~「もう一つ上の日本史」出版に伴い、勉強方法も変える必要が出たので、全面改訂突入します~

【本項の内容】
①延久2年北奥合戦(延久蝦夷合戦):1070年
②後三年合戦:第1R
③後三年合戦:第2R

その前に複雑な家系図

p258より借用。つまり、安倍氏の女系子孫が奥州藤原氏

前九年合戦の勝者は清原武則。

清原武則の息子、清原武貞の家系が長く続いていれば、ここまで混乱することはなかったのだろうが、

1.武貞の先妻が早くに亡くなった(→その子が真衡)
2.後妻に安倍頼時娘を得た
3.後妻に連れ子がいた(→その子が藤原清衡)
4.後妻との間に子供ができた(→その子が家衡)

ということが問題を引き起こす。

ここに源氏がからんできて、より規模が拡大。

①延久2年北奥合戦(延久蝦夷合戦):1070年

★一般には知られていないが、陸奥守・源頼俊と清原真衡(注:貞衡説もあり)が北海道勢力?と戦った戦。

★この戦いで清原氏の力は陸中海岸沿岸から青森県、北海道にまで及んだと考えられる。

★清原氏の支配域はかなり広い範囲だったと言える。

ちなみに安倍氏(陸奥国側)も清原氏(出羽国側)も蝦夷の子孫ではないかという。

②後三年合戦:第1ラウンド

清原家と安倍家の縁組により生じた3人の後継者

★清原武則の子、武貞は夫・藤原経清を失った安倍頼時の娘を後妻に迎え、その連れ子である清衡も引き取った。<1>

★これは略奪婚ではなく、清原氏が安倍氏と結ぶことでその正当性を保とうとしたためと考えられるようになった。

★やがて、武貞と頼時娘の間に家衡が生まれる。<2>

★武貞には先妻の子、真衡もいた。<3>

火種満載ですな。

しょうもない!真衡と吉彦秀武の対立原因

★1083年当時、清原氏の当主は真衡。

★真衡は養子の成衡と源頼義娘を結婚させようとしていたが、祝福に来た一族の長老、吉彦秀武(きみこのひでたけ)を無視して囲碁に興じた。

★吉彦秀武は怒り、出羽に戻ると、真衡は吉彦を攻めた。吉彦は清衡・家衡にも呼びかけ、真衡vs吉彦(出羽)+清衡・家衡(陸奥)となった。

♨たぶん、争いの原因は囲碁だけではないと思うが・・・

真衡・源義家vs吉彦秀武・清衡・家衡

★ちょうどその頃、義家が陸奥守となり下向。真衡は義家を味方につける。

★清衡は義家の前に敗れるが、真衡が急死。ここまでが第1段階。

③後三年合戦:第2ラウンド

清衡・源義家vs家衡

★先手をとって家衡は清衡の家族を殺す。

★清衡は義家を味方につける。

★清衡・義家軍は苦戦を続けるが、義家の弟、義光が援軍に駆けつけ勝利。義光は官職を投げ打ってきた。それほど東北の利権は魅力であったか。

石ノ森章太郎「マンガ日本の歴史」

★朝廷はこの戦を私戦として、義家への恩賞はなし。

★一方、清衡は東北の覇者となった。

コチラも:後三年合戦は白河天皇時代

古代史講義:平泉と奥州藤原氏はコチラ

【終】