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☞【張作霖、徐州で大敗】「張作霖の没落期」(『満州建国の真実:§3c』)

こんにちは。

今回ご紹介しますのは「張作霖の没落期」についてです。

前回まではコチラ

北京政権を奪取した張作霖でしたが、北からはソ連、南からは蒋介石がその首を狙っており、さらには、直隷派の面々や、馮玉祥ら軍閥もまだ残っている状況で、まだまだ油断ならない状況が続きます。

以下、『満州建国の真実』(鈴木荘一、2018年)を参考に記します。

【年表】蒋介石北伐開始(1926年7月)~張作霖爆殺(1928年6月)

1926.7.1蒋介石による「北伐」宣言
1927.1.1北伐軍、占領した武漢に首都移転
1927.3.24蒋介石軍による「南京事件」(※1)
1927.4.3漢口事件
1927.4.6張作霖による「ソ連大使館強制捜査」(※2)
1927.4.12蒋介石、「上海クーデター」(※3)
1927.4.15蒋介石、南京政府樹立。
1927.4.20若槻内閣から田中内閣へ
1927.5.28日本軍、「第1次山東出兵」(※4)
1927.6.28張作霖、大総統就任。
1927.9.蒋介石の「南京政府」と汪兆銘の「武漢政府」が合体(※5)

※蒋介石と田中義一による密約
1928.4.8蒋介石による「第2次北伐」
1928.4.19日本軍、「第2次山東出兵」(※6)
1928.5.3蒋介石軍、「済南事件」
1928.5.9日本軍、「第3次山東出兵」(※7)
1928.5.23張作霖、満州帰還決意(※8)
1928.6.4張作霖爆殺事件(※9)
1928.6.8蒋介石、北京入城(北伐完了)

(※1)蒋介石軍による「南京事件」

「北伐」宣言した蒋介石軍は北へ向かう途中で南京へ入城します。

しかし、この軍隊は「暴戻」な軍隊でした。

この蒋介石軍がイギリス、アメリカ、日本などの領事館、学校、会社、居留民などを襲って財産を強奪したのが「南京事件」です。

(※日中戦争時の「南京事件」とは異なります。)

北京、奉天(張作霖)、南京(蒋介石)、武漢(汪兆銘)の場所

この事件でイギリス人2名、アメリカ人1名、日本人1名など計7名が斬殺されました。

(婦人たちは陵辱され、金品は掠奪・・・)

支那暴民100名も押し寄せて、「便所の蓋」さえ盗む始末でした・・・。

(※4月3日にも同様の漢口事件勃発)

そのため、英、米、日、仏、伊は蒋介石に厳重抗議しました。

英米は南京市外を砲撃し、さらに日本に「共同出兵」をもちかけます。

しかし、若槻禮次郎政権は紛争拡大を避けるべく、出兵しませんでした。

(「不干渉主義」をとっておりました。)

最終的に加害者の処罰、賠償金で決着させましたが、この姿勢は「軟弱外交」と呼ばれ、若槻内閣が辞任に追い込まれる一因ともなりました・・・。

「九カ国条約」の内政不干渉を貫き・・・。

(※2)張作霖のソ連大使館「強制捜査」

蒋介石軍の「南京事件」を見た張作霖は「中国共産党とソ連が秘密裏に連携している」と判断しました。

そのため、官憲をソ連大使館へ乱入させて強制捜査しました。

結果、武器、宣伝ビラ、名簿などを押収し、ソ連が北京政権を倒そうとしている計画を知りました。

また、ソ連大使館内に隠れていた李大釗ら中国共産党員80名以上を逮捕、20名以上を処刑しました。

勝手に強制捜査したことに対してソ連は激怒。

ソ連と張作霖は、一触即発の状態となるのです。

(※3)蒋介石、上海クーデターからの南京政府樹立

南京事件で列強から抗議を受けた蒋介石は、

南京事件の犯人は中国共産党である

と責任転嫁しました。

4月12日、上海で中国共産党員を一斉逮捕し、銃殺します。

(「上海クーデター」。これにより「第1次国共合作」は崩壊します。)

その後、4月15日、南京国民政府樹立し、国民政府は汪兆銘の武漢政府と蒋介石の南京政府が並立することになりました。

(中国共産党は独自の軍事力を確立すべく、8月1日、南昌で武装蜂起しました。)

北伐の最中、短い間に離合集散を繰り返しているところが逆にスゴイ。(よくこれで何とか統一できたな、と。)
ちなみに呉佩孚(元・直隷派)は奉天側につき、武漢を拠点に戦っていましたが惜敗。
一方、馮玉祥は蒋介石側につきました。

(※4)第1次山東出兵

北伐軍の通路に山東省があります。

ここは日本人居留民が多い地域です。

田中義一内閣は日本人居留民保護のために「第1次山東出兵」を行いました

(当時、日本は金融恐慌で財政難であったため内地からの出兵を避け、旅順からの兵2000が出兵しました。)

この頃は北軍もまだ勝利する場面も多く、蒋介石は武漢政府との協調を優先させます。

(※5)国民政府が合体

汪兆銘政権も中国共産党と決別。

南京政府と合体します

一時的に下野していた蒋介石は日本を訪れます。

そして田中義一首相と満州における日本の利権を認めることを密約します。

(しかし、その後の北伐で満州まで攻め込む予定があったのかは疑問・・・)

(※6)北伐再開、第2次山東出兵

武漢政府と協調路線をとって蒋介石の北伐が再開。

張作霖は徐州付近で交戦しますが大敗

(蒋介石軍はソ連の赤軍将校育成を模範とした黄埔軍官学校卒業生を中心としており、北洋軍閥よりはるかに精鋭でした。また、各地の軍閥が蒋介石に多く味方しました。)

そして、蒋介石軍は済南へ進みます。

ここで田中内閣は日本領事館からの悲痛な訴えを聞いて「第2次山東出兵」を行います。

しかし、完全に済南を防備することができず、再び居留民が襲撃されました

「在留邦人23人が手斧・棍棒・玄能(大型の金槌)・鳶口などにより両目喪失・全内臓露出・陰茎切断など斬殺され、婦女2名が凌辱され、日本人家屋136戸が略奪を受けた・・・

「済南事件」について

(※7)第3次山東出兵

この「済南事件」が伝えられると日本国内は怒りが沸騰、第3師団(名古屋)も出兵することになりました。

「第3次山東出兵」です。

今回は圧倒的勝利により蒋介石軍は済南から撤退しました

(※8)張作霖への奉天引き上げ勧告

さて、張作霖は徐州で大敗しましたが、なおも戦闘意欲が旺盛でした。

しかし、日本としては張作霖を追って蒋介石軍が満州へ乱入すると、満州が蒋介石のものになって、日本が追い出されるのではないかと懸念します。

(田中首相と蒋介石の密約は、全く信用ならなかったのでしょうか?)

張作霖はなかなか日本側の帰還要請に応じませんでしたが、息子の張学良、総参謀長・楊宇霆らの説得もあってようやく帰還を決意します。

(※9)張作霖爆殺事件

しかし、張作霖が乗った、北京から奉天へ向かう列車が爆破されました

(張作霖死亡。)

・・・この時期、満州をめぐって4つの考えがありました。

①張作霖を満州の覇者として支援(一方、長城以南は国民党の支配を認める)・・・田中義一ら立憲政友会。

②中国問題に不介入。満州も北伐軍が支配してもしょうがない。・・・浜口雄幸、幣原喜重郎ら民政党。

③張作霖ではない傀儡政権を樹立するべき・・・関東軍。

④日本が支配・・・一夕会ら。

張作霖を爆殺したのは関東軍と言われております。

一方、田中首相は張作霖支援。

つまり、張作霖事件は「張作霖排除」を目指す関東軍が田中首相の意に反して実力行使を行なった、といわれています。(他の説については次章。)

郭松齢の反乱の時に張作霖を支援したのは間違いだったかも知れない・・・

(しかし、郭松齢政権になったところで、郭松齢が親日となったかは疑問だが・・・)

★【関東軍はなぜ張作霖を爆殺したのか?】

①1万400人の関東軍は蒋介石やソ連と妥協して満州を平穏に保ちたい。
②張作霖は蒋介石との交戦意欲が強く扱いかねる。
③張作霖はソ連大使館に乱入して強制捜査するなど、ソ連と無用の摩擦を起こすので扱いかねる。

というのが大方の意見。

つづきはコチラ。