~「もう一つ上の日本史」出版に伴い、勉強方法も変える必要が出たので、全面改訂突入します~

☞【チャーチルとルーズベルトは戦争を望んだ?】『太平洋戦争の新常識』(2019年、PHP新書)[前編]

チャーチルが「ナチスの停戦調停申込み」に耳を貸そうとしなかったのは本当だろうか?なぜだろう??

2019年7月刊行の『太平洋戦争の新常識』より。

ヒトラーは英仏と戦うつもりはなかったこと、講和に向けてのヘス副総統の決死のパラシュート訪問など、目から鱗の連続だった。

戦後70年以上経ち、これからも新証言などが出てくるに違いない。

以下、読書メモ。

§2.情報を精査したうえで、開戦は決定された(牧野邦昭)

1940年に設立された秋丸研究機関の話が紹介。

日本不利ではあるのであるが、秋丸氏も「わずかな可能性」に賭けたとも言える。

→【秋丸研究機関についてはコチラの書籍も

§3.三国同盟は「ある時点」まで日米交渉を有利に導いた(井上寿一)

★独ソ開戦で陸軍の一派がソ連攻撃を主張した。

近衛は「それをさせないために南方に目を向けさせるべく南部仏印進駐を決めた」という。

しかし、日本が南部仏印に進駐するとフィリピンまで射程圏内に入る。

そのためアメリカは態度を硬化させ、日米関係が決定的に悪化したことが戦局の分岐点であったと、戦後調査会は報告した。

(→このあたりは川田稔先生の「昭和陸軍の軌跡」に詳しい。)

★「三国同盟がある時点まで日米交渉に有利に働いた」と野村吉三郎駐米大使が言うのはモスクワ攻防までの話。

ドイツが劣勢になると、アメリカが交渉で強く出るようになった。

★「ハル・ノート」には「中国撤兵」は書かれていても、「満州撤兵」は含んでいなかった可能性もある。後世の我々から見ると、日米開戦はまだ回避可能であった。

★敗戦から10年くらいまでは「なぜあんなことが起きたのか」ということに国民も関心を持っていたが、敗戦から10年も過ぎると、「権力者対民衆」というマルクス主義歴史学に陥り、いつの間にか「民衆が犠牲者」という構図になっていった。

§4.日中戦争が日米戦争の原因ではなかった(渡辺惣樹)

日米開戦の原因はルーズベルトとチャーチルがナチスとの戦いを望んだからであり、日中戦争は一側面に過ぎない

★ナチスドイツは停戦の機会を探っていた。ルーズベルトは盛んに挑発していたが、ヒトラーはアメリカの挑発に乗るなと厳命していた。

アメリカには初期の段階で停戦させるほどの力があったはずだが、ルーズベルトはそれを選択しなかった

★チャーチルはアメリカ世論を戦争に向かわせる強烈な自信があった。

そのためにMI6も動いている。

ルーズベルトはもちろん、FBIも協力した。

これにより大陸不干渉を主張するジャーナリストなどは次々と意見発表の場が奪われ、新聞社は英国への同情心とアメリカ本国の危機を煽った。

ヒトラーは英仏とは戦いたくなかった。東方に行く予定であったが、宣戦布告したのは英仏である

1941年5月10日、ヘス副総統はパラシュート降下してスコットランド防空担当のハミルトン公に会いに行き、彼を通じて国王ジョージ6世に頑迷なチャーチルを説得してもらおうと依頼した。

ヘスは厳重な監視下に置かれていたがチャーチルは彼に会おうとしなかった。

正統派の語る歴史ではゲーリングが講和に前向きであったこと、ヘスの決死行などは語られない

★ヒトラーとスターリンという2人の怪物の戦いは不可避であるため、両者が死闘を続け国力が弱った段階で仲介に入るべき、というフーバーの見立てには合理性がある

チャーチルとルーズヴェルトの対独講和意思の欠如は重要な要素である。対米世論工作は失敗したために、対独参戦に日本が利用されたともとれる

§5.<戦艦大和は「時代遅れ」でも「無用の長物」でもない>(戸高一成先生)

§6.<ここで戦艦大和を投入すれば戦局は違った>(平間洋一先生)

こちらの2つについては【コチラを

【「キスカ島撤退」などが書かれた[後編]はコチラ

【太平洋戦争略年表はコチラ】