~「もう一つ上の日本史」出版に伴い、勉強方法も変える必要が出たので、全面改訂突入します~

奈良時代と聞いて大仏しか思い浮かばないようではダメだ。奈良時代は「どろどろ」で「血みどろ」。ここに選ばれし猛者たちは、みな個性的。史実では敵味方入り乱れているが、彼らをうまくまとめることが監督の腕の見せ所である。

1二 藤原不比等 350. 18HR
2DH  藤原光明子 305. 20HR
3遊 吉備真備 388. 38HR
4一 大野東人 333. 46HR
5中 藤原仲麻呂 335. 27HR
6三 大伴家持 290. 21HR
7左 行基 300. 40HR
8捕 橘諸兄 270. 16HR
9右 光仁天皇 375. 15HR
先発 称徳天皇 35勝12敗、防2.00
中継 和気清麻呂 10勝2敗、防1.50
抑え 牡鹿嶋足 10勝0敗、防0.20

1二 藤原不比等(659-720)

大宝律令編纂の中心人物でもあるため飛鳥時代のイメージが強いかも知れないが、奈良時代も経験しているのがミソ。

平城京遷都時に藤原氏の氏寺・興福寺も移した時は、興福寺の標高が最も高くなるように

「盛り土」をした。

藤原四兄弟を息子に持ち、娘2人は天皇に嫁がせ、藤原家繁栄の基礎を作った。
今回の打線でもくさびを打ち込む役割を期待したい。

2DH 藤原光明子(701-760)

国分寺建立、大仏造立など聖武天皇の横にはいつも彼女がいた。
そんな彼女が

「不比等の娘」

と聞くと、違和感を感じるかもしれないが、それにより奈良時代の「短さ」がわかるであろう。

人間関係は極めて複雑で、異母姉の藤原宮子は姑、橘諸兄は同じ母(橘三千代)を持つ異父兄。

不比等の子であるということをイメージする上でも、不比等ー光明子で1,2番を組んでもらった。

3遊 吉備真備(695-775)

遣唐使として唐にわたること18年。
帰国後、橘諸兄により重用されて中央政界へ。
彼の台頭を妬んだ藤原広嗣は九州で乱をおこす。
後年、藤原仲麻呂の台頭により老齢ながら再び遣唐使として派遣されるなど冷や飯を食った時期もあったが、藤原仲麻呂の乱では左遷先から呼び戻され

参謀として仲麻呂を討ち取った。

唐で学んだのは軍略も含まれる。
3番ショートという重要ポジションを任せたい。

4一 大野東人(?-742)

藤原広嗣の乱を平定したことでも知られるが、元々は蝦夷相手に戦っていた。

多賀城建築も彼による。

普通の苗字であることで親近感も湧く。
無敗の武人としてこの打線の四番を任せたい。

5中 藤原仲麻呂(706-764)

常に兄(豊成)を追い落とそうとする

など、その性格は決して誉められたものではないが、一時的であれ天下をとったことは他の藤原氏と比べても評価に値するのではないか。
新羅遠征が実現していたら、第二の白村江となっていた可能性もあると言うが、それは誰にもわからない。仲麻呂の乱であえなく敗死。

6三 大伴家持(718-785)

「万葉集」編者として知られ、歌人としてのイメージが強いかも知れないが、れっきとした武人である。
784年には征東大将軍の称号も得た。
その一方で

「藤原種継暗殺事件」の首謀者

でもあるともされる。
百人一首では「中納言家持」。
2019年、「令和」の作者としてプチ・ブレーク(山上憶良説もあり)。
大伴家と藤原家は根本的に敵、と思っているといろいろわかりやすい。

7左 行基(668-749)

元祖NGO(非政府営利団体)。

私度僧となり何度も朝廷からの迫害を受けながら、そのNGOとしての能力を買われて日本最初の大僧正として、大仏建立に携わる。
この人から学ぶことは非常に多いのではないかと思う。 完成を見ずに死亡したのは惜しまれる。

8捕 橘諸兄(684-757)

藤原四兄弟が死没、聖武天皇は精神薄弱という難局での政権就任であったが、吉備真備登用、大野東人を遣っての藤原広嗣の乱平定など、なんだかんだ奈良時代のキーパーソンとして大崩壊を防いだ。

孝謙天皇即位により藤原仲麻呂の台頭を許したが、その後も

なんだかんだ政権の中心

にいた粘り強さも評価。
奈良時代が荒れるのは彼の死後である。
守備の要として頑張ってもらいたい。

9右 光仁天皇(709-782)

白壁王こと光仁天皇は、「藤原百川らに担がれた、桓武天皇へのつなぎ」的なイメージがあるかも知れないが、実は

白壁王「有能」説

が浮上していて、平安時代のグランドデザインを描いたのも彼という説もある。
天智天皇の孫。ひっそりと9番ライトにいるが、その実力は計り知れない。

先発 称徳天皇(718-770)

どうしても先発投手を譲らない

というので先発投手は彼女に決定。
その「剛球」と「威圧感」は敵も味方も恐れる。
しかし、思い通りに行かないことがあったときのモードに突入しても、これまた敵も味方も手に負えない。

称徳の実力と強靭な意志を甘く見るのは得策ではなかった

中継 和気清麻呂(733-799)

称徳からマウンドを引き継げるとすれば彼しかいない。

「宇佐八幡神託事件」で見せた

忖度のない姿勢

が評価されて代表入り。
一時期、独立リーグに左遷させられていたが、気持ちを切らすことなくカムバック。
足腰が強く、スタミナ十分。京都では「足腰の守護神」として護王神社に祀られる。

抑え 牡鹿嶋足(?-782)

「奈良時代のゴルゴ13」とでも言おうか。
藤原仲麻呂の乱においては真っ先に藤原訓儒麻呂(仲麻呂の三男)を射殺して御璽・駅鈴を手にする。
これにより、上皇側は戦局を優位に進めた。

その騎射能力は彼の出自が蝦夷であることに由来する。

歴史小説「風の陣」で主人公に抜擢されたことより、まさかの大河ドラマ主役があるか。

【主な選考漏れ選手とその理由】

長屋王(676/684-729)

・・・結局、

失敗した政策も多いんじゃねぇ?

ということと、あっさり自害したけど、もうちょっと粘ってその間に子供だけでも逃がすとか、そもそも相手の動きを察して事前に防ぐことなど出来なかったのか、という思いもある。

藤原四兄弟(-737)

・・・結局、

短命。

遣唐使として派遣された宇合はレギュラーに加えても良いかと思ったが、武人枠は大野東人、牡鹿嶋足、大伴家持がいるし、藤原枠は不比等と光明子と仲麻呂、遣唐使枠では吉備真備がいるので、この層の厚い奈良時代ではメンバーに入れず。息子の広嗣がしでかしたこともマイナス。

道鏡(700-772)

・・・結局、

称徳天皇死後があっけない。

そんなに基盤が弱かったのか、と。ラスプーチン的な印象を持っている人もいるが、そこまでの粘りがない。能力はあったのかも知れないが、称徳がいなければ何もできないとして、てユーティリティーさ面でマイナスのため選外とした。

聖武天皇(701-756)

・・・精神薄弱のうえ、

放蕩、放浪。

大仏造った偉い人、と小学校などでは教わっていたため、そのギャップもあって印象は悪化。「聖武朝で天下の富の十分の五が消えた」。その代わり、妻の光明子と聖武を支えた橘諸兄はメンバー入り。

橘奈良麻呂(721-757)

・・・詰めが甘いし、脇も甘い。

血気にはやるのはわかるが、相手あってのものである。藤原仲麻呂では相手が悪かったとも言えるが、もう少し父を見習い、もうちょっと注意力をもっていれば良かったと思う。大伴古麻呂も巻き込んでしまった。

藤原豊成(704-766)

・・・藤原仲麻呂兄。橘諸兄存命中は、彼と2人で仲麻呂をコントロールできていたが、

諸兄の死により一気に追いやられた。

のちに復位するも強者ぞろいの奈良時代にあっては選外。

淡海三船(722-785)

・・・歴代天皇の諡号を贈ったり、懐風藻を編集したりと

奈良時代の文人として名高い。

その血統は大友皇子の曾孫。しかしながら文化人枠は武人も兼ねる大伴家持がいるため選外となった。

石上宅嗣(729-781)

・・・日本最初の図書館をつくった

とされる。遣唐使にも選ばれていたが、唐に渡ることなく辞任。同じく文化人枠は大伴家持がいるため選外。

山上憶良(660?-733?)

・・・「貧窮問答歌」で有名である。何となく貧乏なイメージで選外。しかし、本人は遣唐使として唐に渡るなどれっきとした官人である。そして貧窮問答歌もよく似た漢詩があるという、

まさかの「パクリ」説。

鑑真(688-763)

・・・バリバリのメジャーリーガーがやってきた!的な扱いであり、当然、候補に挙げられるが、問題点は

「失明」。

それでもワンピースの藤虎級の活躍は期待できたが、「僧侶枠」には日本史史上でもひときわ異彩を放つ行基がいるため、あえなく選外。

元明天皇(661-721)、元正天皇(680-748)

・・・美人親子

として是非ともメンバーに入れたかったが、なんせ奈良時代の女帝といえば称徳がいる。他にも「女性枠」として藤原光明子もいて、このアクの強い2人の前に、入ることができなかった。

坂上苅田麻呂(727-786)、紀船守(731-792)

・・・ともに藤原仲麻呂の乱で活躍。

坂上苅田麻呂はご存知、田村麻呂の父。紀船守は御璽・駅令を取り戻そうとした矢田部老を射殺した。やはり武人枠は大野、牡鹿、大伴らがいるためあえなく選外。

藤原百川(732-779)

・・・藤原宇合の八男。宇佐八幡神託事件、光仁天皇擁立などで暗躍したと言われている。今回は和気清麻呂、光仁天皇という表舞台の人間が選ばれ選外となったが、

百川のことだ、どこかで暗躍してくれるに違いない。

kazukiさんによるイラストACからのイラスト