昭和史講義
『§15.日本占領~アメリカの対日政策の国際的背景』
(井口治夫先生)
【これまでの理解】
【新たな理解】
★日露戦争以降、米国がアジアのパートナーとして日本を選ばなかったのは1937年~1947年までの約10年間だけである。
★日本の地位を復活させるにあたり、フーヴァー元大統領らの知日派の影響は大きい。
【関連年表】
日本 | アジア | アメリカ | |
1936 | 西安事件(国共合作) | ||
1937 | 日中戦争 | 日中戦争 | |
1941 | 日米開戦 | 日米開戦 | |
1944 | 一号作戦で沿岸部を奪われる | 蒋介石政権の軍事力に幻滅 国際連合組織化 | |
1945 | ポツダム宣言受諾 | ヤルタ会談 ルーズヴェルト大統領急逝、トルーマン昇任 | |
1946 | 第2次国共内戦 | フォレスタル国防長官に見出され国務省政策企画室長ケナンが台頭 | |
1947 | マーシャルプラン発表 | ||
1948 | 国民党軍劣勢に | 対日経済政策転換 | |
1949 | 中華人民共和国誕生 | ||
1950 | 中ソ同盟 朝鮮戦争勃発 | 朝鮮戦争勃発 | |
1951 | サンフランシスコ講和条約 |
【戦後日本の運命を握ったのカギは「冷戦」と「中国情勢」】
★日露戦争以降で米国が日本を東アジアにおけるパートナーとしなかった時代は1937年から1947年までの約10年間だけ。
★これには日米開戦と蒋介石の動向、大戦終結後の冷戦構造などが影響している。
★もし、この10年間、当事の米国の構想が実現されたなら中華民国は東アジアのリーダーとして君臨し、日本に対して賠償請求や経済復興のあり方まで様々な干渉をしてきたに違いない。
(♨そうなっていたら今のような日本の姿などない。)
【満州】
★満州の重工業化の成功は米国資本の満州導入にかかっていると、鮎川義介率いる満州重工業発足直後から在奉天米国総領事館員ジョン・P・デーヴィスは分析していた。
★鮎川は米国に満州国を認めさせて投資を流入させる構想をもっていたが、米国はこれをよしとせず。その後、日米関係は悪化。
【日米開戦】
★日本を枢軸国から離脱させようとしたユダヤ系財界人もいたが、大統領と国務長官は日本の外交機密電文から日本が枢軸国を離脱する意思がなく、対米開戦の意思があることを察知していた。
★(+戦争準備が完了する1942年春まで、対日開戦を先送りしようと考えていたが、貫徹できなかった。)
【蒋介石と米国の本当の関係】
★戦時中、米国は東アジアのパートナーとして中華民国を考えていたが、両者は緊密とはいえなかった。
★1945年2月のヤルタ会談に蒋介石は招待されず、米国がソ連の中国への権益要求を認めていたことにも現れている。
★1944年春からの日本陸軍による「一号作戦」で中国沿岸部は再び日本のものとなったことなどより、米国は蒋介石政権の軍事的能力に幻滅していた。
★蒋介石の軍事顧問をしていたジョセフ・スティルウェルを中国方面総軍司令官への任命を検討していたが、蒋介石はこれを拒否。受け入れなければ、対中軍事支援を打ち切るとしていたにも関わらずである。スティルウェルは更迭され、総軍司令官は蒋介石が居座った。
★軍事支援は引き続き行われた。
★蒋介石を総司令官から追い払う目的は中国が日本と単独講和を結ぶことを阻止するという一面があった。
【米国と共産党の関係】
★同じ頃、米国政府と米国陸軍は重慶駐在の外交官ジョセフ・P・デーヴィス(≠前述のジョン・P・デーヴィス)を中心に延安の共産党への軍事支援を検討していた。
★共産党軍の対日ゲリラ作戦の成功例に注目していた。
★結局実現しなかった。
★米国は中国の安定化のために国民党と共産党の連立政権実現を目指したが、蒋介石は消極的姿勢を見せ、米国はこれを是正することができなかった。
【日本のポツダム宣言受諾】
★想定したより日本のポツダム宣言受諾は早かった。
★もう少し長引けば海軍が後押ししていたニミッツ提督が最高司令官に就任していたかもしれない。
★(しかし、もう少し長引けば上陸前に核兵器を使用していたであろうし、化学兵器も使用していたかも知れず、良かった。)
★米国は中国大陸におけるソ連の満州占領と共産党勢力拡大を容認していた。
★蒋介石政権は満州の工場設備などは中国の領土にあるのだから中国のものであると主張したが、ソ連は日本の設備だからソ連のものだと主張した。
【枢軸国の重化学工場設備】
★モーゲンソー財務長官によるドイツを農業国にするという案もあったが却下された。
★枢軸国の重化学工場復活を連合国は認めておらず、海外へ移設される可能性は高かったが、冷戦勃発により低くなった。
★1947年のマーシャル・プランで移設の動きはさらに後退した。
【マッカーサーの早期講和論】
★中国情勢については国民党は腐敗などさまざまな問題を抱えているが引き続き支援すべきと論じた。
★日本は最西端の対ソ防衛線の一部にするべきと提言していた。
★この見解は1947年のマッカーサーの早期講和論の前提となった。
【1948年】
★米国の対日経済政策の転換が公表された。【蔭山先生のコチラも秀逸】
★同時期、国共内戦において国民党軍は劣勢に。
【1949年】
★10月、中華人民共和国誕生。中華民国は台湾における地方政権へと凋落した。
【1950年】
★2月、中ソ同盟誕生。
★中華人民共和国をソ連から引き離す努力を行ったが無理だった。ソ連から引き離すことをユーゴスラビアの例をとって「チトー化」という。(♨倉山満先生によれば、個々の戦闘能力はユーゴスラビア>ソ連となるが。)
★つまり、米国は蒋介石を見放した。
【ケナンの封じ込め政策】
★世界経済を支える設備をもつ米国、西欧、東欧、ソ連、日本のうち、米国は西欧と日本をまず影響下に置くという政策を掲げた。
★蒋介石は米国のマスコミや政界に食い込んでいたが、ケナンは世論から遮断された状態で外交政策を立案した。
♨「南京大虐殺」なんていうのも完全にマスコミに食い込んでいた結果。

wikipediaより。在任期間は短いが、封じ込め作戦の理論的指導者。
【戦後日本の転換点】
★1つは米ソ対立であるが、見落とされがちなのは中国国民党政権の混乱、弱体化である。1946年以降の第2次国共内戦で国民党政権が弱体化したために米国は日本重視に回帰した。
★それにより日本は重化学工業の発展を伴いつつ経済復興を成し遂げた。
★米国は日本の施設を中国や東南アジアに移転する計画をもっていたが、撤回した。
【ケナンとドレイパー】
★ケナンとともに対日政策の転換を推進したのはウィリアム・ドレイパー。
★ドイツ工業の復活を促す占領政策を実現した。
★フーヴァー元大統領、米国内知日派グループがこれを支援。
★彼らはマッカーサーの政策にも日本経済早期復興の必要性から批判的であった。
★グループの1人である弁護士のジェームズ・コフマンは戦前から日本で弁護士活動をしており、戦後も日米に事務所を構えて法務活動を行った。
【サンフランシスコ講和条約】
★朝鮮戦争勃発もあり日本の重化学工業は復活したが、その持続的発展を可能にしたのは米国が主導したサンフランシスコ講和条約と、日米通商航海条約の締結、ブレトン=ウッズ体制への参加であった。
★(ブレトン=ウッズ体制・・・国際通貨基金、世界銀行、関税と貿易に関する一般協定)
★サンフランシスコ講和条約は2つの中国、ソ連などが署名しなかった片面講和だったが、吉田首相は国会と国民に事前に説明せずに締結。
★さらに朝鮮戦争が続く中、日米安全保障条約に署名。米軍の駐留と基地の提供を認めた。
【吉田茂首相と中華民国】
★経済界は中華人民共和国との国交樹立を望んだが、吉田首相は中華民国との国交樹立を選択した。
★中華民国は対日請求権を放棄して日華条約を締結した。
【吉田茂首相と米国】
★米国政府の大規模な再軍備圧力に屈せず、軽武装路線と専守防衛の姿勢を維持した。
★1953年、アイゼンハワーが大統領になり、米国を中心にした集団安全保障の枠組みに入る可能性もあったが、抵抗した。
【米国と台湾】
★朝鮮戦争終結後、米国と台湾は安全保障条約を締結。
★これにより蒋介石が中国本土に侵攻しないかと危惧したため、誓約書を書かせた。
★以後、ニクソン訪中まで台湾はロビー活動を通して米国内の日本ロビーとも連携し、米中国交正常化を遅らせた。
【日米の交流】
★中華民国の凋落のおかげで日本は米国市場へアクセスすることができ、世界銀行からドルを借り受け、米国企業の技術、設備などを吸収することができた。
★もし、サンフランシスコ講和条約で全面講和をしていたとすれば、それができたかわからない。
★(♨「フィンランド化」していた可能性があるという。つまり議会制、資本主義をとりつつも共産圏、という感じ。当然、中ソから世界最先端の技術の習得は不可能。)
★米国の外交・安全保障政策で日本重視の潮流を形成したのは、日本経済の有用性を認識していたフーヴァーや、ドレイパー、フォレスタルのようなディロン・リード投資銀行元幹部ら。
★1930年代、日本は米国経済界とのネットワーク構築に失敗し、戦争への道を進んだ。日米の友好関係を強めるには層の厚い日米経済文化交流が望ましい。

フーヴァー元大統領。世界恐慌のときの大統領、というのが有名だが、それだけではない。写真はwikipediaより。