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☞【南方攻略成功!その裏で本土空襲開始…】「1942年1月~5月」

こんにちは。

今回ご紹介しますのは、「1942年1月から5月まで」です。

1942年5月18日、「南方攻略作戦終了」の報告が出されました。

アメリカ海軍を足止めしている間に、油田地帯を抑えるという目的は達成されたのです。

一方、4月18日には本土空襲を受けております。

アメリカ海軍の「空母」は日本付近に接近し、爆撃機を飛ばしました。

この件は日本の戦争方針を狂わせます。

以下、「総力戦のなかの日本政治」を参考にさせて頂きました。

【年表】1942年1月~5月

1942年東南アジア太平洋日本国内
1月クアラルンプール(現:マレーシア首都)陥落フィリピンの首都、マニラを占領(※1)
・マッカーサー率いる米フィリピン軍はバターン半島、コレヒドール島で抵抗

蘭印(オランダ領東インド=現インドネシア)作戦
・以後、タラカン島、セレベス島などなど占領

ラバウル占領
・中部太平洋、ビスマルク諸島のニューブリテン島
・ここに航空隊を置いた
2月シンガポール上陸(※2)
・第25軍司令官山下奉文
・華僑虐殺事件
蘭印作戦(※4)
最大の大油田地帯があるスマトラ島のパレンバン制圧
3月ラングーン(現ヤンゴン)占領(※3)
・ビルマ(現ミャンマー)最大の都市)
・アウンサンらと通じ独立工作も。
マッカーサー、コレヒドールを離れ、オーストラリアに脱出(※1)

ニューギニア東部のラエ、サラモア攻略
・ラバウルは連合国軍の基地があるポートモレスビー(パプア・ニューギニアの首都)攻撃拠点となる(※5)
4月バターン半島の米軍降伏(※1)18日、空爆を受ける(※6)

30日、翼賛選挙(※7)
5月コレヒドール島の米軍降伏

18日、「南方攻略作戦」終了を大本営に報告
・開戦から5ヶ月で東南アジアと太平洋の広範囲を占領した
20日、翼賛政治会(翼政)結成(※7)

(※1)フィリピン前線

バターン半島で降伏した米軍捕虜を収容所まで連れて行くのに、炎天下を歩かせて死人が出たことから「バターン死の行軍」と言われておりますが、

「そもそも、兵を見捨ててオーストラリアに逃げたマッカーサー、おまえが悪いんじゃぁ!」

という意見もありますねー。

あまりにも大量手段だと輸送手段が限られてしまうのですよ。

マッカーサー
I shall return !
覚えとけよっ!
本間雅晴
え?
部下を置き去りにするんですか?

(※2)シンガポール前線

山下奉文(第25軍司令官)がパーシヴァル(英マラヤ駐屯軍司令官)に「Yesか、Noか!」と迫ったというのは多少、脚色されたものだそうですが、いずれにしてもイギリスの拠点であるシンガポールを占領。

2倍ほどの兵力差を覆し、わずか10日で陥落させたそうです。【シンガポールの戦い:wiki】

日本、つぇー。

しかし、山下奉文司令官の汚点としては、辻政信が主張した華僑虐殺を認めてしまったことでしょうか。

(もっとも、辻の独断による部分が大きいという話も。そもそも皇道派の山下は統制派の辻を嫌っていたとも)


イギリス
結構へこんでいるんですよねー。
大英帝国の誇りは持っているのですが。
山下奉文
Yes か No か!

(※3)英領ビルマでの作戦

最も西方でのこの作戦は、マレー作戦の背後を安定させ、かつ援蒋ルートを遮断するという観点から実施されました。

実は開戦前から陸軍参謀本部の鈴木敬司大佐(【日本版アラビアのロレンス:wiki】)を中心とした「南機関」がアウンサンらビルマ独立運動家と連絡をとり、独立運動を促す工作を行っておりました。

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(※4)蘭印作戦

石油は英領ボルネオのミリ、蘭領ボルネオのタラカン、バリクパパン、北部スマトラ、東部ジャワ、南部スマトラのパレンバンなどで産出されました。

中でも南部スマトラのパレンバンが最大の産出地です。

2月中旬、陸軍空挺部隊によって落下傘作戦が行われ、イギリス・オランダの合弁石油会社の大規模な精油所と大量の原油、精油が確保され、日本の石油技術者によって施設の復旧が行われました。

今村均
ジャワ島上陸後、9日間でオランダを降伏させた、というのはこの私です。
その後の治世は本部には生ぬるいと言われて左遷させられてしまいました。

★戦争の目的は何か?

ところで日本側の政策文書には、この戦争の目的について「自存自衛」という言葉と「大東亜新秩序(あるいは共栄圏)」という2つの言葉が使用されておりました。

そして、これらの言葉の使い分けは陸軍、海軍、およびその内部でも見解が異なったのです。

たとえば1941年9月の段階で陸軍省軍務局長佐藤賢了らは「大東亜新秩序」を戦争目的に掲げることを主張しました。

しかし、これは海軍の反対で「自存自衛」に限定となりました。

また、陸軍内でも陸軍省軍務課高級課員の石井秋穂は、この戦争は「資源獲得のため」であるとして「大東亜新秩序」の建設を目的とすることに反対しました。

これには石油禁輸が解除されれば講和に持ち込むことができますが、大東亜共栄圏建設が目的となってしまいますと、そうはならないためです。

いずれにしても「大東亜共栄圏」というものは、戦争を正当化するためのもの、という見方がされております。

(※5)ポートモレスビー作戦

初戦の勝利のあと、海軍はオーストラリアを基地として反撃してくると予想しました。

そのためハワイとオーストラリアの間にあるサモア、フィジー、ニューカレドニアを制圧し、アメリカとオーストラリアを分断する作戦を提起しました。

その作戦とともに、以前から決定されていたポートモレスビー作戦が行われます。(3/7~)

山本五十六らは短期決戦でアメリカの戦意を喪失させることを企図するとともに、真珠湾攻撃で捕捉できなかった米空母部隊を撃破する必要性を痛感していました。

(のちのミッドウェー攻撃も米空母部隊を誘い出すのが目的でした。)

しかしながら、珊瑚海海戦で空母同士の航空戦が展開、日米両軍に損害が出て海上からのポートモレスビー攻略作戦は中止せざるを得なくなりました。

wiki:この頃すでに辻政信が独断で作戦を変更していまうようなことが起きていました。

(※6)4月には本土爆撃が開始されていた!

日本は本土爆撃を避けるための作戦を考えておりましたが、4/18の時点ですでに本土爆撃を受けておりました。

日本に接近していた米空母部隊は東京、川崎、横須賀、名古屋、神戸などを空襲しました。

(こんなに早い時期から空爆されていたのですね…)

結果、「ミッドウェー作戦」、北方における「アリューシャン作戦」の実施を急ぐことになりました。

真珠湾で空母を倒すことができなかったのが誤算ですねー。

空母が航空機を載せて、日本付近に接近して本土爆撃できちゃいますものねー。

そのためこれだけ広範囲を占領する必要があったのですねー。

ちょっと無茶が過ぎるようにも思えるのですが。

(※7)翼賛選挙

4月30日、延期になっていた第21回総選挙が行われました。

大政翼賛会になってから初めての選挙で、「翼賛選挙」と呼ばれております。

2月には翼賛政治体制協議会(翼協)が結成されましたが、推薦候補者には密かに資金を渡し、被推薦候補には激しい選挙干渉を行う、という翼賛候補以外には厳しい選挙となりました。

結果、翼賛会の推薦者は8割以上を占める結果となりました。

(もっとも鳩山一郎は非推薦ながら東京第2区最高点で当選しましたが)

一方、無効票も多く、中には「この一票より、米一俵」というようなものも投票もありました。

これは、戦時下の配給制度下における食糧不足への不満です。

さらには、「東条内閣打倒」「独裁政治に議員は要るか」などという投票も。

5月には翼賛政治会が結成され、鳩山一郎ら非推薦組含めてほとんどの議員がここに所属するという事態になりました。

すでに1941年12月に言論出版も一本化されており、これに続いて政治も一本化されたのです。

東条は大衆社会化した時代の総力戦体制を意識しておりました。

まとめ

1942年5月18日、南方攻略作戦完了。
日本は南方の油田を抑えた。

しかし、4月18日には本土空襲を受けている。

米軍空母のこれ以上の進出を防ぐべく、アリューシャン作戦(北方)、ミッドウェー作戦(南方)決行を急いだ。

 

次回は…

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