【まずはコレ!厳選5冊】に入れても良いと思うくらい。戦後史はこれ1冊でOKと思う。紹介は【コチラ】。
今まで「戦後の復興」は「朝鮮戦争特需」によるものと思っていたが、その2年前のGHQ内部での抗争によりGS(民政局)からG2(参謀第2部)へ権力が移行したことが重要。
これにより、それまで道路一本すらまともに作らせてもらえなかった日本が、「反共の砦」としてアメリカン・ファミリーに加わったのだ。
「戦後日本史は軸がないけど、アメリカを軸と考えるとわかりやすい」
という。
戦後史をわかりやすく説明する本として、この本を上回るものはなかなかない。
はじめに
日本の戦後史には主体的な軸がなく、一見不可解なものに見えても、「アメリカの国益のための行動」という観点から見れば納得のいくことが多い。そもそも、駐留しているのがロシアや中国であれば間違いなく恐怖で足がすくむが、アメリカではそうならないのは何故だろうか。アメリカとの関係を軸に戦後史を見ていくとわかりやすい。
第1次世界大戦後の中国進出は、ソ連から欧米の利権を守ることにもつながるので欧米はある程度は黙認していたが、「中国を独り占め」することには危機感を抱いていた。その後、日独伊で手を組み、仏領インドシナへ進出したことは「英米敵視政策」とみられ、禁輸政策につながり追い込まれて「南方作戦」、「真珠湾攻撃」とつながり、太平洋戦争へとつながった。
【1】今の日本をつくった米軍占領下のシナリオ(1945-52)
[key words: GHQ政策、東京裁判、GSとG2、吉田茂外交、ドッジ・ライン、日米安保条約]
【年表】
【1945年】
- 鈴木貫太郎→東久邇宮稔彦王
- ポツダム宣言受諾、敗戦 GHQ設置、マッカーサー来日(8/30)
- 米戦艦ミズーリ号にて降伏文書調印(9/2)
- 財閥解体・農地解放令、労働組合法公布
【1946年】
- 幣原喜重郎→吉田茂
- 天皇「人間宣言」 公職追放令が公布・実施(→第一党総裁鳩山一郎が失脚)
- 極東軍事裁判(東京裁判)開廷
- 日本国憲法公布
【1947年】
- →片山哲(社会党)
- 教育基本法公布、労働基準法公布
- 新憲法施行
- 民間貿易再開
- 山口良忠判事、栄養失調で死亡
【1948年】
- →芦田均(民主党)→吉田茂 ※トルーマン再選
- 昭和電工事件(芦田均およびGS失脚、G2台頭)
- 極東軍事裁判判決で7人が絞首刑
- GHQ、経済安定9原則発表(→反動デフレ)
- 岸信介らA級戦犯19人を釈放
【1949年】
- 吉田茂(~1954年)
- 法隆寺金堂の炎上
- 日本経済安定策(ドッジ・ライン)発表
- 単一為替レート「1ドル=360円」設定
- 湯川秀樹、ノーベル物理学賞受賞
【1950年】
- 社会党、左右両派に分裂
- 朝鮮戦争始まる(デフレ解消)
- 警察予備隊設置(7万5000人雇用)
- 池田勇人蔵相「貧乏人は麦を食え」発言
【1951年】
- 公職追放解除本格化
- IOC、ユネスコ、日本の加盟を承認
- マッカーサー、連合軍最高司令官罷免(原爆使用拒否される)
- サンフランシスコ講和条約(片面講和)、日米安全保障条約調印
【1952年】
- 日米行政協定調印
- 琉球政府発足
- 日米安全保障条約発効。GHQ廃止。
- 保安隊発足
【ダグラス・マッカーサー】
ルソンの戦いで日本軍に敗れ、7万人以上の兵士を残してオーストラリアに逃亡。バターン半島に取り残された兵士たちは収容所までの移動の際にマラリアや疲労で2万人近くが死亡。「バターン死の行軍」として知られる。
【GHQ】
連合国最高司令官総司令部。ポツダム宣言執行のために造られた機関で、11か国からなる「極東委員会」の下に設置。最高司令官がマッカーサー。GHQメンバーの半数がアメリカ人で、事実上はアメリカ主導。
【GHQはなぜ民主化を選択したか】
軍事的には弱体化するからである。良い政策が多いが、これで強くなるか弱くなるかというと、弱くなる。「強い求心力のあるリーダーの下、強力な軍事力を持つ政府が野心的に市場拡大を狙う財閥と結託して植民地拡大を図り、国民生活を統制する国家」と戦前戦中の日本は見られていたからだ。そして、
利用価値の高い国は乱暴に組み伏せるより無傷のまま従順にする方が良い。
ゆくゆくはアメリカが欲しい工業製品を作らせ、アメリカで余った食糧を買わせ、そして反共の砦として必要。
<GHQの民主化政策>
- 軍隊の武装解除、特高警察廃止、治安維持法廃止 →軍国主義の廃止
- 軍需産業の解体と中間賠償、在外資産の没収 →ドイツの失敗例から巨額賠償金を求めない
- 財閥の解体 →軍国主義のスポンサーだったから
- 農地改革 →タテ社会の解体、小作農から自作農へ
- 労働組合の育成 →資本家を弱体化させ輸出競争力ダウンへ
- 憲法の改正 →民主的な憲法へ
- 天皇を国家元首から「象徴」へ、天皇制は存続 →間接統治で利用
- 民主的な戦後教育 →戦争への反省・罪悪感の植え付け(WGIP)
- 言論および新聞の自由 →ただしプレスコードを発布しGHQ批判等は厳禁
- 武装解除、公職追放…軍隊の武装解除を行ったのち、「公職追放」を行い、戦争協力者を国家の中枢から排除。鳩山一郎も追放された。
★東京裁判は1946年から1948年にかけて行われた。「A級裁判」とは「平和に対する罪」のことである。開戦時の首相、東条英機ほか、広田弘毅(元首相)、板垣征四郎(元陸軍大将)ら7名に死刑判決、小磯国昭(元首相)、平沼騏一郎(元首相)、梅津美治郎(元陸軍大将)ら7名が獄死。近衛文麿は開廷前に自殺。重光葵(元外相)、木戸幸一(元内相)、岸信介(開戦時の商工大臣として宣戦布告文書に署名)のように後に回復した人もいる。
★莫大な戦後賠償はなかったものの、国内の軍需関連工場や機械をかつて日本が支配したアジアの国々にそのまま譲渡する「中間賠償」、そして「在外資産」をその国に差し押さえられる「在外資産賠償」により不況時の生活レベルに逆戻りした。
★憲法はいわゆる「松本案」のあと、「9日間」で作られたというが、怪しいのではないか。最初から作成されていたのではないだろうか。
★教育面において、かつては「皇国史観」に基づく教育が徹底されていたが、以後はGHQにより管理されることとなり、軍国主義的な思想をもつ教員と官僚は教育現場から追放された。「教育勅語」も廃止。道徳、日本史、地理の授業はしばらく教えられなかった。宗教教育は私立高校では禁止されなかった。
【ヤルタ会談】
1945年2月に行われた米英ソの首脳会談。ルーズベルトとスターリンの間で「ソ連が対日参戦すれば、その見返りに樺太と千島列島を譲る」という密約が交わされた。
【庶民の暮らし】
戦死者は270万人、家を失った人900万人、植民地からの引揚者600万人。食糧は足りない。インフレはすさまじい。配給も続けられたが全然足りない。「法の番人として配給食糧以外は食わない」と宣言し餓死した山口良忠裁判官の話は有名(ということは、他の生き残った裁判官は食べていたのだろう。)闇市、買い出し列車などが連日にぎわう。
【GHQの内部分裂】
GHQにある「民政局(GS)」と「参謀第2部(G2)」と2つの部署は対立していた。最初に力を持ったのはGSで、マッカーサーの側近のコートニー・ホイットニー准将を中心に、「革新」により弱体化を狙った。そのため日本国憲法、労働組合の育成、共産党幹部の釈放、片山哲の首相推薦などを行った。
しかし、汚職を生み、G2が台頭。反共のチャールズ・ウィロビー少将を中心に日本を「反共の砦」とすることをトルーマンに提案。それにより、アメリカン・ファミリーに迎えられ、アメリカに役に立つように体力をつけ直させてもらうことになった。
いわゆるGHQの右旋回である。
マッカーサーが弱体化路線をとっていた時は道路一本すら作らせてくれなかったが、アメリカの方針転換により戦後復興がされた。
♨今まで戦後の日本の復興は朝鮮戦争による特需かと思っていたけど、そうではなかった!GHQの「まわれ右」こと、GS(民政局)からG2(参謀第2部)への権力の移行による方針転換だったんだ。昭和電工事件で首相が芦田均(民主党)から吉田茂にもどったのもそれ。
【日米安保】
サンフランシスコ講和条約の後に行われた。反発を恐れて吉田茂1人で調印。「米軍基地の提供範囲・日本の費用負担・犯罪者への裁判権」が規定された。
【2】協調か独立か?日本の行く末をめぐる攻防戦(1953-60)
[key words:神武景気、なべ底不況、五五年体制、日ソ共同宣言、新安保条約、安保闘争]【年表】
【1953年】
- 李承晩ラインに出漁し射殺され問題に
- スターリン暴落(スターリンの死で株価暴落)
- 吉田首相「バカヤロー解散」
- 奄美群島返還
【1954年】
- 吉田茂→鳩山一郎(~1956年)
- 第5福竜丸事件と原水爆禁止運動、洞爺湖事故
- 自衛隊誕生 「ゴジラ」封切
- 日本民主党結成(鳩山一郎・岸信介・重光葵ら)
【1955年】
- 砂川基地闘争 ※「原子力基本法」
- 森永砒素ミルク事件
- GATT(関税と貿易に関する一般協定)に加盟
- 自由民主党結成、「55年体制」スタート
【1956年】
- 鳩山一郎→石橋湛山
- 沖縄問題解決国民総決起大会
- 「もはや戦後ではない」が流行語に
- 日ソ国交回復共同宣言(鳩山)
- 国連に加盟
【1957年】
- →岸信介(1960年)
- 岸・アイゼンハワー共同声明「日米新時代来る」
- 東京都の人口世界一に
- 東海村原子炉に日本初の「原子の火」がともる
- ソ連、世界初の人工衛星「スプートニク号」打ち上げ成功
【1958年】
- 国連安保理事会の非常任理事国に
- 国立競技場完成
- 売春防止法実施
- 東京タワー完成
【1959年】
- 皇太子ご成婚
- 国民年金制度発足
- 水俣病問題活発に
- 労働条件の向上を目指した「三井三池争議」始まる
【1960年】
- 岸信介→池田勇人
- 日米新安保条約調印
- ハガチー事件(米報道官がデモ隊に包囲される)
- 全学連、国会で機動隊と衝突。樺美智子さん死亡。
- 大規模な国会デモ。日米新安保条約が自然承認。
【神武景気】
1953年から73年にかけての20年間が日本の高度経済成長期である。朝鮮戦争により繊維系企業に生じた特需は「糸へん景気」と呼ぶ。繊維系以外でも三菱重工、富士重工などの旧財閥もこの時期に復活した。とはいうものの日本企業は生産力のなさを痛感し、「設備投資」に力を入れる。1954年から57年までは「神武景気」と呼ばれ、産業が活性化。
【なべ底不況】
しかし、神武景気は長続きせず。要は「買い物」ばかりしていたからである。固定相場制の影響もあり、「好況で 円はあるのに ドルはない」といった状況で国際収支の天井にぶつかっていた。日銀は公定歩合を引き上げ、通貨交換も制限があったため、日本は自らの手で好況を終わらせた。1957年~58年は「なべ底不況」と呼ばれる。
【吉田vs鳩山】
吉田が言った「バカヤロー」から始まった内閣不信任決議案で鳩山一郎・岸信介・河野一郎・三木武吉・石橋湛山ら22名が賛成。自由党を脱退し、「院内会派・自由党」を結成。「バカヤロー解散」後の総選挙で自由党は過半数をとれず、鳩山に復党を促しなんとか政権を守る。再び、鳩山らが「日本民主党」を結成。その後も勢いが続き、1954年12月、ついに吉田茂は辞任し、日本民主党の鳩山一郎が首相となる。
【五五年体制】
1955年、分裂していた社会党右派と左派が再合一。これにより社会党は改憲阻止に必要な議席数(両院の1/3)を得る。
保守系は危機感を抱き、自由党と民主党が合体。吉田率いる自由党は「対米協調」、鳩山率いる民主党は「対米自立路線」、「自主憲法制定」であったが、社会党の躍進は自由党にとっては安保と経済発展の邪魔、民主党にとっては憲法改正の邪魔、ということで利害関係が一致。
ただ、これは本来の二大政党ではなく、「政権交代も憲法改正もない。1+0.5政党制」である。
<自民党も元々一枚岩ではない>
自由党(吉田茂) 親米 護憲
民主党(鳩山一郎) 自立 改憲
【日ソ共同宣言】
鳩山一郎の最大の功績。相手はフルシチョフ。これにより、65万人とも言われるシベリア抑留の日本人捕虜が救われ、国連加盟もスムーズにいき(ソ連が拒否権もっていた)、北方領土も歯舞、色丹の二島返還の約束を取り付けた。
憲法改正は執念を燃やしたが実現できなかった。
【自衛隊誕生】
警察予備隊(1950)→保安隊(1952)を経て、吉田茂政権の最終年で自衛隊誕生(1954)。
【日米新安保条約】
岸信介は「自主独立」と「親米」両面を重視した。
一個の独立国家としてアメリカと対等に付き合い、はっきり自分の意見の言える国にしたいと努力し、アイゼンハワーと日米新時代共同声明を行う。アメリカとしてもソ連の脅威のため、日本の要求を飲んだ。こうして「日米新安保条約」調印。「相互協力」が条約名に加わった。
【安保闘争】
日米新安保条約には国会での承認が必要であるが、軍事同盟色が強くなるとして反対運動が盛んに。ここで生まれた急進派を「全学連」と呼び、全学連運動家の樺美智子さんが国会議事堂の前で圧死するという事件もあった。参議院では30日間採決なしが続き、「衆議院の優越」により自然承認。
<つづく>