~只今、全面改訂中~

こんにちは。

今回ご紹介しますのは、「醍醐天皇」時代です。

第60代天皇・醍醐天皇時代は、第62代天皇・村上天皇時代とともに「延喜・天暦の治」として称えられました。

しかし、実際は「延喜の荘園整理令」に代表されるように律令の限界が明らかになった時代でもあります。

平安時代の1つの転換期と考えて良いでしょうか。

また、宇多天皇は菅原道真を重用したのに対して、醍醐天皇は藤原時平・忠平を重用しました。

第60代:醍醐天皇期(897年~930年)

【醍醐天皇】…885~930。宇多天皇第1皇子。

摂関をおかず、天皇親裁の形をとった。
(しかし、藤原氏の勢力は弱まることはなかった。)

治世中は『三代実録』『延喜格式』の編纂、『古今和歌集』などの勅撰が行われ、政務への精励やその治績はのちの第 62代の村上天皇とともに「延喜・天暦の治」とたたえられた。

897 宇多天皇、息子の醍醐天皇(※1)に譲位。

(※菅原道真は右大臣まで昇格。)
(※左大臣は基経の息子、藤原時平。地位は時平のほうが上。)
901 藤原時平の陰謀により菅原道真が九州・太宰府へ左遷。

(ホントにそう?→【コチラも:古代史講義戦乱篇】)
(※道真は2年後に死亡。)

【菅原道真】…845~903年。代々学者の家系。872年に渤海使の接伴員となり、その詩才を賞された。888年の阿衡の紛議では意見書を提出して解決に導いた。宇多天皇に重用され昇進。894年、遣唐使中止を建議。899年には右大臣となるが、901年、大宰権帥に左遷。2年後没。59歳。 【遣唐使廃止についてはコチラも



藤原時平】871~909年。藤原基経長男。道真を左遷して政権の座を確保。荘園整理令の公布など醍醐朝の「延喜(えんぎ)の治」をすすめるも、39歳で死去。道真の祟りといわれた。醍醐天皇と懇意。
902 『延喜の荘園整理令』最後の班田記録(※2)。
905古今和歌集(紀貫之ら)

序文:「 やまと歌は、人の心を種として、よろづの言の葉とぞなれりける」
907 大唐帝国滅びる【唐の簡略史

朱全忠による。節度使による王朝が「5つ」あり、地方には「10」の藩鎮が独立政権を維持していたため、907年~960年は「五代十国時代」と呼ばれた。
914 三善清行意見封事十二箇条 (※3)
918 高麗の王建が新羅を滅ぼす
926 契丹の耶律阿保機が渤海を滅ぼす
929 東丹国が日本に遣いを渡すが、受け入れず。
(※東丹国…耶律阿保機の跡継ぎ争いで敗れた長男の建てた国。)

不介入は正解!超日本史:中編はコチラ!
平将門との意思決定に影響を及ぼした可能性も指摘?
930 醍醐天皇死亡。

※宇多上皇は翌年死亡。

醍醐天皇。写真はwikipediaより。

(※1)臣籍の身分で生まれた唯一の天皇

以下、「逆から学べ」風に。

なぜ臣籍の身分で生まれた?

争いを避けるために光孝天皇(祖父)が自分の息子(宇多天皇:父)を全員臣籍降下させていたから

なぜ(そのような)光孝天皇が天皇になれた?

「宮中殺人事件」および成長して手に負えなくなってきたため、藤原基経が陽成天皇を退位させたから

なぜ(そのような)陽成天皇が即位していた?

陽成天皇は3ヶ月で立太子となり、9歳で天皇となった。幼帝の方が、後見人(藤原基経)がコントロールしやすいから

なぜ、(そのような)幼帝即位が可能だったのか?

それほど藤原氏の力が強かった。幼帝即位は先帝の清和天皇に遡る。清和天皇はわずか8ヶ月で皇太子となり9歳で天皇になった。しかも第4皇子であった。これは祖父が藤原良房であったためである。

なぜ、藤原良房はそんなに力をもっていたのか?

謀略により「他氏排斥」を行ったから。藤原良房は842年の「承和の変」に関わった。その後、文徳天皇(即位850年~858年)、伴善男(応天門の変:866年)らが転覆を狙ったがダメだった。

「承和の変」とはどんな政変だったのか?

嵯峨上皇(第52代)は藤原家の隆盛を危惧して両統迭立を推進すべく、自分の次は弟の淳和天皇(第53代)を指名、その次には息子の仁明天皇(第54代)、その次には淳和天皇の息子の恒貞親王を指名した。しかし、嵯峨上皇・淳和天皇の死で後ろ盾を失ったときに、藤原良房が仁明天皇の息子・道康親王(のちの文徳天皇)を皇太子にした

橘氏、伴氏、他の藤原氏はクーデターを考えている(嵯峨上皇の意思に背いたという点でホントは藤原良房の方がクーデターなのだが)と排斥され、藤原良房は権力を固めた。

「藤原良房」ってどんな家柄に生まれた?

嵯峨天皇のもとで活躍した藤原冬嗣の次男妻は嵯峨天皇の娘

「藤原冬嗣」の活躍って?

810年、「薬子の変」で蔵人頭として鎮圧に尽力した。藤原北家繁栄(式家は低落)はこの時からである。

(※2)902年「延喜の荘園整理令」。

荘園を抑制するためというが、逆に荘園があることを認めることに。

「(荘園整理令という呼び方は問題の本質を見誤らせるので、延喜二年令と呼ぶ。)延喜二年令の眼目は2つしかない。①勅旨田の開発停止と、②院宮王臣家・諸大夫層による墾田集積の禁止。」

(②は従来の禁令の繰り返し。この法令の主眼は①にある。勅旨田とは王臣家が行った百姓の強制徴用と虐待と生活の破壊を、朝廷と国司が行っただけだ。しかも規模が半端ではない。この勅旨田は、もはや矛盾というレベルを超えて意味不明というしかない制度だ。

桃崎有一郎「武士の起源を解きあかす」

公領(左)と荘園(右)の役職の違い

この図は丸暗記しておいて損はない

★有力な田堵は開発領主と呼ばれ、開発領主は多くが公領の実務を行う「在庁官人」になるが、中には寄進して権門勢家の「預所代・下司・公文」などの荘官になるものもいた。

★地方に赴任しない国司は地方に「目代」を派遣した(赴任しないことを「遥任」と呼ぶ)。そして、公領において、「目代」に選ばれて実務を担当したものを「在庁官人」と呼ぶ。荘園において「在庁官人」に相当するのは「預所代」。

(【あまりにも地方に赴任するかしないかだけが問われるが、受領については:古代史講義コチラも

★「在庁官人」には武士が多く含まれており、東国では次第に最も有力な「在庁官人」=国内で最も力のある「武士」→「御家人」になって「守護」になっていった。

公領における「目代」=荘園における「預所」というのも頻出。

(※3)914年、三善清行

「諸国に命令して実際の人数に対して口分田を与えるようにして欲しい」と天皇に意見したのが「三善清行意見封事十二箇条」。

vs菅原道真 コチラも

とにかくこの時期、土地収入がなくなっていました。

地方長官は任地に行かないことも多く、地方は無政府状態。

(今のシリア、ソマリア、アフガニスタンのような状態)

中央政府への納税はしばしば掠奪を受けたため、自前の軍隊をもたない国司は治安部隊を編成します。

ここに集まってきたのが(一般農民ではなく)俘囚や富豪層であり、自警団はやがて武士団に発展したという説があります。

(【超日本史:コチラ】)

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少なくとも、農民たちが自分の土地を護るために武装して対抗して武士になったわけではありません。

ちなみに、十二か条の一つに、「衛府役人の凶暴を何とかすべき」という提言もあります。

なお、「凶悪邪悪なもの」として悪僧と舎人を挙げています。

それほど救い難い社会でした。

藤原忠平

藤原基経4男。880-949。兄・時平と異なり菅原道真とも仲良かった。

醍醐天皇と共に「延喜の治」を実施。朱雀天皇時代には摂政、関白に就任し、村上天皇にも仕えた。

人柄も良く、才能もあり、敵を作らなかった。

35歳から70歳まで臣下の中でトップにいた。

忠平の系統が江戸時代まで摂政を継いだ。(凄い。)

息子は「安和の変」の源実頼。

藤原忠平は貞信公とも呼ばれました。写真はwikipediaより。

㉖小倉山峰のもみぢ葉心あらばいまひとたびのみゆきまたなむ

次章は承平・天慶の乱が勃発。朱雀天皇の時代。