~「もう一つ上の日本史」出版に伴い、勉強方法も変える必要が出たので、全面改訂突入します~

☞【カリスマ世界史講師が日本史を語る】『世界史とつなげて学べ 超日本史』(茂木誠、2018年)【上】

「白村江の戦」(663年)で勝利するも、唐と新羅は領地の配分を巡り争う。

これが672年「壬申の乱」の背景にある。

作者の茂木先生はカリスマ世界史講師で、「地政学」でも有名【コチラ】

日本史を勉強している人の弱点としては、「日本だけで世界がぐるぐる回っていると考えてしまうこと」。

しかし、世界情勢あっての日本史なのだ。それは古代から変わらない。

本書は、世界史のカリスマ先生が日本史を世界史と結びつけて書いてくれるというので、新たな視点をもたらしてくれるであろう。

もちろん、受験に役立つ。

たとえば、「壬申の乱(672年)」は単なる後継争いではなく、

<唐への服属を決めた>天智天皇・大友皇子派閥と、<唐との対決姿勢を示した>大海人皇子(天武天皇)派閥の争い

と考えるべき。

ここで大海人皇子が勝利したため、この時代30年間は遣唐使が送られなかったのだ。

 【古代史講義戦乱篇:壬申の乱はコチラ

もちろん詳説日本史にも書かれていないわけではないが、茂木先生ほどハッキリとは書かれていないので、基礎知識がないと、思わず読み飛ばしてしまうところ。

是非とも、オススメ。

以下、読書メモ。

目次

1.そもそも日本人はどこから来たのか?

★東洋史学者江上波夫(1906-2002)の唱えた「騎馬民族征服王朝説」は、その後の考古学研究の結果、現在では否定。

人類の系譜を調べるうえでの最強ツールはY染色体とミトコンドリアDNA

  • ちなみに、ヴィクトリア女王は血友病保因者であり、子供たちが欧州各地の王族と結婚したため、血友病のX染色体は拡散。孫娘アレクサンドラ王女とニコライ2世が結婚して生まれたアレクセイが病弱でラスプーチンが「のさばった」のもこれが原因。

ゲノム解析やってみた感想はコチラ

★いずれにしてもY染色体を遡れば、父系の祖先がどこから来たかがわかる

  • 2004年のオックスフォードの研究では、中央アジアから中国北部にかけて1600万人が共有するY染色体の共通祖先がチンギスハンであるという結論が出た。また、南米ペルーにおける先住民インディオのY染色体は95%が欧州由来ということもわかった。チンギスハン、ピサロらは征服した地の男性を大量に殺したため、多くのY染色体は絶滅した。
  • 日本では北方漢民族系のO3(現在はO2)が30%、越人系のO2(現在はO1b)が30%、中国人、韓国人にほとんどないD2(現在はD1b)が40%と分布の偏りがないのが特徴。(D2が縄文人、O2が弥生人と考えられる。)
  • このデータより日本は征服されたのではなく、D系とO系が平和的に「融和」したと考えられる。

母系の祖先を調べるのにはミトコンドリアDNAが必要。

  • 最も古いタイプを突き詰めたところ、現生人類の故郷が16万年前のアフリカに存在することがわかり、「ミトコンドリア・イブ」と名付けられた。
  • 縄文人の祖先であるミトコンドリアDタイプは、東南アジア経由ではなく、氷河時代に地続きだったシベリア方面から渡ってきたことがわかった。(フィリピン、台湾はBタイプで、沖縄、アイヌはDタイプ。)日本人は「北東アジア人」の1つ。
  • 縄文人と大陸から渡来した弥生人の混血が現代日本人という「混血説」が証明。

★ユーラシア大陸全体からみれば、日本列島は最後の避難所であったのであろう

  • 豊かな縄文文化に鉄器をもった弥生人が浸透していき、お互いを排斥するのではなく、融和して日本人を形成したのであろう。和を尊び、外来文化を受容する日本人の気質に影響しているのであろうか?

2.神話と遺跡が語る日本国家の成り立ち

【「縄文の王権」は存在しなかったのか】

★以前は弥生時代の開始は紀元前300年ごろと考えられていたが、現在の研究では紀元前1000年ごろであることがわかった。この時期は殷王朝から周王朝への移行期である。この余波が日本まで及んだ可能性もあり得る。

★この時期の倭人は断髪文身(髪を短くして身体に入れ墨を入れる)。

  • 周の武王の祖父・季歴には太伯と虞仲という兄がいたが、季歴が周王朝を継ぎ、兄たちは断髪文身して呉の国王となったとされる。越人の稲作民の習慣は断髪文身であり、倭人たちは「太伯の子孫」と称していたという。当時の日本はこの文化圏に属していた。
  • (追記)異論もあり。

★稲のDNA研究の結果、日本米は朝鮮を経由しておらず、長江下流から直接経由したと考えられる。戦乱を逃れてやってきた呉人や越人らの技術を縄文人が取り入れ、混血が進み弥生人が生まれたと考えられる。

★天皇家にも稲作に関わる行事は多く、この密接性が考えられる。縄文の王朝はなかったのだろうか?

縄文時代はここまでわかった?

【「国譲り神話」が語る弥生への平和的移行】

★建国神話はGHQによってなかったことにされている。

★日本神話では征服者=天津神が来る前に、土着の王権=国津神がいる。この国津神の中心が出雲であったと考えられる。出雲大社は国津神が国を譲る際に、天津神に建ててもらった。

★考古学から筑紫、出雲、吉備、越、大和、毛野などに有力豪族がいたことがわかっている。中でも出雲では大量の銅剣や銅鐸が見つかっており、古代出雲に大規模な青銅器工場があったと思われる。

【卑弥呼と同じ時代を生きた天皇は?】

★纏向遺跡、近隣の橿原市の勢田遺跡から、ここに各地の貢物が運ばれてきたことがわかる。年代が最も新しいものが北九州のものであることから、大和を中心とした国家連合に北九州の政権が最後に加わったという可能性が考えられる。

★纏向遺跡を見下ろす大神(おおみわ)神社は第10代天皇崇神天皇が建てたと言われる。崇神天皇は「実在した」最初の天皇と言われ、「はじめて国を治めた天皇」という諡号も送られている。古事記から崩御年は258年か318年とされ、崇神天皇と卑弥呼は同時代と言える。

邪馬台国が大和の王権だったとすれば、卑弥呼と崇神天皇は近親者で、邪馬台国が北九州であれば2人はライバル。

畿内説の中では崇神天皇を卑弥呼の弟とする意見もある。

★崇神天皇が三輪山で祀った神は大物主=出雲神社のオオクニヌシである。日本書紀に拠れば、天皇の夢にオオモノヌシが現れ、「疫病の原因は自分だから、自分を祀れば大丈夫」と告げたことが原因とされる。

古事記に卑弥呼が書かれていないのはかえって不思議?

3.巨大古墳の時代と「東アジア版民族大移動」

【東の漢帝国、西のローマ帝国の崩壊】

★弥生時代はローマ帝国と漢があった。

  • ローマ帝国は軍団維持のため商業活動に増税を行った結果、経済活動が委縮し、財政悪化。
  • 漢と匈奴は王昭君が嫁ぐことで和解した(紀元前33年)が、この和解を巡って匈奴が分裂。南匈奴は漢に服属し、北匈奴は西に去る。(この北匈奴がフン族と思われる。)
  • 漢帝国も財政難から増税に踏み切った結果、疲弊した農民から黄巾の乱(184年)が生じ、やがて滅亡。三国志の時代へ。各国は遊牧民を傭兵として雇う。晋が統一するも、傭兵として長城以南に移住していた南匈奴が洛陽を攻め落とし、数万人を虐殺。(永嘉の乱、307~316年。)
  • この永嘉の乱により秦から続いた古代中華帝国は滅ぶ。五胡の抗争を制した鮮卑族による北魏と、生き残った晋の皇子による東晋の魏晋南北朝へ。

【中華帝国崩壊後の朝鮮半島情勢】

★中華帝国崩壊により、満州では狩猟民族の扶余族が高句麗を建国し、313年、楽浪郡を滅ぼす

  • 楽浪郡は北九州の倭人が後漢に朝貢する際の窓口であった
  • 高句麗の脅威に対して、朝鮮半島南部では黄海側(馬韓)に百済、日本海側(辰韓)に新羅が建国された。
  • 対馬海峡沿いは砂鉄がとれたため、百済、新羅、倭国が争奪戦を繰り広げる。

【歴史教科書から消された「三韓征伐」とは】

★戦前教育では神功皇后は武内宿禰と共に三韓征伐の英雄とされてきたが、歴史教科書から抹殺された。

★神功皇后は夫の仲哀天皇(第14代)とともに熊襲を征伐に向かう途中、「熊襲の背後に新羅あり」と神託を受けた。仲哀天皇が急死したため、神功皇后と武内宿禰が海を渡って攻め込み、新羅を配下に置いた。この後すぐ、応神天皇(第15代)を産む。

★三韓征伐は朝鮮ではなかったことにされているが、資料からは明らかに。倭王武(応神天皇のひ孫、雄略天皇)は新羅などを含む6か国を管轄する安東大将軍と宋から称号を受ける。

【国際的なモニュメントだった巨大古墳群】

★朝鮮海峡に国境はなく、当時、大量の政治難民が倭国に。

  • 285年(応神16年)、「秦の始皇帝の子孫」=秦氏が来日。
  • 289年(応神20年)、「後漢の霊帝の子孫」=東漢氏が来日。
  • 一方、朝鮮半島南部には日本式の墓(前方後円墳)もあることから、有力倭人が住んでいたという可能性が高い。

★秦氏は養蚕や土木工事に優れ、聖徳太子に仕えたり、桓武天皇の平安遷都に際して土地と資材を提供したりした。仁徳天皇期に淀川の治水工事も高い技術で行っている。

  • 大秦=ローマ、大秦寺=キリスト教と呼ばれることから、キリスト教ネストリウス派が迫害を逃れてここまで来た、という可能性もある。(これは面白い!)

★東漢氏は織物、製鉄、軍事に優れ、この子孫には蘇我氏と組んで崇峻天皇を殺害した東漢駒や、坂上田村麻呂がいる。

★古墳は治水工事の際に出た土を盛ったものであるという説と、中国からの使者を真っ先に出迎える国際的モニュメントとしての意味合いなどが考えられる。

★南朝と結んで高句麗の脅威に備えるという百済と日本のアイデアは全く有効ではなかった。隋が中国を統一(581年)することで新たな展開を迎える。

4.白村江の敗戦から日本国の独立へ

【継体天皇の即位と朝鮮半島情勢との関連】

★15代天皇の応神天皇から始まる「河内王朝」は6世紀前半、25代の武烈天皇で断絶。継体天皇が越より迎えられるが、即位後20年間は河内にとどまり、大和に入った形跡がない。大和でかなり強い反発があったのでは?

【新羅と北陸地方はつながっていた!】

★唐の時代には唐から独立した高句麗人の残党が建てた渤海国が北陸経由で日本に何度も朝貢。

  • 越前と新羅には何かしら関係があったのではないか?多婆那国(たばなこく)出身の「脱解」が第4代新羅王(在位57~80年)として即位した記録があるが、この国は丹波のことではないか?また、倭人が新羅に何回も攻め入ったという記述も見られる。

★任那に新羅が攻め込んだことで継体天皇は6万の軍を派遣することを決定。しかし、北九州の軍が新羅と手を結んでヤマトを攻撃する「磐井の乱」が勃発(527年)。あやうく新羅に乗っ取られるところであった

必読!古代史講義戦乱篇:磐井の乱はコチラ!

【なぜ「日本書紀」は蘇我馬子を逆賊にするのか】

★継体天皇の子、欽明天皇のとき、新羅が任那を征服。

これを警戒した百済の聖明王がヤマトに接近し、仏像を送ったのが仏教伝来(538年)

★この時、オオクニヌシとつながりがあるナショナリストの物部氏と、グローバリストの蘇我氏の間で争い。(最終的に蘇我氏が勝つ。)蘇我稲目の娘が産んだ、用明、崇峻、推古は天皇に。

★推古天皇の摂政となった聖徳太子は蘇我氏と連携して冠位十二階、十七条憲法などを制定、遣隋使を送るなどしていった。

★日本書紀では蘇我馬子の記述はすこぶる悪いが、これは日本書紀を編纂した藤原不比等の父親が中臣鎌足であり、蘇我馬子を殺した人物であるからであろう。歴史的に蘇我馬子と聖徳太子が対立したという記載は見当たらない。

欽明天皇~推古天皇以前の年表

【「瀬戸際外交」を担った馬子・太子政権】

★大陸では隋が中国を統一。この巨大帝国に対し、聖徳太子は隋が30万の大軍で高句麗に敗れたタイミング(598年)で1回目の使者を出す(600年)。(ただ、この時はまだ倭国が国として整っているとみなされなかった。)

  • 聖徳太子の側近には高句麗の僧・慧慈というブレーンがいた。
  • 607年の遣隋使で有名な「日出づる国より…」。これにより冊封体制から抜け出し、対等外交と言う前例を作った。
  • 608年、裴世清という答礼使を伴い帰国。

推古天皇時代年表

【蘇我氏を倒し、百済に援軍を送った中大兄皇子】

★その60年後。隋は唐となり、ヤマトは推古も馬子も太子も没し、中大兄皇子、中臣鎌足の時代になっていた。

★唐は高句麗を滅ぼすために新羅と手を結ぶ。まず百済に攻め込み滅ぼすと(660年)、中大兄皇子は百済復興のために唐と戦うことを決断。(※このあたりは日露戦争で国際的地位を高めておきながら大陸に深入りして失敗した日中戦争を想起する。)

舒明、皇極天皇時代の年表

孝徳、斉明天皇時代の年表

唐と戦ったのは想定外!古代史講義戦乱篇はコチラ

【壬申の乱は、唐と新羅の代理戦争だった】

★しかし中大兄皇子は白村江の戦で大敗。国家の危機に瀕するが、百済、高句麗の旧領をめぐり、唐と新羅が内紛。ここで選択肢としては

  • ①唐に服属して新羅と戦う。
  • ②新羅と結んで唐を半島から追い出す。

→中大兄皇子(天智天皇)は①を選択。

★壬申の乱を単なる皇位継承争いと見ると本質を見誤る。これは①唐に服属を決めた天智天皇、大友皇子と、②の唐と対決を示す天武天皇の戦である。結果的に大海人皇子が即位し、唐と絶縁。

これから30年、天武、持統、文武天皇の時代に遣唐使は送られていない

★唐の支配から脱することを決めて、「天皇」という称号、「日本」という国号を正式に採用したのは、この天武天皇の時からである。(※いつから日本、いつまでヤマト?か答えられる人はなかなか少ないであろう。)

★天武天皇は唐に対抗しつつも、唐のシステムは取り入れた。律=刑法、令=民法・政治などを取り入れ、701年、ようやく大宝律令として完成。中央集権国家体制を整えて唐に備える。(もっとも「万葉集」に数多く歌があるように防人の負担は大きかった。)

★大陸では旧高句麗領で渤海が独立。新羅に続き唐より離反し、唐の遠征の成果は全て失われた。ここで遣唐使復活である。(702年)当時の唐は則天武后の時代。則天武后により国号が「日本」であることが承認された。

天智天皇、弘文天皇時代年表

天武天皇、持統天皇、文徳天皇時代年表

5.大唐帝国からみた「東方の大国」日本

【日本の国号問題は、なぜうやむやになったのか】

★698年、唐の混乱に乗じて大祚栄が高句麗遺民を結集し、「震国」を建国。

  • これに慌てて則天武后が軍隊を派遣するが、大祚栄はこれを撃退。
  • 玄宗皇帝の代になって、懐柔政策がとられ、「渤海郡王」に冊封。大祚栄はこのあたりが引き際と考え、冊封を受け入れる(713年)。
  • 名目は唐の地方政権だが、実態は独立国という状態を作る。

★702年の遣唐使再開に際して、「倭国」と「日本国」の記述を巡って混乱。則天武后は渤海のことで頭がいっぱいであり、国号問題をうやむやにした状態で国交再開。とはいえ、「日本」という国号が世界デビューした年でもあった。

【二百年間、日本に朝貢を続けた渤海の狙い】

★第2高句麗王朝とも言える渤海にとって唐と新羅は敵国。第2代渤海王の大武芸(在718~737年)は、日本に使者を送る(727年)。

  • 日本海を渡って上陸後に蝦夷に24人中16人が殺害されるが、高斉徳ら残った8人が平城京へ(728年)。その後、関係が続く。
  • 渤海からの朝貢品は満州の特産品である毛皮や朝鮮人参、返礼として日本からは絹織物や金、水銀が贈られた。

【唐の宮廷で、新羅と席次を争った日本】

★753年、玄宗皇帝のもとで行われた朝貢使節団との儀式において、日本は席次の変更を要求。東側の主席が新羅から日本に変更された。西の主席は吐蕃。東の次席が大食(アッバース朝イスラム帝国)。

★阿倍仲麻呂の影響もあったか。彼は唐に35年在住し、玄宗の秘書官にまで出世。

【幻に終わった奈良時代の「新羅遠征計画」】

★帰国が許された阿倍仲麻呂の船はベトナムで遭難。結局、阿倍仲麻呂は長安に戻れたが、安史の乱(755~763年)に巻き込まれて死亡。

★聖武天皇の頃から日本と新羅は臣下の礼などを巡って敵対。渤海からの新羅征伐案に藤原仲麻呂(恵美押勝)も乗り気であったが、安史の乱勃発で遠征計画が頓挫

  • 安史の乱が日本にも及ぶ可能性を懸念して、孝謙女帝も新羅遠征計画に反対、藤原仲麻呂と対立。
  • 藤原仲麻呂は近畿地方の最高軍司令官となり、軍事クーデターを図るも失敗(764年:恵美押勝の乱)

第二の「白村江」となった可能性もあるが、大陸への深入りを避けることができた(!)。

称徳天皇の時代

古代史講義戦乱篇:恵美押勝の乱はコチラ

6.動乱の中国から離れて国風文化が開花した

【平安時代の地方は「無政府状態」だった】

★平安時代というのは、中央政府は藤原氏によって私物化され、地方長官は任地に行かず地方は無政府状態。今のシリア、ソマリア、アフガニスタンのような状態。有力者が自警団を組織したのが武士団に発展。

★隋唐帝国は強力な官僚機構を備えた古代社会主義体制であったが、自由な経済活動を認めなかったために財政難に陥り、許認可権を得た官僚は私利私欲に走り、人民は勤労意欲を失い脱税に走り、軍事費を支えきれなくなり崩壊。20世紀末のソ連。

★桓武天皇は遷都、蝦夷討伐とやる気を見せたが、財政悪化に伴い正規軍の編成さえ困難に。正規軍をもたない国が他国からの侵略を逃れることが出来たのは、標高4000mのチベットと、武家政権が登場するまでの日本くらい。

★中央政府への納税はしばしば掠奪を受ける。自前の軍隊をもたない国司は治安部隊を編成したが、ここに集まってきたのは一般農民ではなく、俘囚や富豪層であった。

【「毒をもって毒を制す」に失敗した唐帝国】

★唐末期、モンゴル高原のイグル、満州の渤海の脅威に対して玄宗は節度使制度を設けて「防衛のアウトソーシング」を行うことで事態の解決を図るが、節度使の力をつけることにつながり、結果として安史の乱が勃発した。

★息子の粛宗はウイグルに援軍を要請するも、今度はウイグル軍により長安は掠奪され、唐帝国は解体。 

【唐帝国崩壊後、再び動乱に陥った東アジア】

★地方からの税収が先細りする中で唐の中央政府が最後に財源としたのが塩。しかし、重税で塩の価格が高騰すると塩の密売人が登場。この塩の密売に手を染めたのが何度も科挙に落第していたインテリヤクザ・黄巣。黄巣の乱により長安は攻略された。(875~884年)

★これに対して唐政府は再び「毒をもって毒を制す」作戦に。黄巣配下の朱温を寝返らせ、黄巣を滅ぼす。(この功績で朱温は朱全忠となる。)しかし、大都市・開封の節度使となった朱全忠は、豊富な財源を得ることで力をつけ、唐帝国の皇統および官僚は皆殺しにして唐帝国を滅ぼす。

★これにより中国では貴族制度から「士大夫制度」と呼ばれる科挙官僚による政権となる。貴族の家系が今も続く日本や欧州との違いはここにある。

★朱全忠からの節度使王朝は5つあったため、「五代」と呼ばれ、地方には10の藩鎮が独立政権を維持していたため、907年~960年は「五代十国時代」と呼ばれた。

★ウイグルで内紛が起き、契丹人は耶律阿保機によって統一され「遼(契丹)」として独立。渤海を滅ぼし、燕雲十六州も手に入れることとなる。遼は二重統治体制を敷き、漢人と同化することはなかった。

【遣唐使の廃止、そして国風文化の確立へ】

★894年、菅原道真は遣唐使廃止を決定。59代宇多天皇がこれを採用。838年が最後となったが、この時期より中国文化の影響は急速に薄まり、仮名文字が広まる。いわゆる国風文化。紀貫之が古今和歌集を編纂したが、序文を書いたのが904年。「やまとうたは ひとのこころを たねとして よろづのことのはとぞ なれりける」

★「土佐日記」は935年ごろ。

【厳密に言うと、遣唐使廃止とかな文字の関係性は微妙。「日本語の歴史」はコチラ「古代史講義」はコチラ

★同じ時期に平将門の乱。これを解決したのは平貞盛、藤原秀郷ら地方武士。唐の節度使が力をつけたように、地方の武士たちも力をつけていた。この終着点が鎌倉幕府成立である。

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