~只今、全面改訂中~

こんにちは。

今回ご紹介しますのは、「1083年、後三年合戦」です。

「奥羽12年戦争」を間違って9:3に分けたために、「前九年、後三年」と呼ばれることになりましたが、本当はそれぞれ「12年、5年」に及ぶ争いでした。

源氏のピンチを救い、東北の覇者となった清原氏の内紛が後三年合戦のきっかけです。

安倍氏は滅んだわけではなく、その女系が重要な役割を果たします。

また、当然のように源氏も絡んできます。

【本項の内容】

①複雑な家系図
②延久2年北奥合戦(延久蝦夷合戦):1070年
③後三年合戦:第1R
④後三年合戦:第2R

①複雑な家系図

p258より借用。つまり、安倍氏の女系子孫が奥州藤原氏

「前九年合戦」で勝者となった清原武則の息子、武貞の家系が続いていれば、ここまで混乱することはなかったのでしょう。

しかし、

1.武貞の先妻が早くに亡くなった(→その子が真衡:さねひら)
2.後妻に安倍頼時娘(連れ子あり)を得た→(その子が藤原清衡:きよひら
3.後妻との間に新たに子供ができた(→その子が家衡:いえひら)

によって、後継者争いが起こり、ここに源氏が絡むことで、より規模が拡大するのです。

②延久2年北奥合戦(延久蝦夷合戦):1070年

★知名度は低いですが、陸奥守・源頼俊と清原真衡(注:貞衡説もあり)が北海道勢力?と戦った戦のことです。

★この戦いで清原氏の力は陸中海岸沿岸から青森県、北海道とかなり広い範囲まで及びました。

③後三年合戦:第1ラウンド

清原家と安倍家の縁組により生じた3人の後継者

★清原武則の子、武貞は夫・藤原経清を失った安倍頼時の娘を後妻に迎え、その連れ子である「清衡」も引き取りました。

★これは略奪婚ではなく、清原氏が安倍氏と結ぶことでトップとしての正当性を保とうとしたためと考えられます。

★しかし、武貞には先妻の子、「真衡」もいたうえに、武貞と頼時娘の間に新たに「家衡」が生まれました。

火種満載ですな。

しょうもない!真衡と吉彦秀武の対立原因

★1083年時点で、清原氏の当主は、武貞の先妻の子、真衡でした。

★真衡は養子の成衡と源頼義娘を結婚させようとしていましたが、祝福に来た一族の長老、吉彦秀武(きみこ の ひでたけ)を無視して囲碁に興じておりました。

★無視された吉彦秀武は怒り、出羽に戻ります。すると、真衡は吉彦を攻めました…。ここで、吉彦は清衡・家衡に呼びかけ、「真衡」vs「吉彦(出羽)+清衡・家衡(陸奥)」との戦いが始まります。

 
え?そんな理由で戦争になっちゃうの?

勉強しなさいという親の話を無視してゲームに夢中→戦争みたいな勢い・・・
 
争いの原因は囲碁だけではなく、いろいろあった、んだと思うけど…、まさかね…。

「真衡・源義家」vs「吉彦秀武・清衡・家衡」

★ちょうどその頃、義家が陸奥守となり下向しました。ここで、真衡は義家を味方につけます。

★吉彦秀武・清衡・家衡たちは義家の前に敗れます。

★しかし!勝者であったはずの真衡が急死してしまうのです。ここまでが第1段階。真衡急死によりさらなる混乱が起きます。

④後三年合戦:第2ラウンド

「清衡・源義家」vs「家衡」

★敗者復活戦のような形で、今度は清衡と家衡の争いが勃発します。

★先手をとって家衡は清衡の家族を殺します。

★一方、清衡は義家を味方につけました。

★「清衡・義家」軍は苦戦を続けていましたが、義家の弟、義光が援軍に駆けつけたこともあって勝利します。

★義光は官職を投げ打って駆け付けました。これは、東北の利権はそれほど魅力であった証でもあります。

石ノ森章太郎「マンガ日本の歴史」

後三年合戦その後

★源義家は東北の騒乱を鎮めた形となりましたが、朝廷はこの戦を「私戦」と扱い、義家への恩賞はありませんでした。

★一方、清衡は東北の覇者となり、さらに実父の姓に戻して、奥州藤原氏の礎を築いたのです。

 
結果的に、前九年で倒された安倍頼時の家系が生き延びた。

大塚先生も言っているけど、女系をたどることは面白い

コチラも:後三年合戦は白河天皇時代

古代史講義:平泉と奥州藤原氏はコチラ

【終】