こんにちは。
今回ご紹介しますのは、「なぜ石原莞爾は東條英機を暗殺しようとしたのか」についてです。
石原は満州時代に散々対立した東條により予備役に編入されて、うらみもあったことでしょうが・・・
「満州建国の真実」を参考にさせて頂きました。
【年表】日米開戦前(1941.10)~終戦(1945.8)
1941.10 | 畑俊六(支那派遣軍総司令官)、梅津美治郎(関東軍司令官)、東條英機(陸相)に「支那撤兵」具申(※1) | |
1941.12.8 | 日米開戦 | |
1942.8- | 戦局悪化(※2) | ミッドウェー海戦(6.5-) ガダルカナル戦(8.9-) |
1944.2.21 | 東條英機、参謀総長兼任 | |
1944.6 | 石原、津野田知重・牛島辰熊らに東條暗殺を持ちかけられる(※3) | |
1944.7.18 | 東條英機、辞職(※4) | 高木惣吉(海軍)東條暗殺計画(※5) |
1944.9 | 津野田知重、逮捕 | |
1944.10 | レイテ沖海戦で制海権、制空権を失う | |
1945.8.17 | 東久邇宮稔彦王、「総懺悔」発言(※6) |
(※1)畑俊六、梅津美治郎、石原莞爾
日米関係が緊迫化する中、陸軍内にも支那撤兵論がありました。
「米国の要求を容れて、支那事変を解決し、支那から撤兵するのが得策である」
畑俊六(支那派遣軍総司令官:陸士12期)
「対米戦争は絶対に勝算なし。支那から撤兵するなど日米妥協の必要あり。」
梅津美治郎(関東軍司令官:陸士15期)
「石油を得るため、我が国の運命を賭して、米国と戦争する馬鹿が何処にあるかッ!石油など、わが陸軍が支那から撤兵して米国と妥協すれば、幾らでも輸入出来るッ!」
石原莞爾(予備役:陸士21期)
しかし、これらの意見が受け入れられることなく、日米開戦となりました。
(※2)「君(東條)に出来ないことは、最初からわかっていたことだ。」
戦局は悪化。
ミッドウェー海戦でも敗北、ガダルカナル島への米軍上陸により戦局困難になった状況で、石原は東條に招かれます。
恥を忍んで今後についてどう考えているか尋ねたところ、
「戦争指導など、君に出来ないことは、最初から分かっていたことだ。このまま行ったら、日本を滅ぼしてしまう。だから君は、一日も早く、総理大臣を辞めるべきだ」
石原莞爾
と言い放ちます。
しかし、東條は辞職することなく、参謀総長まで兼任するようになりました。
(※3)津野田事件、牛島辰熊
そこで、このままでは本当に国が亡びると思った、津野田知重(陸軍少佐)は牛島辰熊とともに東條暗殺計画を石原に打ち明けます。
牛島は柔道の猛者で、木村政彦の師匠にあたります。もし計画が実行されるとすれば木村が実行犯となるところでした。(津野田、牛島、木村は3人とも熊本県出身)
石原は津野田の策にゴーサインを出しますが、東條が辞職したことより未遂に終わります。
※同じく計画を打ち明けられた内部告発(三笠宮崇仁親王:昭和天皇末弟)により、津野田は逮捕。
※三笠宮が内部告発したのは東條暗殺後、主戦派100人程度も暗殺しようとしたため、と言われております。【コチラも:wiki】
(※4)東條、辞職するが・・・
紆余曲折を経て東條英機は辞職し、小磯内閣が誕生しますが、なおも戦局は拡大。
戦死者約190万のうち、154万人が東條辞職後に死没しました。(「ウイナー日本史B」文英堂)
(※5)海軍少将も暗殺を企てていた!
ちなみに、津野田知重たちだけではなく、高木惣吉海軍少将も東條暗殺を企てていたとのことです。【コチラ:wiki】
東條は憲兵隊を使って不穏分子をキャッチしようとしていたということですが、限界があったでしょうかね・・・
ただ、もし暗殺が成功していたら陸軍と海軍が険悪になって終戦が難しくなったであろうから、実施されなくて良かった、と高木本人が述べているようです。
(♨同様にもし木村政彦が青酸カリを使って津野田事件の実行犯となっていたら、木村自身も被害を受けていたでしょう。そうなると木村のその後の活躍もなかっただけに実行されなくて良かったと思います。)
(※6)全国民、総懺悔?
戦後、東久邇宮稔彦王が「全国民、総懺悔することこそわが国再建の第一歩」と話します。
一方、石原は、
「満州建国は侵略ではない。日本の行動を侵略というなら、ペリーをあの世から連れて来い。日本に帝国主義を教えたのはアメリカだ」
石原莞爾
「日本の軍備撤廃は惜しくはない。日本国憲法第9条の戦争放棄の道を選ぼうではないか」
と、国民を励ましました。
まとめ
★なおも辞職をしない東條に対して津野田知重(陸軍)、牛島辰熊(柔道家)は暗殺を計画。
★これを聞かされた石原は暗殺計画を否定せず。
★東條は別件で辞職。暗殺計画は未遂に終わる。