~「もう一つ上の日本史」出版に伴い、勉強方法も変える必要が出たので、全面改訂突入します~

『古代史講義戦乱篇』より。 東京大学名誉教授、佐藤信先生。平城京から東国に入ろうと伊勢へ向かった平城太上天皇、藤原薬子たちは先回りした嵯峨天皇側の精兵たちに抑えられ、平城太上天皇は出家、薬子は服毒自殺し、薬子の兄、藤原仲成は射殺された。

①蔵人頭・藤原冬嗣
②皇位継承と廃太子
③嵯峨天皇の政治改革

※病気で引退していた平城上皇は病気が良くなったので、その権力を欲しい藤原仲成、薬子兄弟に担がれる形で政務を行おうとした(「二所朝廷」)。「平城太上天皇の変」は遷都を企画した彼らと、現天皇の嵯峨天皇の争いである。【コチラも

※天皇家の兄弟間の争いを嫌って、以前は「薬子の変」と呼ばれていたが、近年は「平城太上天皇の変」あるいは「平城上皇の変」と記されるようになってきた。「平城」と書いて「へいじょう」ではなく「へいぜい」と読むのは相変わらず難しいが。(ちなみに薬子は藤原種継娘。)

①蔵人頭・藤原冬嗣

【藤原冬嗣】(775-826)

(1)北家。
(2)初代蔵人頭の1人。(もう1人は巨勢野足)
(3)息子は良房。

(1)北家。

のちの藤原道長も北家。だからといって、この時から北家の天下となったというのは「言い過ぎ」。

藤原冬嗣没後は式家の藤原緒嗣が政界の首班となっていて、まだ良房の時代ではない。

いろいろ紆余曲折を経て、最終的に藤原家が権力を手にすることができた、ということはちょっと覚えておくと良い。(試験ではひたすら暗記だけど【コチラ】)

※冬嗣が51歳で死亡した826年の段階で良房はまだ23歳。一方、緒嗣(774-843)は52歳。緒嗣は薬子(同じ式家)のとばっちりを受ける形で冬嗣の後塵を拝していたが、冬嗣死亡後は出世。しかし、病気がちであったことと、期待していた息子の家緒が33歳の若さで死んでしまったことが痛かった。

(2)初代蔵人頭の1人。(もう1人は巨勢野足)

天皇と太政官との間の連絡を機密かつ機動的に結ぶ役職はそれまで後宮女官が行っていたが、この時より男性官人が行うこととなった。

大きな転換点である。

もう1人の蔵人頭・巨勢野足(749-816)は坂上田村麻呂と共に蝦夷と戦ったり、807年の伊予親王の変では伊予親王邸を取り囲んだりと重要な役割を担う。

この平城太上天皇の変でも鈴鹿関を守るという重要な任務を果たしている。

しかし、その後、巨勢家が藤原家のようにならなかったのは、昇進は果たすものの、それよりも藤原家の方が上だった、としか言いようがない。

(3)息子は良房。

コチラも

②皇位継承と廃太子

(1)平城太上天皇の皇子、高岳親王は廃太子となった。
(2)嵯峨天皇の次は息子ではなく、異母弟の大伴親王(淳和天皇)。
(3)両統迭立はのちに問題を生じる。

(1)平城太上天皇の皇子、高岳親王は廃太子となった。

皇位継承の争点が皇太子の廃立とつながることを明示した事件でもあった。

高岳親王(たかおかしんのう:799~865?)

僕は河合敦先生の書籍で知ったが、実はちょっと有名な人でもある。平城太上天皇の変ののち、出家して僧侶となり、その後、さらなる教えを求めて天竺を目指す。途中、マレーシアで虎に食べられて死んだという説があるが、自ら虎の餌となった可能性なども考えられたりもする。

高丘親王航海記 (文春文庫)新品価格
¥792から
(2019/11/28 20:45時点)
高丘親王航海記 (文春文庫) [ 澁澤 龍? ]価格:792円
(2019/11/28 20:46時点)
感想(0件)
高丘親王航海記【電子書籍】[ 澁澤龍彦 ]価格:784円
(2019/11/28 20:47時点)
感想(0件)

そして、2019年4月、まさかの(?)漫画化!

コチラ

♨面白そう…

近藤ようこ先生のファンサイト】より引用。

twitterはコチラ(♨勉強になる)

ちなみに、異母兄が阿保親王、甥が在原業平。

(2)嵯峨天皇の次は息子ではなく、異母弟の大伴親王(淳和天皇)。

コチラも

淳和天皇の母は藤原百川の娘、旅子。

藤原百川は光仁天皇、桓武天皇擁立に深く関わっており、嵯峨天皇は藤原百川への感謝の念を大事にしたこと、すぐに自分の息子にすると怨霊などに悩まされることが予想されたために間を置いたということが考えられている。

(3)両統迭立はのちに問題を生じる。

結局これが「承和の変」に至った。

嵯峨天皇→淳和天皇→仁明天皇の次は淳和天皇皇子の恒貞親王となるはずだった。(ただし、淳和天皇も恒貞親王も争いに巻き込まれたくないとの理由で嫌がっていた。押し付けたのは嵯峨上皇。)

840年の淳和上皇、842年の嵯峨上皇の死で恒貞親王は後ろ盾を失った。

恒貞親王の身を案じて東国行きを勧めていた伴健岑、橘逸勢は流罪となる。

恒貞親王は廃太子となり、道康親王(のちの文徳天皇)が皇太子となった。

文徳天皇は藤原良房の甥にあたる。

これは藤原家による最初の他氏排斥事件でもあった。

③嵯峨天皇の政治改革

★嵯峨天皇は38歳で太上天皇となったが、天皇と太上天皇のあり方を制度として分別しようとした。(奈良時代は太上天皇が天皇と同等かそれ以上の権力を有した。)

平城天皇にも改革者としての再評価を!古代史講義

次章は応天門の変