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☞【張作霖爆殺事件で張学良がとった行動は?】『§3.北伐から張作霖爆殺事件へ』(家近亮子先生)

昭和史講義より
『§3.北伐から張作霖爆殺事件へ』(家近亮子先生)

【これまでの教科書的理解】

「北伐」…国民党・蒋介石による北部軍閥への攻撃。

「張作霖爆殺事件」…1928年。軍閥の張作霖は満鉄に並行して鉄道を敷き始めたことで、関東軍により爆殺。首謀者の処置を求める昭和天皇に対して田中義一首相は陸軍を断罪できず、昭和天皇から叱責、のち死亡。

【まとめ】

★中国成立が中国人だけの手によって行われたと考えていたら、それは間違い。軍事力不足を補うために孫文はソ連と連携これにより国民党と共産党合同で北伐に向かった

★途中、共産党軍が外国人を襲撃する姿を目の当たりにした蒋介石は共産党と袂を分かち、1927年、南京に国民政府を樹立する

★蒋介石は田中義一との会談(1927年)で、日本は「張作霖を助けるのではなく、満州の権益が全てである」ことを確認し、共に「反共」を誓ったが、2人の間には意識のずれがあり、それが第2次、第3次山東出兵につながった。

★張作霖爆殺時点ですでに張学良は蒋介石との和平を決定していた?

田中義一。写真はwikipediaより。

【略年表】

1911 孫文らによる辛亥革命で清朝による中国支配が終わる。(※1)
1912 1912年1月1日、臨時大総統に選出された孫文は南京で中華民国の成立を宣言。(※2)
1915 日本は対華21カ条を袁世凱に認めさせ、満蒙と山東省の権益を得た。(※3)
1916 袁世凱死去。(※4)
1921 ワシントン軍縮会議で「9か国条約」が締結。英米の仲裁により山東省における日本の既得権益はほぼ無効に。駐屯軍は撤兵。(※5)
1924 共産党との合作。(※6)
1925 孫文死去。「革命いまだならず」(※7)
1926 国民党軍は蒋介石を総司令官に任命して北伐出発。(※8)
1927 漢口事件、南京事件が相次ぐ。(※9)

武漢政府(国民革命政府)から蒋介石が独立して、南京に国民政府を樹立。(※10)

同時期、日本では田中義一内閣が成立。早速、第1次山東出兵が行われる。(※11)

武漢北伐軍・蒋介石の会議で国共合作停止が決定、同時に蒋介石の下野も要請され、蒋介石は下野。(※12)
1928 1月、蒋介石は国民党軍総司令官に復帰。4月には第2次北伐を開始。張作霖軍100万と北伐軍の争いに先駆けて、日本軍が介入居留民保護の目的で「第2次山東出兵」が行われた。(※13)

済南は日本がおさえたのち、張作霖と北伐軍は衝突。張作霖大敗。張作霖は奉天に帰る途中の電車で爆殺。(※14)

かくして北伐軍は張作霖不在の北京に無血入城し、北伐の完成を宣言。(※15)

(※1)実態はもっと複雑。そもそも革命を指導した中国同盟会には孫文の興中会(広東)の他、湖南の華興会、浙江・上海の光復会らが大同団結した(1905)ものであり、政策的には様々な違いがあった。他にも長江流域の共進会、武昌の文学社などがあった。いずれも揚子江以南に基盤をもっており、革命は「南から北」へ進展した。

♨さらに各地に軍閥が跋扈。「中国」とは何?と言った状態であったが、どういうわけかアメリカ大統領ウィルソンは中華民国を承認。

(※2)この時点で溥儀は退位しておらず、清国を倒壊させるには北洋軍閥の首領、袁世凱の力が必要であった。孫文は首都を国防上の問題として南京か武昌に移すことを求めたが、袁世凱は拒否。袁世凱は南方の革命政党を弾圧し、中国は北京政府と南方の革命政権とに分裂状態となった。

(※3)対華21か条は袁世凱側が日本が過剰な要求をしていると見せるための「プロパガンダ」であったというような意見も。特に5号。しかし、21個は多過ぎた。コチラも。

(※4)袁世凱死後も対立状態は続く。孫文は北伐を試みるも軍事力不足で断念。

(※5)鉄道会社と鉱山の経営権は日支合弁で経営権は残っていたため、日本人居留民は1万8000人に増加。

(※6)自らの軍事力不足を補うために孫文はソ連と提。中国共産党との合作に踏み切った。

(※7)孫文の死後、国民党は共産党との関係を軸として分裂。

(※8)蒋介石は軍学校の校長であった。当面の目標は湖南・湖北省を支配していた呉佩孚(ご はいふ)と福建・浙江省の孫伝芳。軍閥が列強と結びついていることが諸悪の根源として「反帝国主義」の名目で行われるなど共産主義的影響が強かった。しかし、共産党員により諸外国施設の破壊、外国人居留民襲撃が横行したことで諸外国との衝突が激しくなり、襲撃を認める武漢政府および共産党勢力と蒋介石とは次第に対立

(※9)イギリス兵の暴行に抗議した民衆が漢口の租界に乱入。イギリスは中国に譲歩して租界内での司法権、行政権、警察権を中国に返還する決定を行ったが、逆に大衆を勢いづかせ、南京を占領した国民革命軍は民衆とともに外国領事館、外国人居留民などを襲撃。英米軍が発砲して中国人民衆約2000人が死亡。米国人1名、英国人2名、日本人も1名死亡した。

(※10)軍は蒋介石に忠誠を尽くしていた。武漢政府は軍事力を持っていなかった。しかし、独自の北伐を遂行するとして地方の既存の軍隊をそのまま国民革命軍に組み入れた。

(※11)同時に北京の張作霖の情勢も探る。北伐軍の動向が日本の利権と大きく関連するという判断がそこにはあった。

(※12)この会談でコミンテルン顧問のボルディンが解任されソ連へ送還されることが決定したが、武漢政府トップの汪精衛が蒋介石の下野に固執したため、蒋介石は下野せざるを得なくなり、下野。その後、日本旅行を行う。妻の宋美齢の母親を訪ねた。また、民政党浜口雄幸総裁、政友会田中義一首相への訪問も実現した。田中との会談で、日本は「張作霖を助けるのではなく、満州の権益が全てである」ことを確認し、共に「反共」を誓ったが、2人の間には意識のずれがあり、それが第2次、第3次山東出兵につながった、という。

(※13)蒋介石は日本軍との衝突を避けたが、日本軍は済南城に砲撃を開始。これが済南事件。

♨協力して反共にあたっていれば、良かったのか、どうだったのか。いずれにしても中国はまだ統一されていない状況。

(※14)奉天の他の武将は奉天への引き揚げを勧告したが、張作霖は戦闘を選ぶ。大敗した帰路で爆殺、犯人は河本大作。「満蒙の諸懸案を解決して、日本人の発展、シナ住民の幸福をもたらし、満蒙を楽土たらしむ為には張作霖殺害より外に策なく」とのこと。爆破当日に張学良は奉天に向かう。

(※15)この時、すでに張学良と蒋介石の間で和平交渉が成立していたと思われる。張学良の国民政府への参加は、満蒙を切り離すことを企図していた日本(というか関東軍)にとっては危機として映る。

♨現在では張作霖爆殺事件は関東軍の河本大作によるものとされているが、コミンテルン謀略説も完全に否定されたわけではない。→現在では、「完全に河本大作の犯行とされている。」

【張作霖】

日本は寺内内閣時代から張作霖支持を表明し、多額の借款を行う見返りに東北の大豆などを独占し、満州に対する経済的、軍事的介入を深めていた。

幣原外交で特定の軍閥と関わりを深めることは改められる方向で進んでいたが、次の田中義一とは日露戦争以来、旧知の間柄であった。

♨しかし、元を正せば、「匪賊」。ギャングみたいなもの。

【北伐軍ならまだしも、なぜ日本軍に爆殺されなければならなかったのか?】

♨結局、張作霖とい人物が信用ならなかったに過ぎない。

♨日本軍の支持もあったのだが、満鉄に並行して鉄道敷き始めたり。

♨蒋介石をとるか、張作霖をとるか、という点で、蒋介石を選択。

【張作霖爆殺事件は日本にどんな影を落としたか?】

♨田中義一は早くから陸軍の関与をつかんでいたらしいが、陸軍への配慮から首謀者の処罰をすることができなかった。

♨ちゃんと解決すると約束しながら、処罰しなかったことに昭和天皇は田中義一を叱責。

このことがこたえたのか(それだけはないかも知れないが)田中義一は狭心症(?)で死亡。

昭和天皇は以後、なるべく叱責しないように努めることを決める。(叱責した方が良かったであろう場面も散々あったが)

因縁の2人。張学良(左)と蒋介石(右)。1930年11月。wikipediaより。

次章はロンドン海軍軍縮条約と統帥権干犯問題