~只今、全面改訂中~

こんにちは。

何気に試験で役に立ったのが、この「源氏打線」です。

正直、似たような漢字だらけでややこしいのですが、それだけに「打順」をつけると時系列がハッキリするかと思います。

というわけで、「源氏」で打線を組みました

打線の特徴としては「DQNな核弾頭」+「強力クリーンナップ」です。

そして、「6番打者の大失敗」を「9番エース」が挽回する構図。

平氏と異なり「直系」で打線を組めてしまうところが人材豊富でスゴイところでもあります。

1右 源経基 200.20HR
2中 源満仲 343.24HR
3捕 源頼信 400.40HR
4三 源頼義 425.46HR
5遊 源義家 389.42HR
6左 源義親 189.30HR
7一 源為義 300.15HR
8二 源義朝 370.24HR
9投 源頼朝 400.40HR 24勝7敗 1.25

【まずは覚え方】

まず、「ケーキの 真ん中」という語呂を活用。これで、1、2番が決定。

1.経基
2.満仲

続いて、有名な5番義家を書き込む。

1.経基
2.満仲
3.
4.
5.義家

3番4番は源氏の代表的な名前である「頼」を縦に書き、

続いて、「信」・「義」と縦に書く。

(「信」・「義」を忘れたとしたら、5番義家から4番頼義を導くか、「クリーンナップ」→「信頼のクリーンナップ」から3番頼信を思い出す。)

3.
4.
5.義家

続いて9番エース頼朝を書き込む。

1.経基
2.満仲
3.頼信
4.頼義
5.義家
6.
7.
8.
9.頼朝

そして、頼朝から「朝」をとって、発音が似ている8番「義朝」、その8番義朝から「義」をとって、7番為義。

7.為
8.
9.頼

残った6番は親は「親」不孝者。親=義家なので、義親。

6.義親

これで源氏直系打線が完成。

1.経基
2.満仲
3.頼信
4.頼義
5.義家
6.義親
7.為義
8.義朝
9.頼朝

さて、実際の人物評。

1【右】 経基

「939年、藤原純友の乱を平定した」と書かれることもあるが、どうも大した活躍はしてはいない

さらには、横暴な受領として将門の乱の一因にもなったが、将門にはビビリまくり

「源氏の祖」というネーミングはあまりふさわしくない。

2【中】 満仲

969年、安和の変で源高明を失脚させるなど藤原家に貢献。

もともと源氏は藤原氏の私兵、と考えておくとこの件はわかりやすい。

(一方、「平氏」は「天皇の私兵」。)

源高明が藤原実頼らの陰謀で失脚。(安和の変)

3【捕】 頼信

1028年、甲斐の国司に任じられ、下総で起きた1031年の平忠常の乱を平定

(というよりは無傷で忠常が降参)。

道長に仕える。

これにて源氏の地位が向上。

4【三】 頼義

1051年、「前9年の役」で安倍氏を滅ぼす。

安部頼良は頼義に配慮して名前を変えるほど。

勇決群を抜き,才気世を被う

との評も。鶴岡八幡宮が源氏の氏神となったのは彼の代から。

「マンガ日本の歴史」より

前九年合戦(ホントは12年:コチラも

5【遊】 義家

「八幡太郎」の名で有名。

1083年、「後3年の役」で清原氏の内紛に介入したが、白河上皇の陰謀もあり恩賞はなかった。

これで東国武士団との関係は強固になったという説もあれば、それほど東国武士が参加していなかったという説もあり。

白河上皇の策略で弟の義綱が優遇されていた時期もあったが、のちに方針転換で院昇殿を許されるまで昇進。

「マンガ日本の歴史」より。

後三年合戦はかなり複雑な経過をたどる。古代史講義戦乱篇はコチラ

6【左】 義親

義家の息子でありながら1107年、源義親の乱をおこす。

とんでもない暴れん坊。

最終的に平正盛に討たれ、以後平家優勢になった。

一方、源氏は内紛もあり弱体していく。

7【一】 為義

摂関家と結びつくも、1156年の保元の乱で死す。

曲亭馬琴『椿説弓張月』のモデルは八男の源為朝。

8【二】 義朝

保元の乱では父親、兄弟を討たねばいけない事態となる。

相模を拠点に東国武士とつながりを深めるも、1159年の平治の乱で死す。

38歳。

【投】 頼朝

ご存知、鎌倉幕府初代初代征夷大将軍。

父を失って頼るものもいなかった状態から良く征夷大将軍にまでなった。

しかし、彼が「武士の棟梁」に選ばれたのは彼の血統が良かったからではなく、彼がもっとも武士の願いを聞いてくれそうであったからである。

(「棟梁」候補は他にもいた。)

義経や北条政子の方が人気はあるかも知れないが、頼朝のことはもっと評価しても良いと思う。