~只今、全面改訂中~

こんにちは。

今回は、完全に「好み」で選んだ「江戸時代打線」。

エースには近年、名誉回復中の田沼を起用。

きっと期待に応えてくれるでしょう。

1中 間宮林蔵(1780-1844)
2三 新井白石(1657-1725)
3二 松平信綱(1596-1662)
4一 徳川家康(1543-1616)
5遊 徳川秀忠(1579-1632)
6DH 山田長政(1590頃-1630)
7捕 雷電為右衛門(1767-1825)
8右 江川太郎左衛門英龍(1801-1855)
9左 石田梅岩(1685-1744)
先発 田沼意次(1719-1788)
中継 山片蟠桃(1748-1821)
抑え 山岡鉄舟(1836-1888)
監督 塙保己一(1746-1821)

1【中】 間宮林蔵(1780-1844) 

あの時期によくロシアまで行って生きて帰って来れたなぁというのが率直な感想です。斬り込み隊長として活躍して欲しいです。

【当時の状況】

1804年、レザノフが通商を求めて「信牌」をもって長崎を訪れるも、幕府は4か月待たせた挙句、「通商拒否」。

1806年、怒ったレザノフが、部下のフヴォストフらに指示して、樺太、択捉、礼文沖などが荒らされる。(間宮林蔵は徹底抗戦を主張するも上司の命令で退却。)ロシア人は強かった。

1808年、間宮林蔵樺太探索。間宮海峡を発見し、樺太が大陸と陸続きで無い事を発見。対岸の沿海州にまでわたり、清の役所があるデレンまで足を踏み入れた。

コチラも

2【三】 新井白石(1657-1725) 

明暦の大火の翌日に生まれ、ほとんどの肖像画で額に「火」の字がついていると言われます。

(実際に怒ると眉間に「火」の字に似た皺ができた。)

「火」の男としてホットコーナーを守って欲しいと思います。

儒学者としても歌人としても政治家としても一流。家宣、家継を盛り立てるも、吉宗就任でクビに。

【新井白石の著書】

「折たく柴の記」「読史余論」「古史通」など。

さらにシドッチ事件(1708年)を経て「西洋紀聞」「采覧異言」も。

家宣・家継時代年表

3【二】 松平信綱(1596-1662) 

通称「知恵伊豆」。これまで「徳川家光」ってすごい人物かと思っていましたが、島原の乱の時は完全に鬱状態で、代わりに平定したのがこの人。

琉球をめぐって日本と全盛期の清が戦争になる可能性がありましたが、この時は薩摩藩に「何があっても戦争は回避せよ」という指令を出しました。

家光時代年表

4【一】 徳川家康(1543-1616) 

あまり知られていませんが、「本能寺の変」後のどさくさに紛れて甲斐信濃を平定した才覚は見事です。

関東転封は秀吉の嫌がらせという説も多いのですが、実は江戸は北条氏のもとで栄えていたという説も。

関ヶ原の時に59歳、夏の陣の時に74歳と、実は遅咲き。

5【遊】 徳川秀忠(1579-1632) 

秀吉の養子時代があったので「秀」忠。

将軍後継レースにおいては異母弟の忠吉などのライバルがいましたが、大久保忠隣が「乱世にあっては忠吉、天下をおさめるは秀忠」と進言したことで、就任。

関ヶ原に大遅刻がクローズアップされがちですが、近年、その功績が見直されています。

なお、「大坂冬の陣」では遅刻しまいと猛ダッシュしたため、5万の大軍が静岡についた時点で34騎しかいなかったという逸話も。

秀忠の将軍時代

1605年…2代目将軍就任
1616年…家康死亡
1617年…領地宛行状で自らの地位を明示
1619年…福島正則改易
1620年…5女・和子(14歳)入内。幕府からの財政援助で宮廷文化が花開く。
1622年…元和の大殉教。江戸城大改築。本多正純改易
1623年…将軍職を家光(20歳)に譲る。
1629年…紫衣事件。後水尾天皇退位。外孫、明正天皇即位(称徳天皇以来の女性)。幕府上位の朝幕関係が決定的に。絵踏開始。
1632 死亡。(54歳)

6【DH】 山田長政(1590頃-1630)

外国でトップをとるなんて、中田英寿くらいかと思いました。

7【捕】 雷電為右衛門(1767-1825) 

身長197cm、体重169kgというサイズは圧巻。

(大鵬関より一回り大きいくらい。)

この時期に相撲という興行が成立していたことは特筆すべき。

8【右】 江川太郎左衛門英龍(1801-1855) 

伊豆韮山代官。この時代に砲台を築いたのがすごい。

その「鉄砲」肩で思う存分守って欲しい。

蛮社の獄(1839年)では交流のあった渡辺崋山が弾圧されました。

(儒学者で洋学に反感を持つ鳥居耀蔵(1796~1873)が仕組んだものともされます。)

鳥居と江川は江戸湾警備を共に調査することになり、その過程で軋轢があったと言いますが、真相はいかに。【コチラも

9【左】 石田梅岩(1685-1744)

wikipediaより

By Yanajin33 – 投稿者自身による作品, CC 表示-継承 4.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=37785543

「一に泥(なじ)まず、一を捨てず」という言葉が象徴するように、心を磨く材料であれば、儒教・仏教・道教・神道・国学いずれも捨てず、いずれにも執着せずとする。(石門心学)。

また、「社会的職分を遂行するうえでは商人も武士に劣っていない」と説くとともに、悪徳商人を非難し、商人の道を説く。

代表作は「都鄙問答」(1739年)。徳川吉宗と同時代人。亀岡出身。

コチラの書籍でも絶賛。武士道より商人道。

【先発】 田沼意次(1719-1788)

「賄賂政治家」とつい最近までは語られていましたが、現在では「明治維新の100年前に維新を行おうとした英傑」と見直されました。

諸大名を潰そうとして1786年失脚。

【田沼意次】ちょいまとめ

①貨幣経済への対応(株仲間公認、専売制実施、南鐐二朱銀)
②開拓 (下総印旛沼・手賀沼の開拓を大商人に出資させる)
③ロシア問題への対応(交易を考えるも、ロシアには何もないと判断)

家重・家治時代年表

【中継】 山片蟠桃(1748-1821)

「神ほとけ化け物もなし世の中に 奇妙ふしぎのことは猶なし 」と、蘭学の影響の元、無神論的立場から儒教、仏教を批判。地動説を主張。

この時期にそれを主張したのは尊敬に値します。

代表作「夢の代」。

大阪の懐徳堂で学びました。

【抑え】 山岡鉄舟(1836-1888)

「命もいらず 名もいらず。」と言えば彼。

西郷隆盛と勝海舟の話し合いを実現するために敵陣に乗り込む、切り札的存在。

【監督】 塙保己一(1746-1821)

7歳で失明するも何度も本を聞いてその内容を覚えたと言います。

(ヘレンケラーも彼を知ることで頑張れたという。)

なんでも6万冊分の本を全部覚えていたというからスゴイですよねー。

のちに幕府の援助を受けて和学講談所を創立。

「群書類従」を刊行して日本の史学・国文学研究に大きく貢献しました。

この本は古今の歴史書全てをテーマ別に「分類」したものですが、これを1人でやるとは。

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