こんにちは。
私が中学生の頃は、「大正時代は歴史の踊り場」と習った記憶があります。
(今でもそうなんでしょうか)
それ以来、日清戦争・日露戦争があった「明治」、日中戦争、太平洋戦争があった「昭和」の間にあった「小休止の舞台」というイメージがあったのですが、学習するにつれてそのイメージは吹っ飛びました。
今回は、そんな「大正時代」のできごとで打線を組んでみました。
1 | 遊 | 弾劾演説(1913年) | 320.25HR |
2 | 右 | 第1次世界大戦(1914-18年) | 367.30HR |
3 | 左 | 対華二十一か条(1915年) | 221.21HR |
4 | 捕 | ロシア干渉戦争=シベリア出兵(1918-25年) | 200.13HR |
5 | 二 | 米騒動(1918年) | 235.40HR |
6 | 一 | パリ講和会議(1919年) | 370.24HR |
7 | 三 | ワシントン会議(1921-22年) | 300.16HR |
8 | 投 | 関東大震災(1923年) | 067.0HR |
9 | 中 | 虎ノ門事件(1923年) | 125.2HR |
補 | 排日移民法(1924年) | 300.8HR |
1遊 弾劾演説
弾劾演説といえば、第1次護憲運動における「尾崎行雄」です。
この人が桂太郎に向けて言った、弾劾演説は日本史史上、一、二を争う名文句ではないかと思います。
これにて桂内閣は倒壊(「大正政変」1913年)、
その後、山本権兵衛、大隈重信、寺内正毅を経て、
「政党内閣誕生(原敬:1918年)」→「原敬暗殺」→「高橋是清、加藤友三郎、山本権兵衛(第2次)を経て」→「再び閥族政治回帰(清浦奎吾内閣:1924年)」→「第2次憲政擁護運動」→「護憲三派内閣誕生(加藤高明:1924年)」→「男子普通選挙法制定(1925年)」→「憲政の常道開始(1925年)」となります。
つまり、大正時代まるまる費やして「議会制民主主義」を目指したとも考えられるかと思います。
「明治維新を開いた元勲たちの日本」から「日本国民の日本」へと変わりつつある時代でもあります。
その端緒を開いた尾崎行雄の言葉の強さには改めて力を感じます。
2右 第1次世界大戦
この、「第1次世界大戦」からの「対華二十一か条」、「ロシア干渉戦争」、「米騒動」、「パリ講和会議」、「ワシントン会議」までは一連の流れです。
「ロシア革命」、「成金の誕生」、「中韓における民族運動」などももちろん第1次世界大戦がらみですし、ちょっとマニアックなところで言いますと、永田鉄山らの「バーデン・バーデンの誓い」、「総力戦体制への意識」も第1次世界大戦がらみです。
ほかにも「イギリスの没落」、「アメリカの台頭」、「ヒトラーの誕生」なども第1次世界大戦がらみと言っても過言ではありません。
ヨーロッパが舞台・・・ではありますが、舞台となったのはヨーロッパだけではなく、日本もドイツの植民地に向かって参戦しているのが大きなポイントです。
3左 対華二十一か条
第1次世界大戦で中国におけるドイツ領の権益を引き継ごうとしたのものが「対華二十一か条」です。
中国政府に日本人顧問をおくことを要求するなど「やりすぎた」面もございましたし、そもそも第1次世界大戦の「参戦前になぜやらなかったのか」という問題がありました。
こうしたものが、パリ講和会議後の民族運動(中国では五四運動)につながっていきます。
それと、この時期はまだ「袁世凱」が政権を握っていましたが、翌1916年に袁世凱が死亡すると中国は群雄割拠状態に突入します。
奉天派、直隷軍、国民党軍、共産党軍が入り混じる中、蒋介石が頭角を現してきます。
4捕 ロシア干渉戦争(=シベリア出兵)
長引く戦争と不況に帝政への反感は増し、第1次世界大戦中に「ロシア革命」が起きました。
そのロシア革命に「干渉する」(つまり、革命をつぶす)目的で行われたものが、「ロシア干渉戦争(日本での呼び名は「シベリア出兵」)です。
レーニンは即時講和を口約していましたが、ロシアに戦線離脱されると連合国軍側は困るのです。
日本も参戦することになるのですが、領土的野心を捨てきれず、結果的に労多く益少ないものとなりました。
この責任が明確にされなかったことで、その後、日中戦争で同じ過ちを繰り返すことになるのです。
5二 米騒動
シベリア出兵決定により投機筋が米を買い占めたことが遠因となり、「米騒動」が勃発します。
ここで注目すべきは、「民衆の結束する力」が強まっていることでしょう。
護憲運動にしてもそうですが、広い意味での「社会運動」が活発化したのも大正時代の特徴と言えましょう。
吉野作造の「民本主義」はこの2年前、1916年です。
また当時、第1次世界大戦の影響で成金が出現するほど「大戦景気」と言われていましたが、「潤ったのは一部だけ」という社会構造も見逃せません。
6一 パリ講和会議
第1次世界大戦が終戦を迎え、1919年1月から「パリ講和会議」が開催されました。
日本の代表は西園寺公望、牧野伸顕。近衛文麿、松岡洋右、吉田茂、重光葵らも随行しております。
日本は「外交ベタ」と言われますが、なかなかどうして、結局、この会議において日本はドイツのもっていた中国での権益、ドイツのもっていた南洋諸島の統治権を手にすることになります。
さらに、国際連盟の常任理事国になることも決まります。
(明治維新当初を考えると、大きな進歩ですね。)
7三 ワシントン会議
試験頻出で受験生の頭を混乱させるのが、この「ワシントン会議」でしょうか。
第1次世界大戦で各国とも疲弊したため、軍拡競争するのはやめよう、というのが1つの主旨であります。
しかし、だからといって、「陸軍」の軍縮話ではありません。「海軍」の軍縮話の問題でして、ここで主力潜水艦の保有トン数比率などが定められます。
(1930年、ロンドン軍縮会議では「補助艦」の保有トン数が定められますね。)
さらに受験生を悩ませるのは、ここで決められたことは海軍軍縮だけではなく、太平洋問題の調整、中国問題の調整も行なわれたことです。
太平洋問題の調整は「四カ国条約」という形で結ばれ、
中国問題の調整は「九カ国条約」という形で結ばれました。
なお、日本の全権は加藤友三郎(当時、海軍大臣)、幣原喜重郎(当時、駐米大使)、徳川家達でした。
8投 関東大震災
大正時代で忘れてはならないのは「関東大震災」でしょう。
なんせ、死亡者数は10万人以上。
第1次世界大戦時の好景気から一転、「戦後恐慌」に陥っていましたが、さらに追い打ちをかけることにもなりました。(「震災恐慌」)
また、この震災時のデマで一般人が殺されるという事態も生じました。ターゲットとなったのは、「井戸に毒を投げた」と言われた朝鮮人のほかに、日本人も疑惑の目を向けられました。
コロナ禍の現代では「自粛警察」などという言葉も生まれましたが、「自警団」の活動を考えますと、市民活動も良いことばかりではない、と思いました。
また、どさくさに紛れて「甘粕事件」も生じております。
9中 虎ノ門事件
日本史を勉強していて驚いたのが、この「虎ノ門事件」です。
無政府主義者・共産主義者の難波大助が皇太子・裕仁親王を狙撃した事件です。
ステッキに仕込まれた銃で、裕仁親王の乗られる車の窓ガラスを割ったとのことですが、万が一、裕仁親王が亡くなってしまったらと思うと、想像を絶します。
補:排日移民法
日米関係を「過小評価」されてしまっているものがこの「排日移民法」です。
1920年代アメリカのハーディング、クーリッジ、フーヴァーと続く共和党政権は実は「親日」でした。
そして、この「排日移民法」というと、日本だけが締め出されたような印象を受けますが、調べるとむしろ日本には最大限配慮されていたことがわかります。
(「排日移民法」という呼称も日本だけのものです。)
では、なぜこのような呼称がついてしまったのかと言いますと、1930年代に軍部のプロパガンダ(宣伝)として用いられてしまったからなんですね。