~「もう一つ上の日本史」出版に伴い、勉強方法も変える必要が出たので、全面改訂突入します~

☞【永田の前に永田なし、永田の後に東条、あり?】『§1-2.エリート教育システムの欠陥』(東条英機・永田鉄山)

【永田鉄山】

★永田鉄山の優秀さは誰もが認めるところであった。しかし、統制派と皇道派の争いにより殺害されてしまったことは日本全体から見ると痛手であったのであろう。

★ただ、対中強硬政策を唱えていたのは永田ら統制派であり、永田らは中国において資源獲得を目指していた

★もし、永田が生きていれば(こういうifは禁物であるが)、東条は出てこなかったであろう。(♨武藤章も田中新一も出てこなかったであろう。)

【東条英機】

真面目で一生懸命。ただ、一国の指導者としてどうだったか、という点においては疑問を抱かずにはいられない。

★敵とみなした相手はとことん左遷。石原莞爾、山下奉之らがその代表。のち、武藤章、田中新一らも左遷。

★そして、精神論。

東条英機はおそらく多くの人が知っているであろう。しかし、永田鉄山はどうか。早くに暗殺されてしまったため、その活躍期間は短かったのだが、永田鉄山は東条英機の「上司」であり、永田の思想こそ昭和陸軍を知るうえで重要なのである。

以下、年表とメモ。

【永田鉄山】

写真はwikipediaより引用。

略年表

1884 長野県にて出生。医者の三男。
1904 陸軍士官学校を首席で卒業。(16期)(※1)
1911 陸大を2番の成績で卒業。(23期)(※2)
1913 ドイツ駐在。第1次世界大戦を視察。(※3)
1921 バーデンバーデンの密約
1929 二葉会と木曜会が合流、一夕会が誕生。その中心的人物となる。
1931 満州事変を中央から後押し。

昭和陸軍の軌跡:コチラも
1933 反長州閥の代表として荒木貞夫を陸相になるように工作するが、荒木の陸相就任後は外交政策などをめぐって、同期の小畑とも対立。統制派と皇道派の争いにつながる。(※4)
1934 軍務局長になる。

『国防の本義と其強化の提唱』という陸軍パンフレットを出版。総力戦体制を掲げる。
1935 真崎甚三郎更迭に暗躍。

それについて反感を抱いた相沢三郎により殺害される。51歳。

(※1)あまりにも優秀で試験前に課目外の中国語を勉強するという伝説も。同期に小畑敏四郎、岡村寧次ら。しかも、クソ真面目というタイプではない。読書家。

(※2)首席は梅津美治郎。

(※3)総力戦を意識する。この時の論文が宇垣一成の目に留まる。

(※4)外交政策として、皇道派は「対ソ」強硬、統制派は「対中」強硬。

まとめ

★永田鉄山の優秀さは誰もが認めるところであった。しかし、統制派と皇道派の争いにより殺害されてしまったことは日本全体から見ると痛手であったのであろう。

★ただ、対中強硬政策を唱えていたのは永田ら統制派であり、永田らは中国において資源獲得を目指していた。

★もし、永田が生きていれば(こういうifは禁物であるが)、東条は出てこなかったであろう。(♨武藤章も田中新一も出てこなかったであろう。)

【東条英機】

一方、東条英機。「エリート」というかなんというか。おそらく官僚としては優秀だったんじゃないか、と思う。しかし、永田鉄山や石原莞爾のような才能がないところが、本人にとっても日本にとっても誠に残念な点であると思う。悪い人ではないので、余計に残念に思う。(2019/8/19時点)

写真はwikipediaより

略年表

1884 東京都にて出生。三男であったが長男次男は他界。(※1)
1905 陸軍士官学校卒業。(17期)
1912 二浪の末、陸大に入学。東条のために小畑、永田らが勉強を教える。(※2)
1915 陸大卒業。(27期)
1921 ドイツ駐在時代にバーデンバーデンの密約。
1929 一夕会に参加
1935 関東軍時代(~1938)
1938 陸軍次官時代(※3)
1940 第2次、第3次近衛内閣において陸軍大臣。(※4)
1941 現役軍人のまま首相に就任。(~1944)(※5)
1945 敗戦後、拳銃自殺未遂。(※6)
1948 死刑。64歳。(※7)

(※1)南部藩士の家系。父は陸軍歩兵中尉(後に陸軍中将)東條英教であり、陸大(1期)を首席で卒業するも、日露戦争で指揮官失格の烙印をおされる。藩閥制度により出世できなかったとして、徹底した長州嫌い。このことが東条の打倒藩閥の姿勢につながる。もともと南部藩が佐幕であったことも原因か。

(※2)天才肌ではなく、「真面目で一生懸命」。部下に対しても思いやりがあり、日本人の1つの模範であった。連隊長時代には夜にゴミ箱をあさり、兵隊の食事状況を把握するなどしていた。

(※3)梅津美治郎の推薦により陸軍次官に。参謀次長の多田駿とは対立。池田成彬蔵相に「軍需工業がもうけるとは何事だ!」など、殖産興業のメカニズムを知らない発言も。世間知らずで偏狭であった逸話である。

(※4)二二六事件の粛清人事の影響で序列が80番くらい上がったことによる。

(※5)「高射砲は精神で撃つ」など精神論を掲げる。

(※6)自分の作った戦陣訓の影響で、虜囚の辱めを受けるくらいなら死ぬしかなかった、と述べたという。

(※7)東京裁判では理路整然とアメリカの姿勢を糾弾するも、田中隆吉らが逮捕されないと言う確約を得て、東条に不利な証言をしたことなどが問題。

まとめ

★真面目で一生懸命。ただ、一国の指導者としてどうだったか、という点においては疑問を抱かずにはいられない。

★敵とみなした相手はとことん左遷。石原莞爾、山下奉之らがその代表。のち、武藤章、田中新一らも左遷。

★そして、精神論。

♨東条により更迭された人物は多い。その1人が石原莞爾。悪くはないのだがゴミ漁りをする人が、石原莞爾を使いこなせるはずがない。努力は大事だと思うが、その方向性が間違っていたのであろう。(反対意見を述べる人間をどう生かすか、などという方に努力を向けるべきであった。)

東条英機については太平洋戦争略年表:コチラも

ミッドウェーの敗戦を知らなかったのかどうかは1つのテーマ

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