一般的な知名度は低いかもしれないが、嵯峨天皇は平安時代前期における超キーパーソン。そして、嵯峨天皇、平氏の基となった葛原親王、淳和天皇はみな同い年の異母兄弟。平城天皇を含め桓武の子女は32人いた。(そして嵯峨の子女は47人。)淳和天皇時代に親王任国制度開始。
第51代:平城天皇期(806年~809年)
【平城天皇】・・・774-824。桓武天皇第1皇子。母は藤原良継(式家)の娘。嵯峨天皇は実弟。 官人の整理・統合を大胆に行い、財政負担軽減をめざした。病気で譲位するも、退位後に元気となったため、再び政治に意欲を出して混乱をきたす。「薬子の変」は近年、その実態を踏まえて「平城太上天皇の変」と呼ばれるようにもなった。「薬子の変」と呼ばれるのは嵯峨天皇が実兄を悪人にしないように配慮したためとも、実兄で上皇が怨霊になったら怖いし、大変だからとも言われる。
♨「平城天皇」を「へいぜいてんのう」とちゃんと読めるかどうかで日本史を選択していたかどうかわかるだろうな。「平城京」は「へいじょうきょう」なのに、なんで「へいぜい」なのかは意味不明。【日本史のココがダメ!:難読字の多いこと!】
806 | 空海が唐より帰国し、真言宗を広める 【空海】…774~835年。香川県出身。804年に唐に渡り長安で学ぶ。帰国後、高野山に金剛峯寺を建てる。大日如来のことば(真言)を教える。桓武天皇は空海の帰国を待たずに死亡。嵯峨天皇、遣唐使仲間の橘逸勢とともに、三筆に数えられる。 |
807 | 伊予親王事件 【伊予親王】…桓武天皇皇子。謀反の疑いをかけられ、母子ともに服毒自殺。これは桓武天皇の寵愛を受けていた伊予親王が皇位に就くことを恐れた藤原仲成と藤原薬子(皇太子時代からの不倫相手で藤原種継の娘)の兄弟が仕組んだとされる。 平城天皇の政治ぶりは高く評価できるとも言われる一方、この怨霊で再び病気に。 |
809 | 病気悪化(神経症的、あるいは躁うつ病?)のため、嵯峨天皇に譲位 |
one more:在原業平
ちなみに平城天皇の第1皇子が阿保親王(承和の変で再登場)であり、その第5皇子がプレイボーイ・在原業平である。
彼が主人公と思われる短編歌物語集が「伊勢物語」である。
彼の短歌としては、百人一首の17番、
ちはやぶる 神代もきかず 龍田川 からくれなゐに 水くくるとは
があまりに有名だが、個人的には
「ついに行く道とはかねて聞きしかど きのふけふとは思はざりしを」
の方が好き。
(誰もがいつかは行く道とは聞いてはいたけれど、それがまさか昨日や今日という、さし迫ったことだとは思っていなかった)
第52代:嵯峨天皇期(809年~823年)
平安時代前期で最も知るべきは嵯峨天皇。
【嵯峨天皇】・・・桓武天皇第2皇子。病気の兄より禅譲を受けて即位。蔵人頭に藤原冬嗣(&巨勢野足)を任命して、薬子の乱を平定。治世は評価されるが、上皇時代に弟の子を無理やり皇太子にしたことで、死後、承和の変(842)を招く。三筆とも呼ばれる書の達人。
810 | 薬子の変(平城太上天皇の変) ※平城上皇が藤原薬子などと平城京へ都を移すことを画策するが失敗。事前に秘書として蔵人頭を設置して、 藤原冬嗣(北家)、巨勢野足を任命。 【平城天皇】退位後、奈良に移ってから元気に。再び政務に意欲が出て、「二所朝廷」と言われるくらい嵯峨天皇と対立。最終的には敗れるも、咎めはなし。出家。 【藤原薬子】…藤原種継の娘。皇太子時代の平城天皇と娘が結婚した際に後宮入り。夫の藤原縄主との間には三男二女がいて、30歳くらいにはなっていたであろうし、平城天皇とはおそらく10歳くらい年が離れていたが不倫関係に。さすがに桓武天皇も怒り、宮廷から追い出す。しかし、平城天皇即位とともに復位。スピード出世と共に幅を利かせるようになった。ところが、平城天皇が奈良に移り、二所朝廷となった状態で上皇が出した「還都令」に対して嵯峨天皇も対決。一連の首謀者として藤原仲成は誅殺され、薬子の官位も剥奪。坂上田村麻呂も出陣し、諦めた薬子は服毒自殺した。これにて藤原式家衰退、北家台頭。 【コチラもオススメ】 |
811 | 文室綿麻呂(ふんやのわたまろ)、征夷大将軍として蝦夷の乱を平定 ※この人、薬子の変では上皇方についていたというのに。坂上田村麻呂の献言で許された。 ※嵯峨天皇の代で東北三十八年戦争が終結。 坂上田村麻呂没 ※【坂上田村麻呂】758-811。蝦夷征伐だけではなく、薬子の変でも活躍した。東漢氏の末裔。ちなみに 「あさぼらけ 有明の月と みるまでに 吉野の里に 降れる白雪」の坂上是則は坂上田村麻呂の4代後。 |
816 | 検非違使を設置 |
818 | 死刑廃止(保元の乱まで338年間続く。) |
820 | 弘仁格式を編纂(820年) |
823 | 大宰府管内に公営田を設置 |
♨朝廷が2つ…って、歴史的には辛亥の変(欽明天皇期)にもあったな…。孝徳天皇の時代にもちょっと。
三筆と呼ばれる(もう2人は空海と橘逸勢)

こんな字を書いていた。こういうのが「中国風」らしい。時代は下って三蹟の時代になると日本風となるらしい。(↓藤原佐理: 離洛帖 )

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令外官
律「令」以「外」の「官」位、ということで「令外官」なのである。嵯峨天皇の蔵人頭(810)、検非違使(816)が有名であるが、令外官を設置したのは嵯峨天皇に限ったことではない。
中納言 | 705年、文武 | ※これ、試験頻出。中納言は令外官。 |
按察使 | 719年、元正 | 地方行政監察官 |
参議 | 731年、聖武 | ※これも頻出。 |
内大臣 | 777年、光仁 | 左右大臣に次ぐ |
征夷大将軍 | 794年、桓武 | 言わずもがな。 |
勘解由使 | 797年、桓武 | 国司交代の際の審査 |
蔵人頭 | 810年、嵯峨 | 機密事項の扱い |
検非違使 | 816年、嵯峨 | 京中の犯人検挙、訴訟、裁判 |
押領司 | 878年、陽成 | 盗賊らを鎮圧 |
関白 | 884年、光孝 | 内覧権(天皇に見せる文書を先に見る) |
追捕使 | 932年、朱雀 | 天慶の乱後、ほぼ常設。諸国盗賊を追捕。 |
三大格式
律令を補足した「格」と、施行細則である「式」を編纂。
弘仁格式 | 820年 | 嵯峨天皇、藤原冬嗣 |
貞観格式 | 869年、871年 | 清和天皇、藤原氏宗ら |
延喜格式 | 907年、927年 | 醍醐天皇、藤原時平・忠平 |
大宰府管内に公営田を設置
朝廷自ら直営田を経営するようになった。
勅旨田 | 807年~。平城天皇。皇室財政upを目指す。(~902年) |
公営田 | 823年~。嵯峨天皇。大宰府管内に設置。 |
官田 | 879年~。公営田にならい畿内に設置。 |
902年、「延喜の荘園整理令」で弊害の多かった勅旨田は禁止されるも院政時代に再び増加。
勅旨田とは王臣家が行った百姓の強制徴用と虐待と生活の破壊を、朝廷と国司が行っただけだ。しかも規模が半端ではない。この勅旨田は、もはや矛盾というレベルを超えて意味不明というしかない制度だ。
桃崎有一郎「武士の起源を解きあかす」
第53代:淳和天皇(823年~833年)
平城天皇と嵯峨天皇が兄弟ということは知っていても、次の淳和天皇も兄弟だったと知らない人は多いだろう。
【淳和天皇】・・・786-840。桓武天皇第7皇子。母は藤原百川の娘で、平城、嵯峨天皇の異母弟にあたる。任明天皇(嵯峨天皇皇子)までの中継ぎ的な天皇。承和の変(842)では皇太子となっていた息子(恒貞親王)が廃位。
823 | 嵯峨天皇、弟の淳和天皇に譲位。 |
826 | 親王任国制度開始。 ※桓武天皇の息子たち(淳和天皇にとっては兄弟)が常陸、上総、上野の太守に就任。 |
833 | 淳和天皇、甥(嵯峨天皇皇子)の任明天皇に譲位。 政争に巻き込まれるのを避けるために淳和上皇および本人が拒否したにも関わらず、嵯峨上皇の意向で息子の恒貞親王が皇太子となる。 |
六国史は「日本書紀」、「続日本書紀」の次が「日本後記」であるが、ここでは桓武天皇から淳和天皇までが記される。
平安時代の両統迭立その1
嵯峨⇒淳和⇒仁明(嵯峨天皇息子)⇒淳和息子(恒貞親王)、というように平安時代にも「両統迭立」があった。
しかし、なぜ淳和天皇が即位でき、恒貞親王も皇太子になれたのだろう?(嵯峨天皇健在なら弟の家系にはしないはず?)
…これには嵯峨上皇が、藤原氏の一派だけが力が強くならないようにしたという説や、薬子の変で兄を引き摺り下ろして、さらに自分の息子を皇太子につけたら角が立つ、祟りを受けると思ったからなど、という説があるが、どうなんだろう。
いずれにしても虎視眈々と権力の座を狙う藤原氏から身の危険を感じた恒貞親王は皇太子を辞退しようとするが、嵯峨天皇はこれを却下。
840年淳和上皇の死、842年の嵯峨上皇の死で状況が変わる。
伴健岑は恒貞親王の身を案じ、阿保親王(平城天皇の息子)に相談するが、阿保親王はこの話に乗らず、逆に密告。伴健岑、橘逸勢失脚へとつながる。
恒貞親王は最終的には出家し、嵯峨大覚寺の初代住職となった。
これが承和の変である。
3つの勅撰漢詩集
この時代は漢詩中心。空海が百人一首に出てこないのもうなずけよう。(彼の性霊集は漢詩)
【凌雲集】
814年。小野岑守ら。嵯峨天皇。
【文華秀麗集】
818年。藤原冬嗣ら。嵯峨天皇。
【経国集】
827年。良岑安世、滋野貞主ら。淳和天皇。
神仏習合はこの頃からである。また、山岳信仰と仏教が結びついて修験道も発生。室生寺五重塔などが代表。室生寺は女性の参詣を認めたので女人高野とも呼ばれる。(三重県境に近い奈良県)。密教芸術と言えば曼荼羅。
826年~、親王任国制度
要は皇族が無軌道に増えすぎた。
「桓武から淳和朝で、行政の枢要であるはずの八省の長官に、政務に熟れない親王が無闇に就いた結果、行政に深刻な悪影響を与えた。朝廷は親王を八省の卿から外すため、代わりの地位として上総・常陸・上野の三カ国の長官を用意し、太守と呼んで親王専用とした。それが親王任国制度だ。」
桃崎有一郎「武士の起源を解きあかす」