~「もう一つ上の日本史」出版に伴い、勉強方法も変える必要が出たので、全面改訂突入します~

「承平・天慶の乱」という呼称がついたのは実は戦後。戦前は「天慶の乱」のみであった。紆余曲折を経て、再び、「天慶の乱」に舞い戻る。平将門の乱が天慶年間というのは知られているが、藤原純友が承平年間は海賊を取り締まる側だったということが文献によって異なることがこの呼称の変遷の原因である。

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③天慶の乱

③天慶の乱

938年以降の全国的な騒乱

天慶年間(938~947)に入ると自然災害と天候不順により、各地で群盗・海賊の活動が盛んとなった。

938年、4月に京都で大地震、5月は鴨川氾濫。

938年、東国では橘近安の乱(武蔵)、平将武の乱(伊豆)などが起きている。

939年、旱魃のため米価上昇。京では盗賊(♨群盗と呼んで良いのでは?)が多数現れる。

939年、東国では群盗の活動が盛んとなり、6月には相模、武蔵、上野に押領司が置かれる。8月には尾張国守が射殺。出羽国では4月に俘囚の氾濫。瀬戸内海では海賊の活動が再開。

このような中で天慶の乱が起きた。直接的な原因は明らかになっていないが、背景に全国的な騒乱があったことは確かである。

天慶の乱 略年表

939年11月21日将門が常陸国府を攻略する
939年12月将門が坂東諸国を支配下に置く(※1)
939年12月26日純友の部下が備前介藤原子高らを摂津国芦屋駅で襲う
940年1月1日東海・東山・山陽道追捕使を任ずる(※2)
940年1月19日藤原忠文を征東大将軍に任じる
940年1月30日純友を従五位下に叙することを奏上する
940年2月14日将門が平貞盛・藤原秀郷によって討たれる
940年3月2日純友から悦を申す状が届く
940年8月26日伊予・讃岐国が純友の賊船400余艘に襲われ、備前・備後の兵船が焼かれたとの知らせが届く(※3)
940年10月22日大宰府追捕使在原相安が賊に敗れたとの知らせが届く
940年11月7日周防国鋳銭司が賊のために焼かれたとの知らせが届く
940年12月19日土佐国幡多郡が海賊に襲われたとの知らせが届く
941年5月20日政府軍が純友軍を博多津で破る
941年6月20日純友が伊予国で警固使橘遠保によって討たれる

(※1)常陸国の次は下野国。次々と国府を落とした。

(※2)政府は東西同時の蜂起に驚く。純友は懐柔することにした。甥の明方を遣いに渡す。

(※3)純友が動き出したのは8月。「将門・純友共謀説」という説は古くから唱えられてきたが、これは脚色に過ぎない。もしも共謀していたら、将門が大暴れている時期に純友は伊予国で休んでいたりなどしないであろう。

平将門の乱は朱雀天皇時期:コチラも

次章はこれまた呼称が変わった前九年合戦・後三年合戦