こんにちは。
今回ご紹介しますのは、「810年、平成太上天皇の変」です。
病気で隠居していたはずの平成太上天皇は、病気が治ったことで再び政務へ意欲を持ちました。
そして、遷都を目指し、弟・嵯峨天皇と闘いになります。
以下、 『古代史講義戦乱篇』( 東京大学名誉教授、佐藤信先生)を参考にさせて頂きました。
最終的に平城京から東国に入ろうと伊勢へ向かった平城太上天皇・藤原薬子たちは先回りした嵯峨天皇側の精兵たちに捕らえられます。
平城太上天皇は出家し、愛人でもある藤原薬子は服毒自殺し、首謀者の1人でもある薬子の兄、藤原仲成は射殺されました。
【平成太上天皇の変のポイント】
①蔵人頭・藤原冬嗣が台頭した
②高岳親王が廃太子となり、大伴親王(淳和天皇)が皇太子となる
ちなみに、この戦争は、以前は天皇家の兄弟間の争いが表立つことを嫌って、「薬子の変」と呼び、藤原薬子にその罪を被せるような言い方をしていました。
しかし、近年は平城上皇の野心が明らかになっていることより、「平城太上天皇の変」あるいは「平城上皇の変」と記されるようになってきたんです。
ちなみに、「平城」と書いて「へいじょう」ではなく「へいぜい」と読むなんて、相変わらず日本史に出てくる漢字は難しいですねー。
そして、藤原薬子は「藤原種継暗殺事件」の藤原種継の娘でもあります。
①蔵人頭・藤原冬嗣が台頭
さて、この変の日本史的意義の1つは、「藤原冬嗣の台頭」です。
新たに設置された「蔵人頭」(天皇の秘書官)に就くことで、藤原冬嗣が台頭したのです。
【藤原冬嗣】(775-826)memo
(1)北家。
(2)初代蔵人頭の1人。(もう1人は巨勢野足)
(3)息子は良房。
(1)北家。
のちの藤原道長も北家ですが、だいぶ先の話。
藤原冬嗣没後は式家の藤原緒嗣が政界の首班となりますので、まだ北家全盛の時代ではありません。
※冬嗣が51歳で死亡した826年の段階で良房はまだ23歳。一方、緒嗣(774-843)は52歳。緒嗣は薬子(同じ式家)の「とばっちり」を受ける形で冬嗣の後塵を拝していたが、冬嗣死亡後は出世。しかし、病気がちであったことと、期待していた息子の家緒が33歳の若さで死んでしまったことが痛かった。
(2)初代蔵人頭の1人。(もう1人は巨勢野足)
天皇と太政官との間の連絡を機密かつ機動的に結ぶ役職はそれまで後宮女官が行っていたが、この時より男性官人が行うこととなった。
もう1人の蔵人頭・巨勢野足(749-816)は坂上田村麻呂と共に蝦夷と戦ったり、807年の「伊予親王の変」では伊予親王邸を取り囲んだりと重要な役割を担った人物でした。
(平城太上天皇の変でも鈴鹿関を守るという重要な任務を果たしている。)
しかし、巨勢家が藤原家のようにならなかったのは、藤原家の方が上手だった、としか言いようがない。
(3)息子は良房。
【コチラも】
②高岳親王が廃太子となり、大伴親王(淳和天皇)が皇太子となる
また、もう1つ、大事なこととしましては、平城天皇皇子の高岳親王から、嵯峨天皇の弟、大伴親王(淳和天皇)に皇太子が移ったことです。
嵯峨天皇の「息子ではない」、というのがポイントでして、この横に伸びた皇統の広がりが、のちに「承和の変」を引き起こす元にもなるのです。
(1)平城太上天皇の皇子、高岳親王は廃太子となった。
(2)嵯峨天皇の次は息子ではなく、異母弟の大伴親王(淳和天皇)。
(3)両統迭立により、のちに問題を生じる。
(1)平城太上天皇の皇子、高岳親王は廃太子となった。
高岳親王(たかおかしんのう:799~865?)
♨河合敦先生の書籍で知りましたが、ちょっと異色の経歴。平城太上天皇の変の後、出家して僧侶となった高岳親王は、その後、さらなる教えを求めて天竺を目指します。途中、マレーシアで「虎に食べられて死んだ説」、「自ら虎の餌となった説」などがあります。
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そして、2019年4月、まさかの(?)漫画化!
【コチラ】
♨面白そう…
【近藤ようこ先生のファンサイト】より引用。
ちなみに、異母兄が阿保親王、甥が在原業平。
(2)嵯峨天皇の次は息子ではなく、異母弟の大伴親王(淳和天皇)。
淳和天皇の母は藤原百川の娘、旅子。
藤原百川は光仁天皇、桓武天皇擁立に深く関わっており、嵯峨天皇は藤原百川への感謝の念を大事にしたこと、すぐに自分の息子にすると怨霊などに悩まされることが予想されたために間を置いたということが考えられている。
(3)両統迭立はのちに問題を生じる。
結局これが「承和の変」に至った。
嵯峨天皇→淳和天皇→仁明天皇の次は淳和天皇皇子の恒貞親王となるはずだった。
(ただし、淳和天皇も恒貞親王も争いに巻き込まれたくないとの理由で嫌がっていた。押し付けたのは嵯峨上皇。)
しかし、840年の淳和上皇、842年の嵯峨上皇の死で恒貞親王は後ろ盾を失った。
恒貞親王の身を案じて東国行きを勧めていた伴健岑、橘逸勢は流罪となる。
恒貞親王は廃太子となり、道康親王(のちの文徳天皇)が皇太子となった。
文徳天皇は藤原良房の甥にあたる。
これは藤原家による最初の他氏排斥事件でもあった。
【次章は応天門の変】