~「もう一つ上の日本史」出版に伴い、勉強方法も変える必要が出たので、全面改訂突入します~

後編。(【前編はコチラ】)

「負ければ賊軍」なのか?

反省は必要であるが、「キスカ島撤退作戦」や「占守島の戦」、「諜報の神様こと小野寺信少将」や「いかにして軍隊の暴発を避けながら降伏したか」など、敗戦の中にも学ぶべき日本人の姿がある。

戦争は避けるに越したことはないが、「東京裁判史観」についても再考の必要がある。

§7.零戦の性能は「設計の妙」がもたらした(戸高一成)

★「大型機を落とすための機銃を積み」、「同時に攻撃機を護衛して敵地まで長距離を往復し」、「しかもそこで待ち構えている敵の戦闘機に打ち勝つ空戦能力を持たせたい」というのが海軍の要求であった。

あまりにも難問であったため中島飛行機は辞退した。

★何を重視するかで海軍内の論戦を見ていた三菱の若き設計者・堀越二郎は、2人とも正しいことを言っているのだから、この議論にピリオドをうつには設計者が要求通り作るしかない、と決意した。

ゼロ戦の弱点を指摘する人もいるが、それを克服すれば八方美人的な駄作が生まれていたであろう

1940年採用となったが、この年が皇紀2600年に当たったため「ゼロ戦」と呼ばれた。

★問題は次期艦上戦闘機を作らなかったことにある。

開発から採用まで4年はかかるので、採用同時に開発を始めるべきであったが、ゼロ戦があまりに傑作であったのが問題であったのか?

画像はamazonより引用。

堀越二郎は宮崎映画「風立ちぬ」のモデルにもなった。群馬県出身。もしも「上毛かるた」を新しくするのであれば、堀越二郎と岩宿遺跡発見の相沢忠弘は加えて欲しい。

§8.ミッドウェー海戦時、日本の戦力は優位にあったのか(森史朗)

ミッドウェー作戦はハワイ攻略のための前哨戦であった

★ミッドウェーにおいては航空兵力はアメリカがやや上、戦艦は互角、戦闘機と搭乗員は日本の方が優秀であった。

しかし、情報量とそれによる連携は大きな差があった。

日本空母が混乱する時間を狙ったスプルーアンス司令官とそれを任せたフレッチャー司令官の度量こそが日米の違い

アメリカ軍空母を認識した山口多聞がすぐに攻撃しようとしたが、許可を出さなかった南雲忠一および参謀長・草鹿龍之介は許可を出さなかった。

§9.「キスカ島撤退の奇跡」を導いたものは何か

★1943年7月、キスカ島撤退作戦。

食糧の途絶え、米軍に包囲されたキスカ島に陸海軍が協力して濃霧に紛れて突入して5200人を助け出した作戦である。

陸軍は樋口季一郎、海軍は木村昌福、この2人がいなければ成功しなかったであろう

効率重視で歩兵銃なども置いていったことも重要。

★失敗から学ぶことも大事だが、成功から学ぶことも大事。

敵将からも「パーフェクト・ゲーム」と讃えられる。

§10.「ヤルタ密約」をつかんだ日本の軍人がいた(岡部伸)

★1945年2月4日、ヤルタ会談でソ連はドイツ降伏3か月後に対日参戦するという密約が交わされた。

このことは次期大統領でもあったトルーマン副大統領ですら7月まで知らなかった。

しかしストックホルム駐在陸軍武官小野寺信少将はこの情報を会談直後、ひそかにつかんでいた

彼こそ他国からも「諜報の神様」と呼ばれたインテリジェンス・オフィサーである。

★小野寺は機密電報で日本に打電したが、ソ連に傾斜する参謀本部「奥の院」に握りつぶされた。

当時の日本には共産主義に幻想を抱き、終戦の仲介を期待した勢力が多数いたのである

★情報士官と言うと人をだまして情報をかすみとるイメージがあるが、小野寺はその逆。

誠実に接することで助力者を得ていた。

§11.「終戦後」にはじまった占守島と樺太の戦いとは何だったのか(早坂隆)

★8月17日深夜、国際法を破って占守島にソ連軍が不法侵入した。

これに対して、一度は武器を捨てた日本人は再び武器をとり祖国を守るべく戦った。

池田末男連隊長率いる戦車第十一連隊の奮戦はすごかった

池田末男とは身の回りの世話をしようとする部下に「お前たちは私ではなく、国に仕えているのだ」と言ったような人物。

★占守島だけではなく南樺太でも同様のことが起きた。

看護師たちは最後まで病院で働き、ソ連軍が来たら自決した。(自決したのは「尼港事件」でのソ連軍の暴虐が影響している。)

§12.「終戦の聖断」が八月十四日に下された実相(古川隆久)

昭和天皇含めて関係者が最も恐れたのは陸軍全体が言うことを聞かない状態に陥ること

いろいろな状況を鑑みて8月14日に決まった。

★昭和天皇自身は天皇機関説に近い考え方であったが、軍部にとっては天皇が絶対的な権力を持っていた方がやりやすかった。

★退位説もあったが、アメリカも統治のために天皇が必要と考えていた。

§13.東京裁判で重光葵がA級戦犯にされた理由(中西輝政)

★イギリスは「裁判と言うものが孕む巨大なリスク」を認識していた。

これは第1次世界大戦の苦い経験があったからであろう。

南アフリカのボーア戦争でも裁判しようとしたことで大混乱をきたしている。

★一方、イギリスはナポレオン戦争後のウィーン体制において寛容さを兼ね備えた外交を行い、その後、100年の平和を得ている。

★問題はアメリカとソ連。

アメリカはまだ未成熟であったし、ソ連は裁判にこだわるアメリカをみて、混乱はまだ続くと感じ、共産主義拡大をただただ狙った。

★「平和に対する罪」は後付け。

この事後法が東京裁判の最大の問題点。

アメリカのやり方に正論を盾に異を唱えたのが重光葵。

彼がA級戦犯に指定されたのはアメリカにとって厄介だったからであろう

§14.国を想い、凛として散ったBC級戦犯たちの戦い(福冨健一)

★マッカーサーに毅然として立ち向かったのは重光葵と本間富士子。

本間富士子はマッカーサーが敵前逃亡した後、米軍捕虜を避難させた本間雅晴の夫人。

この件は「バターン死の行進と言われるが、「生の行進」である。輸送トラックがなかったため、88キロを徒歩で避難させた。

★他、受刑者に仏の道を説いた岡田資、「マレーの虎」山下奉文など堂々たる裁判を行った。

§15.フランス代表判事は東京裁判で「反対」判決を出した(大岡優一郎)

★インドのパル判事が有名であるが、フランスのアンリ=ベルナール判事も忘れてはならない。

「平和に対する罪」の否定、満州事変が侵略戦争ではないとした点、原爆を非難した点など、耳を傾けるべきことが多い。

★なぜパル判事ほど有名でないのかはおそらく昭和天皇の戦争責任を主張したからであろう。

【太平洋戦争略年表はコチラ】