったかも知れない。(ただし、クーデターが起きていたかもしれない。)天皇のまわりではかなり高度な政治判断が行われていたということがわかった。

【関連年表(1945年)】

4月7日 鈴木貫太郎が首相に就任。
5月7日 ドイツが降伏。
5月8日 トルーマン大統領が日本に降伏勧告。
5月11日 密かに六巨頭会議(首相、外相、陸相、海相、参謀総長、軍令部総長)
6月8日 御前会議(本土決戦方針を決定)
6月13日 昭和天皇、沖縄の海軍守備隊玉砕を知る。また、大本営の長野移動計画を知る。
6月22日 秘密御前会議(対ソ外交交渉を決定)
7月13日 ソ連に仲介の申し入れ
7月27日 ポツダム宣言受信
7月31日 昭和天皇と内大臣木戸幸一は、三種の神器の移動について話し合う。
8月6日 広島への原爆投下
8月9日 ソ連の対日参戦、長崎への原爆投下
8月10日 1回御前会議(国体護持を条件にポツダム宣言受諾)
8月13日 日本側申し入れと連合国回答文を印刷した降伏勧告ビラが東京に撒かれる
8月14日 2回御前会議(連合国回答文の受諾を決定)
8月15日 玉音放送

【原爆投下とソ連参戦の時期が重なること】

★両者が降伏に与えた影響は区別しづらい。

★原爆要因を重視する論者は終戦には原爆は必要であったとし、ソ連要因を重視する論者は原爆を不要であったとする。

【御前会議の政治的役割】

★降伏を決定するための御前会議は2度開かれたが、このときの2度の聖断が政治の流れを左右した。

★なぜもっと早く聖断できなかったのかという論争がある。

★聖断を成功とする論者は天皇の政治指導を評価し、遅すぎたとする論者は天皇の責任に言及する。

★1週間という短い時間の中でポツダム宣言の受諾が決定したことも注目に値する。

【昭和天皇の降伏理由は2つあった】

★1つは本土決戦を行えば日本民族が亡びてしまうということ。

★もう1つは三種の神器の移動が間に合わないため国体が護持できないこと。

★6月8日の御前会議では、戦争目的が「国体を護持し皇土を保衛し征戦目的の達成を期す」と再定義された。

★実は戦争に必要な石油がなくなりかけており、国力は秋ごろまでが限界であった。

【長野県松代への遷都】

★6月13日、大本営の移動計画を知る。

★従来の研究ではあまり重要視されていないが、昭和天皇により大きなショックを与えたのは松代大本営の存在そのものよりも、松代へ移動する時期が迫っていたことであった可能性が高い。

★昭和天皇はこの時期から体調を崩し、嘔吐と下痢を繰り返す。

★母の貞明皇太后に軽井沢への疎開をすすめた。(→8月20日と決定)

★松代へ移動する時期は実はわかっていない。

★7月中旬から輸送を開始するという計画であったが、7月の直前になって延期することになったという。

★三種の神器は岐阜県高山の水無神社に移動させる予定であったそうだ。

【秘密御前会議】

★昭和天皇の発意である。

★軍事と並行して外交を指示。

★ソ連に和平の仲介を申し入れることに。

★しかし、この時にはすでにソ連は対日参戦をアメリカに約束していた。

【ポツダム宣言】

★日本の降伏が無条件降伏であったかは研究者の間でも解釈がわかれる。

★条件が書かれているではないか、という声もある。

★それよりも重要なのはポツダム宣言にソ連が加入していないことである。

★天皇制に関する言及もない。

★鈴木首相は記者会見で「黙殺」という言葉を発したが、最近の研究では記者会見よりも前にメディアが「政府は黙殺」と書いている。これはおそらく2年前のカイロ宣言が影響しているのか。(このときも「政府は黙殺」)

★日本はソ連の回答を待ち続けていたが、日本がポツダム宣言を黙殺したことで原爆投下、ソ連参戦に口実を与えてしまった。

【ソ連の対日参戦】

★日本はソ連参戦の兆候をつかんでいた。【小野寺少将:コチラも

日本の予想がはずれたのはソ連参戦の有無ではなく、ソ連参戦の時期の問題であった

★8月9日は日本の運命を左右した24時間であった。午前10時に最高戦争指導会議が開かれ、午後には臨時閣議会議が2度も開かれたが、22時を過ぎても意見がまとまらなかった。閣議では阿南陸相と米内海相が激しく言い争った。【劇画はコチラ

【第1回御前会議】

★10日0時3分より開始。

★国体護持には4条件(国体護持、自主的武装解除、自主的戦犯処刑、保障占領拒否)が必要とする阿南陸相、梅津参謀総長、豊田軍令部総長に対し、米内海相、東郷外相、平沼枢相は国体護持のみでポツダム宣言を受諾すべきと言った。

★午前2時ごろ、昭和天皇は明確に外相案に賛成すると述べた。

★これが1度目の聖断。本土決戦に勝てないのでポツダム宣言を条件付(国体護持)で受諾するというロジックであった。

★ただ、「天皇の国家統治の大権」というのは日本語でも難しく、これを英語にするのも難しい。

★それに対する米国の回答(国家統治の権限が連合国最高司令官のものになることと、日本国の国体は日本国民の自由に表明された意思によって決定する)も訳するのが難しく、国体論者を刺激し、国内情勢は崩壊の危機に直面した。

★陸海軍両総長は受諾反対の上奏。

【国内クーデターの可能性】

★昭和天皇は国民が自由に意思を表明する場合、国体は変更しないであろうと考えていた。

★しかし、陸軍内部では国体を護持するためのクーデターが計画されていた。

13日に東京に撒布された日本側申し入れと連合国回答文を印刷した降伏勧告ビラを見た昭和天皇はクーデターが起こると直感した

鈴木首相を呼び、すぐに会議を開くよう指示

【第2回御前会議】

★天皇の発意で14日午前11時2分、開かれた。

★天皇は涙を流して受諾することを聖断。

★この時期、みな、ほぼ不眠不休で任務に当たっていた。

★天皇の聖断は御前会議の結果というより、「積み重なった軍部への不信感の表現」(陸軍河辺次長)という考え方も存在する。

次章は最終章。アメリカの対日戦後政策の変遷