~只今、全面改訂中~

こんにちは。

今回ご紹介しますのは、「1945年7月」

米、英、中から「ポツダム宣言」が出されました。

それに対して日本は「徹底抗戦論」も上がりましたが、「ソ連への和平斡旋論」に落ち着きました。

(「日ソ中立条約」を結んでおり、ソ連は中立国でした。)

結果、ソ連は和平斡旋する気などなく、むしろ対日参戦してきました。

ソ連の対応に期待していた3週間の間にも多くの命が犠牲となりました。

以下、「総力戦のなかの日本政治」を参考にさせて頂きました。(前回まではコチラ)

【年表】1945年7月

7/12終戦工作:「近衛特使案」
・鈴木首相、近衛文麿をソ連への特使として派遣することを提案
7/17ポツダム会談
・ベルリン郊外
・米(トルーマン)、英(チャーチル)、ソ(スターリン)
7/25佐藤尚武大使、ソ連への「近衛特使」申し入れ
7/26ポツダム宣言(※1)
・米、英、中より(ソ連は入っていない
無条件降伏を要求
・領土は「カイロ宣言」(1943年)の通り。本州、北海道、四国、九州と小諸島
7/28ポツダム宣言黙殺報道
・実際に黙殺することに

(※1)ポツダム宣言

ポツダム宣言が出されたのは、1945年7月26日のことでした。

ポイントとしましては、

米、英、中が発出(ソ連は中立国であるために入っていない)
無条件降伏

という点です。

日本側は、強硬な対応を求める統帥部に対して、外務省側は「ソ連との交渉結果を見極めてから」の決定を主張しました。

結果的に、外務省側の意見で動くことになりましたが、報道関係にはノーコメントの姿勢で臨むことも決定しました。

(結果、「黙殺」と報じられ、戦争完遂に邁進するかのように伝えられます)

話は少し先走りますが、その後、中立国でもあり、交渉を斡旋してもらうはずのソ連は日本に攻め込んできました

テヘラン会談で既に密約ができておりました【コチラも】

終戦となったのはポツダム宣言から約3週間後です。

ソ連へに期待していたこの3週間の間にも多くの命が犠牲となりました。

もし、ソ連という国の本質を見抜いていれば、もう少し被害を少なくできたのかと思うと、いたたまれません。

まとめ

【1945年7月】

・ポツダム宣言が発出される。(米、英、中)

・日本はソ連に和平斡旋を期待していたため、対応が引き延ばされた。(結果、裏切られる)

つづきはコチラ