~「もう一つ上の日本史」出版に伴い、勉強方法も変える必要が出たので、全面改訂突入します~

☞【公武合体vs尊皇攘夷ではない!】『攘夷の幕末史』(町田明広、2010年、講談社現代新書)

「尊皇攘夷」と「公武合体」は対立する概念ではない。


当時の日本人はみな攘夷思想をもっており、「力をつけてから攘夷」という「大攘夷」vs「即刻戦おう」という「小攘夷」の争いであったのだ。

やはり学者の書物は一味違う。

幕末の構図は、

「尊皇攘夷」vs「公武合体」ではなく、

「大攘夷(無謀な攘夷は否定)」vs「小攘夷(即時通商条約破棄)」

であると喝破。

当時の日本人はほぼみな「攘夷」であり、その方法論が違っただけなのだ。

また、当時「対外的な脅威」と言えばロシア。「攘夷」という思想は北方から湧いた。

その大きな例が1806年の「フヴォストフ事件」。

この事件は幕府をはじめ世間に広く、実際よりも過大に被害が伝えられた。この段階で、幕府は朝廷にその経緯を報告するはめになったが、この点は簡単には見過ごせない
 

「攘夷の幕末史」p32

この時、朝廷の存在がクローズアップされたが、当時の朝廷の人たちなど、「世界情勢も政治も知らない、ただの外国人嫌い」。

こんな人たちに意見を求めたところで、どうするつもりだったのだろうか。朝廷に伺いを立てたばかりに、

以後、幕府は対外的に強硬策を取らざるを得なくなる。

そして、朝廷の姿勢が改まるまで、多くの血が流れた。

※あまり語られることは少ないがフヴォストフ事件などで日露関係が緊迫した状況下で北方探検を行った(1808年)間宮林蔵の勇気はすごい。

以下、読書メモと雑感。

§0.幕末のイメージと攘夷

★「尊皇攘夷」vs「公武合体」という対立の構図はあり得ない。

当時の日本人はみな攘夷であり、
「大攘夷(無謀な攘夷は否定)」vs「小攘夷(即時通商条約破棄)」

の構図であり、大雑把に言えば、
「幕府」vs「長州藩」

※「攘夷を命じた朝廷」と「無謀な攘夷を禁じた幕府」の構図でもある。各藩は板挟みに。実際に数々の武力衝突、暗殺事件も起きている。

§1.東アジア的視点から見た江戸時代

江戸時代、中国の冊封体制下から抜け出したい日本は、日本型冊封体制を敷いた。

この中で朝鮮は実際は対等であるものの、朝貢国という位置づけをしていた。

この発想はのちの征韓論、日露戦争にもつながる。

§2.幕末外交と大国ロシア

仙台の林子平(1738-93)は

1785年に『三国通覧図説』、
1791年に『海国兵談』
を刊行し、ロシアの南下に対して江戸湾防衛、富国強兵、朝鮮出兵論などを展開するが、著書を危険視した老中松平定信により蟄居させられている。

おりしも、その年にラスクマン来航(1792)。

※三国とは朝鮮、琉球、蝦夷。

★外交の歴史【年表】

1669(4代家綱)シャクシャインの戦い
(アイヌは松前藩に従属)

1689(5代綱吉)唐人屋敷の建設
(台湾で鄭成功末裔降伏を受け、1661海禁から1683展海令となり唐船増加を受けて)
※ロシアはネルチンスク条約(1689)
→南下ではなくさらに東方へ。
1702年にはピョートル大帝(在1682-1725)が交易拡大を目指して日本探索を指令。

1715(7代家継)正徳新令
(オランダ船、唐船に入国制限および抜け荷の取り締まり強化)

1720(8代吉宗)唐船打払い例

1739(8代吉宗)ロシアの探索船が仙台、房総へ辿り着く。
(♨つまり、吉宗の頃にはロシア問題が既にあった!世界史的に超有名な1689年ネルチンスク条約=「一路躍進、ネルチンスク条約」は覚えておいて損はない。この時、既にロシアはかなりの領土を有していた。)

1786(10代家治)はじめて幕臣を樺太に送る

1792(11代家斉)ラスクマン来航
(ロシアは当時エカテリーナ2世:在1762-1796)→長崎への入港許可証 ※「大政委任論」はこの頃生じる。

1799(11代家斉)東蝦夷を直轄とする

1802(11代家斉)蝦夷奉行の設置

1804(11代家斉)レザノフ来航
(ロシアはアレクサンドル1世)→半年待たせて国書受け取り拒否

1806(11代家斉)レザノフ家来のフヴォストフによる樺太択捉襲撃

1807(11代家斉)蝦夷全域を直轄に

1808(11代家斉)間宮林蔵樺太探検

1808(11代家斉)フェートン号事件
(オランダの国旗を掲げたイギリス船による略奪。当時、ナポレオン戦争中)

1811(11代家斉)ロシア船出没、ゴロウニン以下8人捕縛。
互いの拘束者を交換。通商は断固拒否。この時点でロシアの攘夷は成功している。

1825(11代家斉)異国船打払い例 
※当時は異国船といえばロシアであったが、ロシアの関心が欧州に向けられたと見て実行。ただし、フェートン号事件以降、幕府の脅威はロシアからイギリスに。1825年、イギリス船乗組員12人が薪水を求めて(実際は密貿易の疑いも)常陸・大津浜に上陸するという事件があったことも影響。

1837(11代家斉)アメリカのモリソン号が浦賀と鹿児島で砲撃を受ける

(※イギリス船と誤認。日本史上もっと注目して良い。世論は布教・通商を求めてきたモリソン号への砲撃を批判。対外政策の批判をしたということで蛮社の獄をもって終結。)

1840(11代家斉)アヘン戦争

1842(11代家斉)天保薪水給与令

1843 ロシアが択捉島に漂流民を護送。イギリスが八重山諸島を測量。

1844 フランス船が那覇に上陸して通商を求める。

1846 アメリカのビッドルが浦賀に来航して通商を求める。

1849 イギリスが浦賀に侵入し、江戸湾の測量を行う。

1853 ペリー来航
焦ったロシアはプチャーチンが長崎に来航。通商を求める。ロシアと通商を結び、米英と対決するという案も出ていたが徳川斉昭らの反対。
(※クリミア戦争勃発でロシアとは交渉中断)

1855 日露和親条約

1857 日露修好通商条約(領事裁判権含む)

1858 日米修好通商条約

1860 北京条約でロシアは沿海州を獲得し、ウラジオストクを得る

1861 対馬事件
(海軍中尉ビリリョフは本国の許可なく対馬占領)
→半年後、イギリス公使オールコックの圧力で撤退。

幕末の武士は大なり小なり後期水戸学の影響を受けており、阿部も堀田も岩瀬も井伊も基本的には攘夷である

開国して軍備を増強してから攘夷、という気持ちでいた。

※岩瀬忠震(1818-61)は同時代で最も卓越した幕閣との評判。林羅山を祖とする林述斎大学頭の孫。その開明性に長崎時代に出会った勝海舟も感化された。五大国との通商条約を結んだあと、一橋派であるがゆえに山内容堂らの反対があったものの井伊直弼により永蟄居させられ(1859)、失意のうちに死亡。

§3.坂本龍馬の対外認識

勝海舟は生麦事件の賠償金問題に際して意見を求められた際、挙国一致を実現するためにイギリスの暴挙をとがめ、通商条約を破棄し、戦争をすることを主張。
戦争は負けるであろうが、国内の発奮を促し、攘夷だの開国だのという対立もなく挙国一致を成し遂げられる、と主張。
勝もまたばりばりの攘夷であり、そのために「天下百年の計」として海軍を鍛えていたのだ。

※また、征韓論を唱えており、対馬を直轄地としたあと、朝鮮、清を従えて、欧州諸国に対抗するという発想をもっていた。幕閣誰も賛同しなかったが、二条城で大激論。長州の外国艦隊に向けての発砲で自重したため幻に終わったが、実際に坂本龍馬を従えて朝鮮探索する予定でいた。

※長州藩の長井雅楽も基本的には「大攘夷」。久坂玄瑞は大攘夷なんだけど、条約破棄に固執して小攘夷となって外国艦隊砲撃事件を引き起こす。(のち禁門の変で死亡)

第1次長州征伐時期の長州は「俗論派」が体制を担っており、恭順の姿勢を示したものの、高杉晋作が挙兵し、俗論派を打倒。次の戦いに備えて海援隊の力を借りて薩摩藩名義で大規模に武器を調達する。

※この時、武器調達をした海援隊の近藤長次郎の書を読むと当時の武士が何を考えていたかがよくわかる。

その内容とは、

日本は古来より神州と呼ばれ、神功皇后のように富国強兵し海外侵略すべきである。そうすれば他国の脅威にさらされることなどないだろう

という話。征韓論どころか世界征服まで考えているような勢いである

龍馬としては東アジア戦略の一環として竹島(※現在でいう鬱陵島)進出を目指していた。
鬱陵島は朝鮮領であり、以前、長州藩では桂小五郎、大村益次郎らが、鬱陵島開墾を幕府に願い出るが、拒否されていた。
しかし、長州藩の防衛上、鬱陵島は重要な位置を占める。

※龍馬は過激浪士を蝦夷と竹島に送り込むという案を持っていた。国内の治安維持にも役に立つ。

※「いろは丸沈没事件」のせいで行けなくなるが、岩崎弥太郎は土佐藩の事業として竹島探索を行っている。(しかし、意図的にか日記には記載がない。)

§4.攘夷実行と西国問題

1863年。条約即刻破棄運動は沸点を迎える。
将軍家茂は上洛し、攘夷実行期限を5月10日と奏聞する。

6月18日に朝廷による無二念打払令(三条実美らが中心)が出されると、大坂城代は「みだりな発砲を禁ず」と言う達しを取り消す。

※その前、2月28日に鳥取藩はイギリス船に向けて実弾5発発砲(当たらなかったが)。朝廷からは褒章を得るも、幕府からは処分された。ただ、幕府からの罪状は「砲撃時、手ぬるかったこと」にあるが。

※外国船と間違えて幕府、長州、薩摩の船に各藩(徳島藩、明石藩、延岡藩)が発砲してしまう事件も発生。それくらい混乱していた。

1863年の5月から「8月18日の政変」までは、朝廷による無二念打払令により小藩でも攘夷を実行しようとしており(不本意にも)、日本がもっとも植民地化の危険が高かったと言えるだろう

長州藩は外国艦隊を砲撃するが、余った大砲で、攘夷を実行しない小倉藩にも砲撃していた
小倉藩は小倉藩で「襲来時」だけの打払としていたため、軋轢が。

やがて、長州藩は小倉藩を占拠。

幕府の頭を越え、朝廷により小倉藩の処分を実行しようと西国鎮撫大将軍に有栖川宮熾仁親王が任命されたのが8月16日で、これが18日のクーデターの導火線となった。

※抜き差しならない展開に。

§5.攘夷の実相・朝陽丸事件

終章.攘夷の転換と東アジアの侵略

政変後も即今攘夷を主張する孝明天皇を松平春嶽、島津久光らが説得し、「横浜鎖港」に落ち着くよう歩み寄る。

その後は家茂、慶喜、久光、春嶽、伊達宗城らが朝議に加わるなどして長州藩の処分方法、国是などを決定するはずだったが、久光と慶喜が鋭く対立して崩壊した。そして、一桑会政権に。

※久光と慶喜の対立がもったいない…

しかし、「横浜鎖港」を諸外国が許すはずもなく、示威行動を受ける。
やむなく許勅なしの兵庫開港を認めたことに怒った朝廷は老中阿部正外、松前崇広の官位剥脱などを命じる。

また、これを朝廷と手を組んだ慶喜の画策と邪推。
家茂は辞職願するも、慶喜により説得して翻意するという事態があった。これらの混乱もあり、孝明天皇もついに攘夷を諦める

※しかし、思想としての攘夷はこれ以降も日本人に引き継がれていく。

コチラも↓↓

書籍購入

攘夷の幕末史 (講談社現代新書) [ 町田 明広 ]価格:792円
(2020/3/22 21:15時点)
感想(20件)

amazon↓(異様な値段・・・)

攘夷の幕末史 (講談社現代新書)新品価格
¥7,280から
(2019/6/28 22:09時点)

電子書籍はコチラ↓(楽天)

攘夷の幕末史【電子書籍】[ 町田明広 ]価格:648円
(2019/5/17 22:32時点)