こんにちは。
今回ご紹介しますのは、1930年、浜口雄幸内閣時における「金輸出解禁(=金本位制)」についてです。
世界恐慌に重なったため、「嵐の中で戸を開ける」などと揶揄されたものですが、「金(輸出)解禁=金本位制」の何が悪かったのでしょうか。
以下、「戦争とファシズムの時代へ」、「満州建国の真実」などを参考にさせて頂きます。
【年表】金本位制離脱(1917年9月)~管理通貨制度導入(1931年12月)
1917.9.12 | 日本、金本位制(金解禁)離脱(※1) |
1919.6 | アメリカ、金本位制(金解禁)復帰 |
1920.3.15 | 日本、株式市場暴落【戦後恐慌】(※2) |
1923.9.1 | 関東大震災【震災恐慌】 |
1925.4 | イギリス、金解禁 |
1927.3 | 100円=49ドル前後 |
1927.3.14 | 片岡蔵相の失言【金融恐慌】 |
1927.4.22 | 高橋是清蔵相、「三週間の支払猶予令」(モラトリアム) |
1928.12 | 輸入超過額が年間2億2400万円へ増加(※3) |
1929.4 | 100円=44ドル台と大幅に円安 |
1929.7.2 | 田中義一内閣総辞職、浜口雄幸内閣へ(※4) |
1929.10.15 | 浜口内閣、官吏給与減俸計画 |
1929.10.22 | 浜口内閣、官吏給与減俸計画撤回 |
1929.10.24 | ニューヨーク市場で株価大暴落【世界恐慌】(※5) |
1929.11.21 | 浜口内閣、「旧平価」で金解禁の大蔵省令公布(※6) |
1930.1.11 | 日本、金解禁→【昭和恐慌】(※7) |
1930.2.20 | 第17回衆議院議員総選挙で与党が大勝 |
1930.4.22 | ロンドン海軍軍縮条約締結 |
1930.10.1 | ロンドン海軍軍縮条約枢密院可決、統帥権干犯問題決着 |
1930.10.2 | ロンドン海軍軍縮条約批准 |
1930.11.14 | 浜口首相、襲撃される(※8) |
1931.4.14 | 第2次若槻内閣成立 |
1931.9.18 | 満州事変勃発 |
1931.9.21 | イギリス、金本位制断念(※9) |
1931.12.13 | 第2次若槻内閣総辞職、犬養毅内閣成立(※10) 高橋蔵相、金解禁停止、管理通貨制度導入(※11) |
1932.2.9 | 井上準之助暗殺(血盟団事件) |
1932.3.5 | 三井財閥総帥・団琢磨が暗殺(血盟団事件) |
1932.5.15 | 五一五事件 |
1932.12 | 100円=20ドル強 |
(※1)第1次世界大戦の混乱で日本も金本位制から離脱
20世紀にまでに世界の主要国全てが「金本位制」を採用しておりました。
しかし、第1次世界大戦により欧州各国は対外支払いが増大しました。
このため、「金の流出」を防ぐために各国とも金本位制から離脱しました。
各国の通貨と、「金(gold)」を交換できる制度。
そのためには、各国とも十分な「金(gold)」を保有している必要がある。
♨支払先がポンドを全部「金(gold)」に変えてしまったらイギリスといえども「金(gold)」がなくなってしまいますねー。
♨実際はイギリスよりも先にアメリカ、日本が離脱。
各国が金本位制から離脱してしまうと、金(gold)を得るために、金本位制を採用している日本へ殺到してしまうと日本も困るので、離脱します。
金本位制を採用している国どうしの貿易では、輸入超過に陥っても金(gold)で支払うことで、為替相場の変動は抑えられる。
しかし、輸入超過国の金(gold)の保有量は低下する。
すると、輸入超過国は「デフレ」(通貨縮小)となり、
→物価が下がり、
→輸出品の価格が下がり、
→輸出超過へと傾く(はず)。
→そして、金の保有量も戻っていく(はず)。
♨これを金本位制の「自動調節作用」と呼び、貿易を円滑に行い、特定の国が優位に立つことを防ぐことができたていましたが、「戦時には機能しない」ということが第1次世界大戦で証明されてしまいました。
♨金本位制を採用していなくても、
(例)日米
輸入超過
→ドルの需要増
→ドル高円安
→輸出品価格低下
→輸出増大
→ドル安円高
→元に戻る(はず)
と国際収支は自然に調整されるが、為替相場の大幅な変動を伴うため、安定した貿易を望む経済界は金本位制を熱望した。
※「金本位制」をわかりやすく説明するというのはかなり難しい、と言われますので、「金本位制」によって「どうなるのか」がわかれば良いと思います。
(※2)各国が金本位制に復帰、日本は躊躇
第1次世界大戦中の好景気で、日本の金保有高は過去最高となっていました。
アメリカが金本位制に復帰したのを皮切りに、日本も金本位制への復帰を計画しましたが、「戦後不況」を脱却するために国内の金の保有量を保ち(金輸出禁止)、財政出動(通貨膨張)を優先しました。
その後も、金本位制への復帰を模索しておりましたが、1923年の震災恐慌、1927年の金融恐慌が続き、金本位制へ復帰するタイミングを失っておりました。
(※3)田中内閣の積極財政
田中内閣は景気回復のために「積極財政・金融緩和」を行ないました。
しかし、これにより物価は上昇し、国際競争力が低下します。
そして、輸入超過となり、100円=49ドル前後だった為替相場が、100円=44ドル台にまで「円安」となりました。
【輸入超過額】
1927年・・・1億8700万円
1928年・・・2億2400万円
(※4)浜口内閣のデフレ政策
その後、田中内閣退陣に伴い浜口内閣が成立。
先送りされてきた金解禁問題に本格的に取り込もうとしたのが、この浜口内閣でした。
浜口は金解禁論者の井上準之助を大蔵大臣に任命し、金解禁の準備として、「デフレ政策」を掲げます。
もっとも、10月15日には官吏の給与を1割程度減らすことを宣言しましたが、給与減が官吏以外にも波及するに違いないと感じた世論の反発もあり、10月22日に撤回しております。
(※この計画は浜口、井上の独断で行なわれました。2人の強い意志を示した形にもなります。)
(※5)世界恐慌
そんな矢先、世界恐慌となります。
10月24日の大暴落を機に何度も暴落を繰り返しました。
世界恐慌の原因としては、
①アメリカ経済を牽引していた自動車、電気、住宅などの産業が1927年頃から頭打ちになっていたこと
(1927年頃から生産過剰に陥っていました。それにも関わらず価格低下が進まなかったことから消費が冷え込む一方でした。)
②所得格差が広がっていたこと
(この時点で人口の5%が全個人所得の1/3を占めていました。一方、農業分野、工業労働者の所得は伸びておらず、内需拡大ができませんでした。)
③1925年にイギリスが金本位制に復帰した際、アメリカが低金利政策と金融緩和でイギリス経済を支援したこと
(市場にあふれた大量の通貨は、景気を刺激して株価を異常に上昇させました。バブル景気でした。)
などと考えられております。
(乱暴に言うと、「需給バランス」が崩れているのに、いつまでもこの好景気が続くと多くの人が信じたため。)
(※6)「旧平価」か「新平価」か
井上準之助は金解禁に向けて邁進しますが、円とドルの交換比率をどうするかで反対意見がありました。
まず、日米の間の交換比率は1897年の貨幣法によって100円=49ドル前後となっていました。(これを「旧平価」と呼びます。)
しかし、実際のレートは100円=44ドル程度です。(これを「新平価」と呼びます。)
よって、旧平価で金解禁を行いますと、円高ですので輸出に不利となります。
これを井上準之助は生産費引き下げなどの努力により乗り切ろうとしましたが、そうするとデフレとなりさらに景気悪化することが懸念されます。
そこで、東洋経済新報社主幹、のちの石橋湛山は、「新平価」での金解禁を主張しました。
このまま旧平価で解禁すれば恐慌になりかねない。対案としては、
①数年の月日を費やして通貨の縮小→デフレ誘導→為替相場を旧平価に戻して解禁
②新平価を制定してただちに解禁
①はデフレという悪影響が避けられないので、②こそ妙案。
(モルガン商会らも旧平価での金解禁は日本の実力に見合っていないと懐疑的でした。)
しかし、井上準之助は、
金解禁は為替相場の安定だけのために行なわれるものではない。
日本経済を根本から甦らせるために、経済の合理化とそれを受け入れる国民の意識改革こそが必要なのだ。
「新平価解禁論」は一時しのぎに過ぎない。
(※7)いざ金解禁・・・しかし、昭和恐慌へ突入。
こうして金解禁が行なわれましたが、浜口内閣におけるデフレ政策によってすでに景気は後退しておりました。
そのうえ、国内の金が大量に流出するという結果になりました。
金流出の要因としては、
①旧平価解禁による円の切り上げを見込んだ円買いからのドルの買い戻し(円売り):後述
②高利率の外貨債への投資の増加
③輸出減少→輸入拡大による
などが考えられます。
(世界恐慌だけが「昭和恐慌」の原因ではありません。)
日本は大幅な株価、物価下落。
都市では就職難。失業率は8.3~8.9%。
実質賃金も低下し、労働争議も頻発。
農村が最も打撃を受け、欠食児童、身売りも相次ぐ。
(※8)浜口首相遭難事件
犯人は右翼団体・愛国者の佐郷屋留雄。
浜口首相を襲撃した理由は世情悪化だけではなく、ロンドン海軍軍縮条約締結による統帥権干犯問題もありました。
この時の傷がたたって、浜口首相は辞任、第2次若槻内閣が発足します。
産業合理化に向けて緊縮財政を行なっただけではなく、「社会政策の推進」を行なったこと、軍縮に向けて海軍・枢密院に一歩も引かなかったことは評価されるべき。
西園寺公望
「海軍大将とか海軍中将とか世間では相当な人と思われている連中が、自分も判らないくせに、統帥権干犯だの、ロンドン条約は国家に不利である、というようなことを言うのは、無知な青年を必ず激昂させる。かくの如きことはよく注意してもらわなければならぬ」
(※9)ブロック経済へ
世界恐慌を受けて、イギリスには金での支払いを求める外国人投資家が殺到し、イギリスは金本位制を断念しました。
その後、各国も金本位制から離脱。国際金本位体制は瓦解の一途をたどり、ブロック経済となります。
恐慌の一因を需要供給バランスの悪化とみて、イギリスはポンド圏、アメリカはドル圏といった「ブロック内」で「自給自足」を目指したもの。
自由貿易の状態で一国だけが生産設備を廃棄しては他国を潤すだけだし、一国だけが需要を喚起しても輸入が増えて他国が潤うだけ、という「準ナショナリズム」的な考えに基づく。
他圏からの製品には高い関税をかけるため、日本の輸出業は大打撃。(生糸、綿織物。)
養蚕業が大打撃を受けたことに加えて、米の収穫高が上がることが予測されたことで米価格が低下。このダブルパンチで農村は大打撃。
欠食児童、身売りが社会問題に。右翼的な労働運動、農民運動も広がる。
(※10)協力内閣構想の黒幕は銀行家・投資家?
イギリスが金本位制から離脱すると、日本もそのうち離脱するであろうという憶測が広まりました。
すると金との交換が保証されない円の価値は下がり円安になると予想されます。
そこで、為替変動を利用して利ざやを稼ごうとする(円高の時に円を売り、円安の時に円を買う)銀行家、投資家が増えます。
それに対抗して井上準之助は円を買い戻す期限を12月15日とします。
そのため追い詰められた銀行家、投資家たちが井上の政策を葬り去るため、安達謙蔵内相の「協力内閣構想」(政友会との協力内閣で満州事変にあたるという考え)を後押ししたという説もあります。
(12月15日直前の出来事だっただけに、この説は信憑性があります。)
いずれにしても、財閥系銀行や投資家はドル買いで巨利を得ました。
(※東京朝日新聞は三井銀行を名指しで批判。血盟団による「三井財閥総帥・団琢磨暗殺」につながります。)
僧侶・井上日召は既成政党と財閥を私利私欲に没頭する特権階級をみなし、「昭和維新」の名のもとに「一人一殺主義」を掲げテロ活動を行なう。井上準之助、団琢磨が暗殺される。
(※11)高橋是清、管理通貨制度導入
これにより日本は各国より早く不況から脱出した、と単純に書かれることが多いのですが、数々の恐慌を経て日本の産業界が不況に強い状況になっていたことも、一因かと思います。
輸出産業の業績回復も見逃せません。
ちなみに、1932年には100円=20ドルという超円安に・・・
http://www.asahi.com/special/kotoba/archive2015/mukashino/2013052100006.html
https://www.imes.boj.or.jp/research/papers/japanese/kk21-2-5.pdf
まとめ
「金解禁」は為替変動が少なく、全世界が導入することで経済が活発化される。
しかし、戦時などには有効ではない。また世界恐慌において各国がブロック経済を敷いている状況では「正直者が馬鹿を見る」状況となった。(高関税かけられたら輸出品が売れるわけない!)
犬養首相成立後、金本位制から離脱し、「管理通貨制度」導入によって他国よりも早く不況から脱出と言われるが、緊縮財政期に産業合理化を図ってきたことも要因の1つと考えられる。
というわけで、「金解禁」が悪いわけではない。
(ただ、旧平価ではなく、新平価での解禁が望ましかった?)