こんにちは。
今回ご紹介しますのは、「南北朝時代第3期①:1368年」です。

上杉憲顕の留守中に、関東で河越直重らを中心とした「平一揆の乱」が勃発。
しかし、これは上杉朝房と、京都より戻った上杉憲顕により鎮圧されました。
その後、上杉ら鎌倉府軍は宇都宮を攻めて、これも鎮圧します。
一方、関西では和平派とされた後村上天皇が死去し、主戦派の長慶天皇が即位。
和平交渉は白紙に戻りました。
貞治7年→応安元年/正平23年(1368年)年表
1/25 | 上杉憲顕、再び上洛 ※将軍義詮の死去を受け、細川頼之と今後の政権運営について相談したものと考えられる |
2/5 | 武蔵平一揆の乱 ※上杉憲顕の留守を狙って河越直重、挙兵(5日とするものもあれば、8日とするものもあり) ※「平一揆」とは、旧桓武平氏秩父党を中心とした軍閥。河越直重がリーダー的立場。 ※同じく平一揆の中心人物である高坂氏重らが河越館に集結 ※かつて「薩埵山体制」として鎌倉府の中核にいた宇都宮氏綱もこれに呼応 ※上杉朝房(上杉憲顕の甥)が幼少の足利氏満を擁して河越に出陣 (足利氏満のwikipediaでは平一揆の乱が1月であるかの記述があるが、おそらく2月の誤り) |
2/18 | 応安に改元 ※疫病・天変による |
2/24 | 桃井直常、無断で越中国に出奔 ※北朝に帰参していたが、1年も持たず離脱、幕府に反抗 ※越中守護は斯波義将に交代、桃井討伐を命じられる |
2/ | 征西府軍、本州進軍も大内氏に阻まれる ※九州の南朝勢力は義詮死亡をチャンスとみて東征軍を起こすが、長門・周防を守る大内弘世に阻まれた |
3/11 | 後村上天皇死去 ※41歳。息子の長慶天皇(26歳)が践祚。 ※後村上天皇は和平に前向きだったが、長慶天皇は主戦派で、さらにカリスマ性もあったため、和平派であった楠木正儀は立場が危うくなる |
3/28 | 上杉憲顕、鎌倉に戻る ※平一揆挙兵を聞いて京都より下向。鎮圧に乗り出す。 |
4/15 | 足利義満、元服の儀 ※烏帽子親は細川頼之。細川一門がすべて取り仕切る。 |
6/17 | 管領細川頼之、「応安大法」発令 ※「応安の半済令」とも、「寺社本所領事」とも。 ※寺社本所領保護への姿勢を打ち出す |
6/17 | 上杉朝房、河越館を攻め落とす ※河越直重は伊勢へ逃亡 ※以後、武蔵国の名門として400年続いた河越氏は歴史から姿を消す |
閏6/2 | 平一揆の乱、終結 ※残党狩りののち、鎌倉府軍は宇都宮氏綱を叩きに下野国に進む |
閏6/25 | 鎌倉府軍vs宇都宮氏綱戦闘開始 ※足利にて |
8/29 | 鎌倉府軍、宇都宮城への攻撃開始 ※追い詰められた宇都宮氏綱は9月か10月には降伏 |
9/19 | 上杉憲顕、陣没 ※享年63歳 ※関東管領の職は息子の上杉能憲と、甥の上杉朝房に引き継がれる |
12/ | 南朝は吉野に後退 |
12/30 | 足利義満、征夷大将軍就任 ※足利義満のwikipediaでは「応安2年(1369年)」とあるが、将軍空位期間がそこまで長いはずがない。 |

さて、細川さん、義詮さまもお亡くなりなられた今、どうやって幕府を運営していきましょうかな。

上杉どの、しかし今はそんな話している暇はなさそうですぞ。。。河越直重ら平一揆が反乱を起こしたみたいです。

なあに、私の後継者たちがいるから大丈夫ですよ。

上杉憲顕がいない今こそチャンスじゃ!義詮さまも亡くなられて京都も混乱してる最中であろう!われわれ、平一揆の力を見せつけてやろう!!

なんだ、てめぇ!成敗してやるっ!

え!なんかガチでヤバそうなのが来たーーっ!!ん??まさか未来から上杉謙信が来た…??

バカたれ、わしの名は上杉朝房じゃ。それに上杉謙信は上杉姓を名乗っとるが、血縁関係はないっ。

ダメだ、こいつには勝てん。。。それに上杉憲顕も戻ってきた。。。退散じゃ。。。

さて、この勢いで次は河越に味方しやがった宇都宮の番だな!下野へ行くぞ!憲顕おじさまの「薩埵山の戦い」のリベンジだ!

ゲゲゲ。。。河越さんに加勢したのバレてるか。。。いかん、あいつ強いぞ。。。

朝房、立派になったな。私の役目はこれで終わりじゃ。あとは任せたぞっ。

はい、能憲兄さん(2歳年上の従兄)と一緒に鎌倉府を守ります!

俺はさー、直義さま、直冬さまのいない体制派ってのはやっぱり合わねえんだよな。道誉さんには世話になったが、好きにやらせてもらうぜ。

九州の南朝のやつらが攻めてきましたけど、蹴散らしてやりましたわ。ここは私がいますから大丈夫ですわ。

年齢も近く、戦友でもある後村上天皇がお亡くなりになられた。。。この先、私は一体どうすれば。。。長慶天皇は話が通じなさそうだし。。。

管領の職を引き受けたのは良いが、寺社の強訴には悩まされるし、諸大名は言うこと聞かんし。。。