~「もう一つ上の日本史」出版に伴い、勉強方法も変える必要が出たので、全面改訂突入します~

『古代史講義戦乱篇』より。 愛媛大学、寺内浩先生。かつて「承平・天慶の乱」と呼ばれていたが、承平年間、平氏は一族の内乱に明け暮れていただけであり、純友も海賊を取り締まる立場にいたことから、「承平年間に乱は起きていない」ということが明らかとなり、「天慶の乱」とのみ呼ばれるようになった。

①承平年間(931-938)の平将門
②承平年間(931-938)の藤原純友

①承平年間の平将門

承平年間は「平氏が内紛を起こしていた時代」であり、国家権力を脅かすものではなかった。


※以前は「承平・天慶の乱」と呼ばれていたが、近年の研究で承平年間は将門は平氏一族の内紛に明け暮れ、純友も海賊を討伐する側であったため、乱の呼称も「天慶の乱」と変遷している。

【承平年間の平氏一族の内紛】

931年将門と良兼(伯父)が「女論」により対立
(将門の妻は良兼の娘)
935年2月将門が常陸国で源扶、国香(伯父)らを破る
935年10月21日将門が下総国川曲村で良正(叔父)を破る
良正が良兼に援軍を要請し、良兼が応じる
936年6月26日良兼が上総国より常陸国に向けて出陣
936年7月26日将門が下総国で良兼を破る
937年8月6日良兼が将門を常陸・下総国境の子飼の渡しで破る
937年8月17日良兼が将門を下総国堀越の渡しで破る
937年10月将門と良兼が筑波山で戦う
937年12月14日良兼が将門の石井営所を夜襲するも逆に撃退される
938年2月将門が上京する貞盛を信濃国に追うが結局逃げられる
939年6月良兼が死去

★最大の敵であった良兼死亡でひと段落。
★将門が負けた時もあった。

②承平年間(931~938)の藤原純友

★承平年間、藤原純友は海賊を取り締まる立場であった。
赴任時、海賊の活動は収束に向かっていた。

以前は「承平・天慶の乱」と呼ばれていたが、近年の研究で承平年間は将門は平氏一族の内紛に明け暮れ、純友も海賊を討伐する側であったため、乱の呼称も「天慶の乱」と変遷している。

【承平年間の瀬戸内海賊】

931年1月21日海賊のことを奏上する
932年12月16日備前国が海賊のことを奏上する
933年12月17日海賊を追討するため南海道諸国に警固使を置く
934年6月29日海賊追討に遣わすため神泉苑で弩を試射させる
934年7月26日兵庫允在原相安が諸家兵士と武蔵兵士を率いて海賊追討に向かう
934年10月22日追捕海賊使を定める
934年末伊予国喜多郡の不動穀三千石が海賊に盗まれる
935年6月28日京中・山陽・南海道の諸社に奉幣して海賊平定を祈る
936年3月前伊予掾・藤原純友が伊予へ向かう
936年5月26日追捕南海道使・紀淑人が伊予守になる

★貞観年間(859~877)に瀬戸内海の海賊が暴れていたが、約60年ぶりに海賊の活動が開始していた。

★「日本紀略」では藤原純友が承平年間から海賊の首領であったという書き方がされているが、近年の研究で、これは後に書き換えられたものであることがわかった。

★藤原純友が伊予へ向かった頃には海賊の活動はすでに収束に向かっており、紀淑人がその功績により伊予守に任じられていた。

のちに海賊となった藤原純友の本拠地・日振島の位置。

後編:天慶年間へ