~「もう一つ上の日本史」出版に伴い、勉強方法も変える必要が出たので、全面改訂突入します~

昭和史講義
『§6.天皇機関説事件』(柴田紳一先生)

【これまでの教科書的理解】

★明治期、天皇は「機関」であるという認識が当然であったし、天皇自身もそのつもりでいた。しかし、海軍軍縮問題を「統帥権干犯」と問題にしたあたりから、「天皇が機関とは何様だ」という風潮になり、憲法学者の美濃部達吉が糾弾された。

【わかったこと】

★やはり学者の意見が聞かれないというのは異常な証拠。野党である政友会、軍部、国家主義団体が各々の理由で美濃部達吉先生を攻撃したのだ。天皇自身が機関説を支持しているというのにである。日本人はしばし、決して反論できない事項を持ち出して相手を責める特性があるという。

【美濃部達吉先生略年表】

1873 ★兵庫県の漢方医の家庭に次男として出生。
1897 ★東京帝国大学法科大学政治学科卒業。天皇機関説を唱える一木喜徳郎に学んだ。
★大学の同期には立作太郎がいた。
1899 ★欧州留学
1902 ★東京帝国大学教授に就任。
1912 ★大正元年、「天皇機関説」を発表。「天皇主権説」の上杉愼吉と論戦。こののち、天皇機関説は大正天皇、昭和天皇、当時の政治家たちにも当然のものとして受け入れるようになった。
1930 ★ロンドン海軍軍縮会議で「統帥権干犯問題」が出されたときは、「兵力量の決定は統帥権の範囲外である」として浜口雄幸内閣を擁護した。
1932 ★血盟団事件では政府の右翼取締りの甘さを非難。
★貴族院議員に就任する。
1934 ★国体明徴運動が起きる。昭和天皇が機関説を支持しているのにも関わらず、美濃部は糾弾された。
1935 ★2月貴族院議会において菊池武夫議員より機関説非難を受ける。美濃部への攻撃が激化するが、美濃部の理路整然とした演説にみな静まり返る。
★しかし、美濃部の著書は発禁処分に。
★8月、政友会、軍部の圧力により岡田内閣は第1次国体明徴宣言。
★同年9月、貴族院は辞職する。しかし、辞職時の声明が再び問題となる。
★10月、第2次国体明徴宣言。機関説は異端とする。
1936 ★右翼により撃たれる。
1946 ★戦後は、占領軍は憲法を制定する権利を有しないとして新憲法の主権変更(国民主権)に反対。新憲法の解釈も積極的に行う。
1948 ★死去。75歳。

【天皇機関説という言葉は正しいか?】

「国家法人説」と呼ぶほうが適切であろう。美濃部達吉も日本の主権が天皇に属することを自明としていたため、天皇機関説を天皇主権説に対立させるべきではない。この誤解こそが事件につながったとも言える。

【美濃部達吉の敵】

大正時代には上杉愼吉。

ただ、それだけではなく、昭和5年のロンドン海軍軍縮条約に際して「統帥権干犯」問題を持ち出す海軍、国家主義団体に対して、自らの憲法学の立場からこれを否定。そのため、軍部や国家主義者(蓑田胸喜ら)から反発を受けていた。

上杉慎吉(1878~1929)

天皇主権説。君権絶対主義を唱え、天皇機関説の美濃部達吉と論争。のち、右翼団体を指導。穂積八束の弟子。

【当時の首相】

岡田啓介は学説については学者間の議論にゆだねるのが適当とすると答えるも、国家主義者たちの活動は先鋭化。岡田内閣の与党であった民政党は冷静な態度でいたが、野党の政友会は倒閣の狙いもあって強硬な姿勢を示していた。軍部は皇道派主導のもとで、機関説排撃を行うが、天皇は自身の意に反しているとして不快感をもっていた

【国体明徴宣言】

岡田内閣の第2次国体明徴宣言(1935年10月)により、ようやく問題は沈静化。

【大日本帝国】

1936年4月、国号が「大日本帝国」で統一された。国体明徴宣言とも無関係ではない。

【国家主義団体の狙いは?】

近衛内閣の樹立だったという可能性も指摘されている。

【1932年1月の桜田門事件との関連】

1932年1月、桜田門事件と呼ばれる天皇襲撃事件で一度は辞表を提出したものの天皇からの慰留で撤回した犬養首相を糾弾したのが美濃部であり、政友会にとっては憎むべき相手であった、という可能性もある。

日本では誰もが反論しにくい立場・主張・否定しにくい指標・目的を持ち出すことで、強引に事故の主張・行動をつらぬき、相手を攻撃することがしばしば見られる。

写真はwikipediaより。 戦後、多くの者が公職追放を恐れて新憲法に賛成したが、美濃部先生はこのままで通用するとして反対。立派な学者である。

<主な思想弾圧事件>

滝川事件(1933.5)京大法学部滝川幸辰休職。共産主義的として。「刑法読本」
天皇機関説問題(1935.2)国体明徴運動へつながる
矢内原事件(1937)東大教授矢内原忠雄。軍部の植民地批判で辞職。
河合栄治郎事件(1938)東大教授。226事件を批判。
人民戦線事件(1937、1938)コミンテルンによる扇動政策として検挙。

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