~只今、全面改訂中~

鈴木荘一先生は「満州建国の真実」の副題で「外務省」を「究極の敗戦利得者」と書いておりまして、「こうなったのを陸軍のせいにしているところがあるけど、外務省も悪かったよねー」という内容を書かれております。

(名指しで批判されたのは、小村寿太郎、松岡洋右、広田弘毅。)

そんなに酷かったのかと思って、外務省について調べてみましたが、たしかに歴史を狂わせるような大きな選択ミスもしていることがわかってきました。

「超エリート」の集まりのはずなのですが、どうしたものでしょうかね。

というわけで、「亡国の外交官・外務大臣」で打線を組んでみました。

揉め事を避けるために打順は年齢順にさせて頂きました。

1中 小村寿太郎 313.18HR

評価の分かれる人ですね。日露戦争のポーツマス条約は「しょうがない」。問題はその後、ハリマン(アメリカ)が満鉄の共同経営をもちかけた時にそれを断ったこと。(【満州建国の真実】

満州を国際的なエリアにすることでロシアの脅威に国際的に対処すべきだったのではないか、というのが鈴木荘一先生の主張です。

結局、ロシア(ソ連)の脅威に米英が気付くのが遅れたために朝鮮戦争、冷戦となったわけで、最も近くにいた関東軍だけがそこに気付いていた、というのです。

【小村寿太郎】(こむら じゅたろう:1855-1911)
日向国(宮崎県)出身。日英同盟締結、ポーツマス条約締結、関税自主権回復などで知られる名外交官。桂ーハリマン協定(1905年)破棄は評価が分かれる。

2三 加藤高明 333. 25HR

護憲運動、首相時代の功績はもちろん評価して良いでしょう。

しかし、問題点は、「第1次世界大戦参戦」「対華二十一箇条」についてです。

僕自身は山県有朋をすごいと思っているのですが、山県有朋はこれらに反対しておりました。

もし、第1次世界大戦でどさくさに紛れて大陸に進出しておらず、後方支援だけでその後も国際連盟の常任理事国として活動していれば、

もし、対華二十一か条など出さずに、中国の同志たちと意思疎通をはかり、満州の治安向上、防共確立に専念していればどうなったでしょうか。

【加藤高明】(かとう たかあき:1860-1926)

尾張国(愛知県)出身。第2次大隈内閣時代に外務大臣を務め、第1次世界大戦参戦、対華二十一か条の要求などを行なう。その後は憲政会総裁として、護憲運動の中心に。1924年に内閣総理大臣となり、普通選挙法、日ソ基本条約、治安維持法を成立させた。

3左 本野一郎 260. 10HR

非常にマイナーかも知れませんが、「シベリア出兵」を強く主張したのは当時、外務大臣だった彼。

麻田雅文先生は「シベリア出兵」と「日中戦争」の類似点を挙げ、シベリア出兵の反省が全く生かされなかったために、日中戦争で同じ目に遭った、と喝破しております。

となると、もしシベリア出兵していなければ・・・となりますね。

そうすれば米騒動もありませんし。

山県有朋はやはりシベリア出兵に反対しておりました。

(※在職中に胃がん発症で辞職。後任は後藤新平。)

【本野一郎】(もとの いちろう:1862-1913)

肥前国(佐賀県)出身。外務大臣時代に強くシベリア出兵を主張。父は読売新聞創業者であり、そのルートを使ってメディアの後押しを得る。

4一 内田康哉 250. 15HR

倉山満先生が言うに、「史上最低の外務大臣」

これに異論はないでしょうか。

一番ひどいのが「焦土演説」ですね。

「日本が焦土になっても満州を守る・・・」

って、ホントに焦土になったらどうするつもりだったんでしょうか。

(事実、なりかけましたが。)

全く意味がわかりません。

Kosai Uchida.jpg

【内田康哉】(うちだ やすや/こうさい:1865-1936)

肥後国(熊本県)出身。明治・大正・昭和にわたって外務大臣を務める。彼にポリシーを見つけるのは難しいと言われるが、裏を返せば事務処理能力には長けていたのでしょう。「焦土演説」が有名。

5遊 広田弘毅 270. 11HR

文官なのにA級戦犯で死刑になって可哀想・・・という声もあるのですが、日中戦争停戦を妨げたのは彼。

トラウトマン工作のところで出てきますよ。

もし、多田駿の話を聞いて日中和平に向かっていたらどうなってでしょうか。

ちなみに首相時代は「腹切問答」で総辞職。

Kohki Hirota suit.jpg

【広田弘毅】(ひろた こうき:1878-1948)

福岡県出身。1930年代前半は斎藤内閣、岡田内閣の外務大臣として「協和外交」を展開していたのだが。「トラウトマン工作」を台無しにしたのがもったいない。

6投 松岡洋右 205.13HR、10勝12敗 防 5.65

「行動力のあるバカが一番タチが悪い」と適菜収先生が以前、書いておられますが、そのまま松岡洋右にぶつけましょうか。

「国際連盟脱退」は松岡の責任、とは言い切れませんが、

「日独伊三国軍事同盟」は松岡の責任の部分が大きいでしょうか?

もし、代表が宇垣一成で国際連盟を脱退しなかったら(松岡の外交を幼稚と批判)、

もし、親英米派が外務省の実権を握っていてドイツと手を結ばなかったら、どうなったでしょうか?

【松岡洋右】(まつおか ようすけ:1880-1946)

山口県出身。麻雀では自分の手牌ばかり見ているタイプだったことを指摘されている。「日独伊ソ四国同盟」は成立すれば役満級の手だったのかも知れないが、結果、アガれず。

7捕 森恪 240. 19HR

あれ、森恪って、田中義一時代の外務次官だからもっと上位打線では?と思うかも知れませんが、この人、実はかなり若くから頭角を現していたのです。

享年50歳と早死にしたのですが、この人がもっと長生きしていたらどうなったことか・・・

より対中強硬になって、よりひどくなっていたでしょうかね。

(※東方会議における対中強硬論が有名)

【森恪】(もり つとむ/かく:1883-1932)

「東洋のセシル・ローズ」の異名をとる。立憲政友会の政治家であるが、かなり軍部寄り。そして、立憲政友会の政治家であるが中国に友人の多い犬養毅とは犬猿の仲で、五一五事件で犬養が殺されると高笑い。

8右 大島浩 063. 3HR

出ましたね。

「駐独ドイツ大使」とwikipediaにも書かれてしまっています。

本国はヒトラーに対して警戒感をもっていたのですが、ヒトラーに心酔する彼はドイツの利益を後押しするほど。

日独伊三国同盟を後押ししました。【コチラも】

☞【プレゼン能力がやたら高い人(ヒトラー)は勝ち組サイコパス?コチラも】

Lt.Gen Hiroshi Ōshima IJA.jpg

【大島浩】(おおしま ひろし:1886-1975)

ヒトラーに傾倒。日独伊三国同盟を推進。

9二 白鳥敏夫 125. 0HR

どういうわけか次世代のリーダーとして若手にも人気があったらしいのだけど、躁病の人にそんな大役を任せちゃダメでしょ。

大島と同じく日独伊三国同盟を推進しましたが、その手法から天皇にも嫌われました。

また、日中戦争を終結させようとする「宇垣外交」にも横槍。

・意見の異なるものを口撃(石井菊次郎、芳沢謙吉、有田八朗、小幡酉吉・・・)
・赴任を渋る、赴任先から何度も帰国要請
・外務省の公金を使って芸者遊び、子を孕ませる
・日独伊三国同盟を推進、ドイツと組むよう上層部を批判
・「ファッショの本元は日本」と主張
・天皇が平和主義者なのはそそのかされているから発言(昭和天皇は白鳥が靖国に合祀されたために参拝しなくなった)
・戦争を煽る

などなど。彼を外務大臣にしなかったのはまだ良かったのかも。

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【白鳥敏夫】(しらとり としお:1887-1949)

「宇垣工作」をつぶそうとする、ほか。躁病。

番外:幣原喜重郎

「軟弱外交」と罵られたのは、あくまで相手が立憲政友会だから。

たしかに1927年の南京事件においてイギリスの誘いに乗って共同出兵しなかったことは評価が分かれるのかと思いますが。

幣原外交は近年、見直されて評価が進んでおります。

【幣原喜重郎】1872-1951.

番外:野村吉三郎

野村吉三郎といえば、日米諒解案。

日米開戦を防ぐ最後のチャンスだったかも知れませんが、野村が「ハル4原則」を日本に伝えなかったことから交渉はちぐはぐに。

もっとも仮に野村がちゃんと伝えたところで開戦が防げたとは限りませんが。

【野村吉三郎】1877-1964.

番外:吉田茂

中国の権益において一時期は「陸軍より強硬」とも呼ばれておりました。

しかし、なんやかんや言ってもこの人はスゴイですよ。

【吉田茂】1878-1967.

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