~「もう一つ上の日本史」出版に伴い、勉強方法も変える必要が出たので、全面改訂突入します~

『古代史講義戦乱篇(2019)』より。 奈良大学教授、寺崎保広先生。数ある奈良時代の政争で、権力者同士が直接戦闘行為を繰り広げたのは恵美押勝の乱だけ。結果的に未婚の女帝の再登場となり、皇位継承問題は振り出しに戻る。

①恵美押勝(藤原仲麻呂)の乱前後
②孝謙上皇
③藤原仲麻呂・淳仁天皇

①恵美押勝(藤原仲麻呂)の乱前後

★藤原仲麻呂は淳仁天皇に恵美押勝という特別な名前をもらったため、このような呼び名がついた。

★757年、孝謙天皇が淳仁天皇に譲位した時点では、孝謙天皇、光明子皇太后(武智麻呂を父に持つ仲麻呂にとっては叔母)、藤原仲麻呂の関係は良好であった。

★760年、光明子が亡くなると、天皇と上皇の調整役がいなくなり、さらに孝謙上皇は道鏡との関係が深くなっていったため、上皇との関係は微妙なものになっていった。

★762年、孝謙上皇は、淳仁天皇に対して、「小事は天皇に、大事は私のところにもってこい」と言う。

★764年、恵美押勝が武芸を指揮する権限を得ると、兵士を増員しようと文書改竄。密告者により、孝謙上皇が恵美押勝討伐を決意し、孝謙上皇側と恵美押勝側が皇権の発動に必要な鈴印を争奪する形で戦闘勃発。結果、鈴印は上皇側が奪い、恵美押勝は愛発関へ向かうが、行く手を阻まれ、捕縛、殺害される。

☞世界史的には席次を争うなどしていた新羅征伐をするかどうかも焦点の1つであったとのこと。茂木誠先生の【世界史とつなげて学べ 超日本史】は一味違う。

②孝謙上皇

★結果的に、圧倒的多数であった。

上皇側

吉備真備(作戦参謀)
坂上苅田麻呂(田村麻呂の父:武芸者)
牡鹿嶋足(おしかのしまたり:武芸者→ 藤原訓儒麻呂 射殺)
紀船守(きのふなもり:武芸者→矢田部老 射殺)
藤原永手(藤原房前次男)
佐伯三野
大野真本
藤原蔵下麻呂(藤原宇合の九男)
石村石楯
白壁王(のちの光仁天皇
藤原縄麻呂(藤原豊成の息子)ほか

水面下で仲麻呂派、反仲麻呂派に別れており、764年時点で反仲麻呂派が大勢を占めていた。

吉備真備は留学中に孫子や孔明などの軍法を習っている。

③藤原仲麻呂

仲麻呂の政策は決して偏ったものではないと一定の評価がされている。

仲麻呂側

藤原訓儒麻呂(ふじわらくずまろ:仲麻呂の三男)→鈴印争奪戦で戦死
矢田部老(やたべのおゆ)→鈴印争奪戦で戦死
藤原辛加知(ふじわらのからかち:仲麻呂の八男、越前守)
塩焼王(道祖王の兄:仲麻呂により今帝として擁立。息子は氷川川継。)
藤原巨勢麻呂(仲麻呂の弟)ほか

みな、乱で戦死。

※氷川川継はのちに乱を起こす。『武士の起源を解きあかす』でも氷川川継は登場したが、自分は皇位継承権を得るべきだと考えていたのは、こういった裏事情があったわけだ。

そもそも、なぜ上皇と天皇が対立するのか?

★中国では隠居したら政治に関わることはない。

★日本の律令では上皇も天皇と同程度の権限を持つ。

★律令が完成した701年、文武天皇はまだ19歳であり、後見役であり、祖母の持統天皇の権限を強くせざるを得なかったため、と考えられる。

★701年時は上皇と天皇との対立など想定していなかったが、はじめて対立が生じたのが、この764年であろう。

写真はwikipediaより。

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