~只今、全面改訂中~

こんにちは。

今回ご紹介しますのは、「天皇機関説事件」についてです。

美濃部達吉

昭和史講義」第6章(柴田紳一先生、2015年)、および「戦争とファシズムの時代へ」(河島真先生、2017年)を参考にさせて頂きました。

天皇機関説事件

明治から大正にかけて、天皇は「機関」であるという認識が当然であり、天皇自身もそのつもりでおりました。

しかし、「ロンドン海軍軍縮問題」(1930年)を経て、政府主導で軍縮を行なうことは「統帥権干犯」であると軍部より問題提起されます。

憲法学者の美濃部達吉は自身の憲法学説から当時の与党(民政党)を支持したため、軍部や国家主義者たちから恨まれておりました。

時を経て1935年、貴族院菊池武夫(陸軍予備役)が美濃部達吉の「天皇機関説」を激しく非難します。

非難の声は憲法学説ではなくイデオロギー闘争へと代わり、これに野党の政友会だけでなく、与党の民政党まで乗っかったのです

これは当時、首相は海軍穏健派の岡田啓介であり、岡田内閣打倒に「天皇機関説問題」が「利用」できると考えたためでしょう。

(※岡田内閣成立当時、政友会総裁・鈴木喜三郎は自身が首相にならない限り政友会からは閣僚を送り込まないとしていました。)

【年表】美濃部達吉(1873~1948)

1873 ★兵庫県の漢方医の家庭に次男として出生。
1897 ★東京帝国大学法科大学政治学科卒業。天皇機関説を唱える一木喜徳郎に学んだ。
★大学の同期には立作太郎がいた。
1899 ★欧州留学
1902 ★東京帝国大学教授に就任。(※1)
1912 ★大正元年、「天皇機関説」を発表。「天皇主権説」の上杉愼吉と論戦。こののち、天皇機関説は大正天皇、昭和天皇、当時の政治家たちにも当然のものとして受け入れるようになった。
1930 ★ロンドン海軍軍縮会議で「統帥権干犯問題」が出されたときは、「兵力量の決定は統帥権の範囲外である」として浜口雄幸内閣を擁護した。(※2)
1932 ★血盟団事件では政府の右翼取締りの甘さを非難。
★貴族院議員に就任する。
1935 ★2月18日、貴族院本会議で菊池武夫(陸軍予備役)が機関説を激しく非難。25日、美濃部が弁明。理路整然とした演説にみな静まり返る。(※3-4)

★3月、政友会、民政党、国民同盟の共同提案「国体に関する決議案」が衆議院で全会一致で可決。

★4月、国体明徴運動本格化。美濃部の著書は発禁処分。

★8月、政友会、軍部の圧力により岡田内閣は第1次国体明徴宣言。

★同年9月、貴族院辞職。しかし、辞職時の声明が再び問題となる。

★10月、第2次国体明徴宣言。機関説は異端とされた(※5)。
1936 ★右翼により撃たれる。
1946 ★戦後は、占領軍は憲法を制定する権利を有しないとして新憲法の主権変更(国民主権)に反対。新憲法の解釈も積極的に行う。(※6)
1948 ★死去。75歳。

(※1)2つの憲法学講座

大日本帝国憲法における天皇の立ち位置は2つの解釈がとれ、初期よりその解釈をめぐって論争がありました。

当時の東京帝国大学法科大学は憲法学講座を2つに分け、第一講座教授には「天皇主権論」を引き継ぐ上杉慎吉、第二講座教授には「天皇機関説論」を引き継ぐ美濃部達吉を据えました。

若い頃。

【ライバル】 上杉慎吉(1878~1929)

東京帝国大学法科大学で「天皇主権主義」の穂積八束に学ぶ。天皇機関説の美濃部達吉と論争。のち、右翼団体を指導。

(※2)ロンドン海軍軍縮問題(1930年)

ロンドン海軍軍縮問題では自身の憲法学説を元に与党(民政党)を擁護します。

しかし、これにより軍縮を妥当とされた軍部、国家主義者(蓑田胸喜ら)から恨みを買います。

美濃部の解釈は現実的なものであり、正当な憲法解釈であると当時のエリートの間では考えられていました。

(※3)貴族院議会にて(1935年)

1935年、貴族院議員の菊池武夫(陸軍予備役)が美濃部の天皇機関説を批判します。

菊池武夫。ファッションデザイナーのTAKEO KIKUCHIじゃないよ。ちなみに先祖は室町幕府建国時に九州で南朝方として活躍した菊池氏。

国家を人体にたとえ、天皇をその首脳だとする説明は不敬であり、謀反であるというのです。

それに対して美濃部達吉は理路整然と応対します。

しかし、美濃部がいくら正論を言っても、もはや憲法をめぐる解釈ではなく、イデオロギーの問題にすりかえられてしまっていました・・・。

(さぞ、悔しかったに違いありません)

これには、憲政会、民政党ともに騒ぎを大きくして岡田内閣倒壊を目指すという目論みがありました。

(※4)「天皇機関説」という用語は正しいか?

ひとつ、美濃部の「天皇機関説」がここまで問題となったのには「機関」という用語に問題があったのではという指摘もされております。

美濃部も日本の主権が天皇に属することを自明としていました。

むしろ、「国家法人説」と呼ぶほうが適切であったのでしょう。

さらに、「天皇主権説」vs「天皇機関説」という構図もよくありません。

主権は「天皇」ですので、「天皇主権説」の対立が「天皇機関説」ではないのです

(※5)国体明徴運動

岡田啓介首相は学者間の議論にゆだねるのが適当とすると答えるも、国家主義者たちの活動は先鋭化しました。

(国家主義団体の狙いは近衛内閣の樹立だったという可能性も指摘されています。)

軍部は皇道派主導のもとで、「機関説」排撃を行います。

(もっとも、天皇は「自身の意に反している」と不快感をもちました。)

最終的に、第2次国体明徴宣言(1935年10月)で「機関説は異端」とすることで沈静化しました。

学者軽視と考えても差し支えない。
これは日本の宿痾であろうか。

日本は誰もが反論しにくい事柄を自論に重ねて相手を攻撃することがしばしばある。

ちなみに、1936年4月、国号が「大日本帝国」で統一されました。

国体明徴宣言と無関係ではないと考えます。

(※6)戦後

戦後、多くの者が公職追放を恐れて新憲法に賛成しましたが、美濃部は「このままで通用する」と反対します。

立派な学者ですね。

(おまけ)1932年1月の桜田門事件との関連は?

1932年1月、桜田門事件と呼ばれる天皇襲撃事件がありました。

犬養首相は一度は辞表を提出したものの天皇からの慰留で撤回しました。

しかし、これを糾弾したのが美濃部でもありました。

この時から政友会にとって憎むべき相手であった、という可能性もあるそうです。

(ちなみに、犯人は朝鮮人。上海の国民党機関紙が犯人に好意的な報道をしたことから第1次上海事変=満州事変中の上海攻撃につながった、とも言われます。)

<その他の主な思想弾圧事件>

滝川事件(1933.5)

「刑法読本」を著した京大法学部滝川幸辰が「共産主義」的として休職処分とされた。

1932年10月に中央大学で行った講演が原因。

トルストイの「復活」から刑罰思想を論じるものであったが、マルクス主義的であると指摘された。(実際、滝川教授は、マルクス主義者ではない)

思想統制は対象をマルクス主義から自由主義へと拡大した。

【なぜ処分されたのか】

①司法官赤化事件

司法関係者に共産党関係者がいることが発覚した(司法官赤化事件)ため、帝国大学の教育が問題視された。この時、政友会宮沢裕は滝川の「刑法読本」を問題視。

②蓑田胸喜の存在

原理日本社主宰。執拗にリベラリズムとその論者を攻撃した。

矢内原事件(1937)

東大教授矢内原忠雄。軍部の植民地批判を非難され辞職。

河合栄治郎事件(1938)

東大教授河合栄治郎。二二六事件を批判。これに蓑田胸喜ら右翼が乗り込む。最終的に休職処分。

人民戦線事件(1937、1938)

コミンテルンによる扇動政策として、コミンテルンとは無関係な人まで検挙。

「昭和史講義」、次章は二二六事件

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