~「もう一つ上の日本史」出版に伴い、勉強方法も変える必要が出たので、全面改訂突入します~

☞【明治維新の必読書!】『明治維新の正体』(鈴木荘一、2017年、毎日ワンズ)【読書メモ:前編】

§0.はじめに

★水戸藩で発祥した尊王攘夷論が、なぜ長州藩へ移って倒幕になったのか?          

「水戸学」とは水戸藩第2代藩主徳川光圀が提唱したものである。武力で勝ち上がった私的権力の上に皇室を戴いて、徳川政権に公的国家論の息吹を吹き込み、恣意的な権力行使を自戒したものである。

ここにおける「皇室」とは「南朝」であり、すでに存在しない

すでに存在しないということは、万民が平等であるということでもある

水戸藩第9代藩主が徳川斉昭は、1846年7月、老中阿部正弘に、欧米列強に対しては日本が独立を保つには外様大名も政権運営に参加させて全国諸藩が一致団結すべしとの考えを述べる。

この徳川斉昭の息子が徳川慶喜である。

戊辰戦争は西郷隆盛ら武力倒幕派がイギリス型議会への移行を念願した徳川慶喜の大政奉還の意義を理解しなかったため生じたのである。

一般的には明治維新は内戦が少なかったので諸外国の植民地にされなかったと思われているが、薩長はあくまでも武力倒幕を狙っており、決して内戦がなかったわけではない

徳川慶喜へ低い評価を下すものもあるが、慶喜こそ日本の近代化の先鞭をつけた幕末における最高の政治家である。

♨うーん、うーん。まず、「南朝」って何だ?と思った人は、水野先生の書籍から【コチラ】。でもって、「南朝」ってそんなに良いのか?と思った人は、亀田先生の「南朝の真実~忠臣という幻想」を。南朝史観が正しいのか正しくないのか、ということはこの際、問題にせず、「南朝史観」というものなのがどういうもので、それを信じた人たちがどういう人たちだったなのか、ということを理解すべき。これは、実は明治維新から太平洋戦争までつながることでもあるのだ。同様に、徳川慶喜が正しいのか正しくないのかも問題にしてはいけない。慶喜はどういう人だったのか、と、慶喜を評価する人は何を評価しているのかを知ろう。

§1.維新の先駆者徳川慶喜

【徳川慶喜(1837-1913)】…1837年、徳川斉昭の七男として出生。斉昭の教育方針で江戸の華美な風俗に馴染まぬよう、生後7か月で水戸に移り、1847年までの9年間を過ごす。その後、老中阿部正弘に英邁さを買われ一橋家を相続。時代は1846年にビッドルが来日して開国要求を受けた動乱期であった。

会沢正志斎(1782-1863)】…水戸藩校弘道館で学問・武術を教える。徳川斉昭の師匠。水戸学の権威であり、尊王攘夷論を唱えた。1824年、イギリス捕鯨船員12人が薪水、食糧を求めて水戸藩に上陸した騒動を見て、海防の必要性を感じ、著書『新書』で尊王攘夷論を訴える。「西洋人が攻めてくるかどうかは西洋人が決めることであり、攻めてこないと踏んで安逸に非武装のまま過ごしてはいけない。これからは日本人として一致団結しないといけない。さもなければ私欲のために西洋人の仲間となり我が国を混乱に陥れる輩が出てくるであろう。」現代にも通じる言葉である。

藤田東湖(1806-1855)…徳川斉昭に抜擢され、藩の農政改革を行う。越前藩の橋本左内を抜擢するなど人材発掘にも優れるも1855年、安政の大地震で圧死。以後、水戸藩は迷走を始める。

※お母さんを助けようとして下敷きになった話は有名。

1846年ビッドル来日。交易を要求するも、安倍正弘が鎖国を理由に追い返す形になった。しかし、1846年の米墨戦争でアメリカは勝利してカリフォルニアを手にすると、いよいよ対日政策に本腰を入れることになる。ビッドル来日時に対応した老中阿部正弘も今後の激変を予見しており、今後の対応策について広く意見を求めた結果、徳川斉昭の意見に賛同。同時に、将軍宗家の後継候補として、幼くして英邁であった慶喜は、一橋家を相続した。

※1825年「異国船無二念打払令」。

§2.日米和親条約を容認した徳川斉昭

ペリー浦賀来航から始める歴史書には嫌悪感を覚える。米墨戦争(1846年)の英雄となったペリーは1852年にアメリカを出発し、大西洋を回って来て沖縄と小笠原に足場を築いてから、1853年、浦賀に到着。国書を受け取らせ、翌年の条約締結を約束する。

※1783年、アメリカはイギリスより独立。この時、日本は田沼意次の治世下。その後、領土を西に拡げ、米墨戦争。1846年の海軍ペリー提督と陸軍スコット将軍による「ベラクルス港上陸作戦」は歴史に名高い。これによりサンフランシスコとサンディエゴを得て、海洋国家としての足掛かりを得る。太平洋にはハワイ王国と日本があり、まだイギリスが手を出していない太平洋航路開設を目指し、1852年にペリーがアメリカを出発。ちなみにこれは大西洋回り。太平洋横断はまだ安全性が確立されていない。

※ペリーは「沖縄に基地を建設すべき」と本国に提言するほど沖縄を重要視。小笠原では実際に土地を購入した。ペリーが来ることを幕府は1年前から知っていたが、多くの人に伝えていなかったために大騒ぎとなった。当時、多くの幕僚は「即時、打ち払い」を主張するが、米墨戦争時の写真を見た老中阿部正弘は、どう見ても日本の武器はメキシコにも劣ることを知るアヘン戦争のことも知っているので戦えば負けることは目に見えていた。そこで抜群の国防見識を誇る徳川斉昭を頼るが、斉昭は「国書受け取り」に理解を示したため、阿部正弘は国書を受け取り、ペリーは来年の再訪問を約束した。

※ちなみに阿部正弘は広く意見を求めたが、これまでの幕府の方針としては外様大名が幕府の政策に口出しすることなど許されなかった。徳川家伝統の「軍議」とはいえ、画期的なことである。長州藩主毛利敬親は「主戦論」、佐倉藩主堀田正睦は「積極的開国論」、幕臣勝海舟は「出貿易論」を唱える。集まった書簡は700通以上。

ペリーは江戸湾を退去した後、再び沖縄に寄り、琉球政府に武力行使も辞さない構えで沖縄拠点化を要求。明日までに返事しろ、と香港に戻るが、この頃、本国では共和党から民主党ピアス大統領に変わっており、方針変更を余儀なくされる。これが1853年11月

ペリーの行動はこれまで長崎で平和的な交渉を行っていたイギリス、フランス、ロシアから反発を招いた。イギリスの香港駐在主席貿易監督官ボンハム卿は小笠原諸島がイギリスのものであることを主張。ロシアは1度目の来航の後、プチャーチン海軍中将を長崎に送り、「日露和親条約草案」を作成。

ロシアは1705年、綱吉の時代から日本との通商のため日本語学校を設立しており、通訳の育成を図る。1730年にアラスカまで手に入れると、1792年にはエカテリーナ2世がラックスマンを根室に派遣。1804年にレザノフは日本の指定した長崎に行ったが、交易を拒絶され、関係は進展せず。1830年代には地中海政策に目を向けたが、イギリスに事あるごとに阻止された。ニコライ1世は、第1次エジプト=トルコ戦争でエジプトに敗退したトルコと1833年、「ウンキャル・スケレッシ条約」と呼ばれる軍事同盟を結び、念願の地中海進出を果たしたが、英露普墺がトルコ側についた第2次エジプト=トルコ戦争後の1840年のロンドン会議、翌年の仏も加わった会議で同条約を破棄させられた。1853年には、トルコに同盟を拒否されてクリミア戦争(トルコ+英仏、墺、サルディーニャvsロシア)が勃発した。この年はペリー浦賀来航した年でもある。ロシアとしては横槍を入れられた形となったため遅れてはならぬと、択捉島領有問題の話し合い解決と北海道、江戸方面2港の開港を紳士的に依頼。

※紳士的な交渉を行ったロシアと組んでアメリカと戦うという案もあったが、ロシアが本当に日本のために戦ってくれるとは思えない。徳川斉昭は「アメリカとロシアはおそらく談合が成立しているので、ロシアと組むという考えは危険。どんなに辛く厳しくともアメリカと真正面から交渉すべしと。(♨実際は談合したわけじゃないんんだけど。)

クリミア戦争はロシアの敗北をもって1856年終結。ニコライ1世は1855年に死亡しており、後を継いだアレクサンドル2世は改革の必要性を感じ、1861年農奴解放令を行う。クリミア戦争で英仏露が忙しかったことは米国が日本を開国させることができた背景でもある

内外の警戒の目が向けられる中、訓令違反とならないに早く行動を起こさねばと思ったペリーは、1853年1月、予定より数ヵ月早く浦賀に来航。幕府側の全権は林大学頭。アメリカ側の強硬な通商要求を理路整然とかわし、1854年3月、『日米和親条約』を結ぶ

※この間、ペリーは江戸湾の測量を勝手に行なうなど挑発するが、林大学頭の指導を守り、自制した。米墨戦争(アラモ砦)、米西戦争(ハバナ港でメイン号が謎の爆沈)、太平洋戦争(真珠湾)など、すべてこの【挑発→仕返し】のパターンである。

林大学頭(「近代日本の大誤解」より)…ペリーの恫喝外交の理論上の矛盾点をついて、ペリーをやり込める。

『日米和親条約』…薪水・食糧供給(下田・函館)、漂流民救助などを定めたもの。通商に関しては拒否

(※)ペリーとしても大統領が変わって方針が変更していたのも、この時の日本にとっては幸いしたか?

阿部正弘はオランダの助言を受けて海軍整備に勤める。阿部正弘は1855年に老中を譲り、1857年に死去するも、その後も海軍整備は続けられ、1867年には対米7割の海軍力を有することができた。

阿部正弘…「安政の改革」として、幕府海軍を創設。長崎奉行に抜擢された水野忠徳によりオランダから軍艦購入。過労のため、1857年、39歳の若さで病死するが、阿部亡き後も海軍建設は進む。ペリー来航から14年後、アメリカ東洋艦隊の7割の海軍を整備。ちなみに、大正11年(1922年)のワシントン会議、昭和5年(1930年)のロンドン軍縮会議で対米7割を実現できず。

オランダ…「世界の軍艦は木造外輪式から鉄製スクリュー式に移っており、ペリー艦隊はちょっと古い。」と、最新式の軍艦を買うことを幕府に進言。ちなみに海軍力は「イギリスがトップで、オランダが5位。アメリカが8位」とのこと。

§3.通商条約の違勅調印

アロー号事件および天津条約でいよいよ列強の脅威が目の前に。1858年3月に締結するはずであった『日米修好通商条約』は朝廷の許可が得られずに度々延期され、ついに許勅のないまま7月に条約調印。これには徳川斉昭、松平春嶽ら江戸城へ来て反論。井伊直弼は翌月、不時登城を理由に彼らに謹慎を命じる。

【年表】(※注:世界史との関連から新暦記載)

1855年10月 堀田正睦老中に。
1856年7月 アメリカ総領事ハリスが下田へ到着。
1856年9月 清でアロー号事件。当時の広東在住イギリス領事はパークス、イギリス首相はパーマストン。
1857年6月 阿部正弘病死。
1857年10月 ハリスー堀田会談開始。ハリスの恫喝に驚いた堀田は岩瀬忠震を全権に委任。13回の交渉を経て、ついに条約締結へ。
1858年1月 日米通商条約14カ条および貿易章程7則を制定。「武器の輸入は幕府に限る」という制約も。3月5日調印予定。
1858年3月 朝廷の攘夷論で調印許可得られず。
1858年4月 井伊直弼44歳、大老に。
1858年6月 天津条約。ハリスは下田から横浜に来て、英仏が今度は日本に来て、もっと過酷な条件を要求するであろう、という説を流布。
1858年7月 勅許のないままハリスと岩瀬・井上の間で「日米修好通商条約」調印。その5日後、徳川斉昭、慶篤親子(水戸)、徳川慶勝(尾張)、松平春嶽(越前)らが江戸城に押しかけ、井伊直弼を詰問。
1858年8月 不時登城を理由に徳川斉昭らを謹慎処分。 オランダ、ロシア、イギリスと通商条約。10月にはフランスとも結ぶ。

堀田正睦…彦根藩主井伊直弼により阿部正弘の次の老中に起用される(1855年10月)。積極的開国論者である彼が抜擢されたということは、幕府が開国の方針となったことを示す。徳川斉昭の「出貿易論」を聞かずに却下したことがのちに問題。阿部正弘と徳川斉昭は良好な関係であったが、堀田正睦は阿部正弘のような調整能力は高くなく、徳川斉昭とは激突。

井伊直弼…1858年1月に条約制定され、あとは調印するだけとなったが、朝廷の攘夷論により暗礁に乗り上げているところで、大老に。国学者の長野義言を師と仰ぎ、基本的には尊皇。

橋本左内「憎むべきは書生の輩がしきりに流言を飛ばすことだ。公卿たちに西洋の事情を話して説得しても昔気質でほとんど理解せず、困ったものだ。」

「出貿易論」…勝海舟、長井雅楽、徳川斉昭らが唱えていた。出貿易先がルソンなのか琉球なのか、小笠原なのかはわからないが、来日外国人に抵抗のある朝廷も納得、幕府もアメリカも交易が可能となり、良いことづくめであった。

岩瀬忠震…「開国に踏み切ることにより徳川政権が崩壊したとしても国の政治を預かる重職は自分自身の保身より国家の命運を優先するべき」

井上清直…下田奉行。現地交渉担当者。万一、京都からの勅許が得られなくても条約調印してもやむを得ないと井伊直弼に許される。

「南紀派」と「一橋派」…本来の系図から見ると、14代将軍は紀州藩主慶福が妥当。これを主張するのが南紀派。しかし、より有能な慶喜を推して難局を乗り切ろうとするのが一橋派。南紀派の代表が井伊直弼。江戸城不時登城事件ではひたすら平身低頭していたが、その翌日、井伊直弼は慶福を14代とすることを宣言。剛健な水戸派は大奥に不評であったことも一因。大奥こそ政治の大弊害という意見も。

§4.吹き荒れる攘夷の嵐

孝明天皇により水戸藩に「戊午の密勅」が下され(1858)、水戸藩の激派は「桜田門外の変」(1860)を起こして井伊直弼を虐殺。孝明天皇の意向としては「尊皇攘夷、公武合体」であり、和宮降嫁の際の条件として10年以内の攘夷を幕府と約束。これにより「許勅なしの日米修好通商条約問題」は落ち着きを見せる(1860)。

♨孝明天皇自身が「公武合体&尊皇攘夷」なので、やっぱり「大攘夷vs小攘夷」と考えるべきなのだ。(参照:町田明広先生「攘夷の幕末史」

小栗上野介らを乗せた遣米使節団はアメリカ各地で歓迎を受ける(1860)。井伊直弼はアメリカ主軸外交を考えていたが、翌年よりアメリカ南北戦争勃発。日本も外交方針を大幅に変更せざるを得なくなり、対馬事件(1861)に際してイギリスを頼ることに。翌年には遣欧使節団を派遣。

♨修好通商条約は日米を皮切りに、イギリスやロシアとも結ぶことになるのだが、条約っていうのは、最初に結んだ国が一番恩恵を受けられるような設定になっているらしい。(「曖昧な説明」で面目ない)というわけで、グレートゲームに興じる英露を避けて最初にアメリカと結んだという選択は悪くなかったんじゃないか、と評価される所以はそこにある。

坂下門外の変(1862)のち、安藤信正は辞任。この頃より京都はテロリストの巣窟となる。公武合体推進派は狙われ、岩倉具視は隠居。土佐では吉田東洋、萩では長井雅楽が殺害および切腹。勢いづいた攘夷派の三条実美は幕府に対して「攘夷督促の勅命」を伝え、将軍家茂は2か月後と答えざるを得ない状況に追い込まれる。こちらから手を出してはいけないとしたものの萩藩は米仏蘭に砲撃、即、仕返しを受ける(1863)。孝明天皇は「攘夷は時期尚早、長州排除」の方針へ。三条実美らは国賊とされ長州に落ち(七卿落ち)、京都は束の間の平穏に。しかし、攘夷派の水面下での動きは続き、水戸では天狗党の乱(1864)となって表れ、京都ではクーデターの密談中を新撰組が斬り込んだ池田屋事件(1864)があり、その10日後に長州本隊らが出撃。孝明天皇を連れ去ろうとして蛤御門の変がおきる。「攘夷と言うアクセルを踏んだらブレーキが効かなくなった」というのが明治維新を表した言葉であろう。

【年表】(※注:世界史との関連から新暦記載)

1858年9月 孝明天皇から水戸藩に「戊午の密勅」が下される   
1859年7月 横浜、長崎、函館が開港。ロシア、イギリス、フランス、オランダ、アメリカと貿易開始するも、以後、攘夷派、水戸浪士などによる異人斬りが横行。
1859年10月 井伊直弼、水戸藩家老安島帯刀に切腹指令、鵜飼吉左エ門斬首、鵜飼幸吉獄門、徳川斉昭水戸での永久蟄居、慶篤、慶喜にも罪を加重。安政の大獄の始まり。
 ちなみにイギリスで第2次パーマストン内閣成立(~1865)、翌年、アロー戦争。
1860年2月 遣米使節団。小栗上野介ら77人。ここでアメリカが選ばれたのはアメリカ主軸外交を井伊が考えていたからであろう。アメリカで歓迎を受ける。また、咸臨丸にて太平洋横断。木村喜毅を提督とし、アメリカ海軍ブルーク大尉、勝海舟、福沢諭吉、中浜万次郎らが乗る。当時のアメリカ大統領はブキャナン。
1860年3月 密勅返納を決定した水戸藩に対して激派が実力阻止を試みる。会沢正志斎は激派を逆賊として討伐へ。
1860年4月 しかし、これを知った高橋多一郎は脱藩して江戸へ逃れ、「桜田門外の変」を起こす。密勅返納問題はうやむやに。
1860年8月 和宮降嫁に際の交換条件として幕府は10年以内の攘夷の誓約を誓う。これにて許可なく調印した幕府と朝廷の対立は幕府が膝を屈する形で妥協成立。
1860年9月 徳川斉昭、心臓発作で死去。
1861年3月 リンカーンの大統領当選を不服としたアメリカ南部でアメリカ連合国建国。翌月には南北戦争勃発。日本の方針も変更を余儀なくされる。
1861年4月 遣米使節団の成果を見て、萩藩、長井雅楽「航海遠略策」を藩是として採用。これは公武合体と開国方針を結合させたもので「朝廷が幕府に開国を命令すべし」とした点が画期的であった。これは幕府にとっても好都合。孝明天皇も感化される。長井雅楽の功績は大きい。
1861年5月 対馬事件。軍艦で押し寄せ、勝手に兵舎を建てたロシア水兵に住民が射殺。戦争勃発寸前となるも、8月にイギリス軍艦が支援に来て9月にはロシア軍艦退去。
1862年2月 坂下門外の変」で水戸浪士に老中安藤信正が襲撃される。
遣欧使節団(外国奉行竹内保徳、福沢諭吉、福地源一郎ら36名。)
1862年3月 将軍家茂と和宮の婚儀。
1862年5月 安藤信正辞任。この頃から京都は攘夷派の坩堝となり騒然。真木和泉、薩摩藩士有馬新七、筑前藩士平野国臣、萩藩士久坂玄瑞ら。
 土佐では土佐勤王党により土佐藩主から信頼の篤かった公武合体派の吉田東洋が暗殺。
1862年6月 遣欧使節団、イギリス外相ラッセルとの間でロンドン覚書調印。兵庫開港、江戸・大坂開市を5年間延期(飴を与えられる)。フランス他、他国もそれにならう。ただ、遣米使節団の時のような熱気と心的交流は生じなかった。
1862年7月 攘夷派からの排斥運動を受けて関白九条尚忠辞職。その後、出家。九条家家臣ら、和宮降嫁を推進した岩倉具視らも標的に。萩藩では久坂玄瑞の非難を受け、長井雅楽が失脚、のち切腹。萩藩の藩是は「公武合体・開国容認」から「条約破棄・攘夷断行」へと変わり、保守派と急進派が対立。
1862年9月 京都はテロリストたちの温床に。幕府の要請を受けて、名君の誉れが高い会津藩主松平容保が「京都守護職」に
 ※生麦事件
1862年12月 三条実美、幕府に「攘夷督促の勅命」を伝える。これに対して、具体策を説明すると将軍家茂、一橋慶喜、松平春嶽、山内容堂、島津久光らが入京。しかし、攘夷の不可能を知りながら攘夷の命は受けられないとして、公武合体派の有力藩主は京都から去る。
1863年4月 朝廷が将軍家茂に攘夷開始の期日を強く迫り、2か月後を答える。ただし、「外国より襲来した時のみ、これを打払え」とする。
1863年6月 「日本側からは攻撃しない」と通告していたにも関わらず、久坂ら萩藩攘夷派は外国船(アメリカ船、フランス船、オランダ船)を砲撃。オランダ船は国旗を高く掲げて、250年以上の友好をアピールしていたにも関わらずだ。
1863年7月 アメリカとフランスはただちに萩藩に報復。オランダは日本との親交に見切りをつける。(のち、昭和16年、日本と米英どちらを選ぶか迫られたオランダは対日石油輸出禁止を決定し、ABCD包囲網が形成されたのはこの時の恨み??。)
1863年8月 真木和泉、再び入京。攘夷論が再び加熱。将軍家茂はほとほと閉口し、江戸へ帰る。京都は再びテロの嵐が吹き荒れ、公武合体派が狙われる。
1863年9月 いよいよ孝明天皇も、公武合体の立場から軍備が充実していないうちの攘夷は時期尚早と見方を発表し、長州排除へ。会津藩と薩摩藩が主体となる。三条実朝ら攘夷派の公卿7人は長州へ下る(七卿落ち:八月十八日の政変)。孝明天皇は三条実美らが自らの野望を遂げるために天皇の権威を利用していることに激怒され、三条実美を「国賊」と断罪。こののち、しばらく京都は平穏に。
1864年4月 水戸藩において尊攘運動が活発化。筑波山挙兵に端を発し、「天狗党」と名を変え、入京を目指すも、一橋慶喜(鎮派)には認められず、翌1月、武田耕雲斎、藤田小四郎ら352名斬首。
1864年7月 池田屋事件。孝明天皇を長州に連れて行こうと画策していた攘夷派の密談中の場に新撰組が入り、攘夷クーデター一派の京都支部は壊滅。この10日後、長州藩本隊と真木和泉ら他藩の志士ら計3000人以上で京都へ。翌月、京都へ進撃。伏見口で会津藩、大垣藩、彦根藩兵と戦闘、蛤御門において、来島又兵衛、国司信濃らと会津藩、桑名藩、薩摩藩(西郷隆盛ら)が戦闘。来島又兵衛、久坂玄瑞、入江九一戦死、真木和泉自刃。

「戊午の密勅」…孝明天皇より水戸藩、尾張藩、薩摩藩、加賀藩、長州藩などへ伝わる。その内容は、①井伊直弼を糾弾せよ、②尊皇攘夷、公武合体に努めよ、③密勅の趣旨を全国の諸大名に伝達せよ、とのもの。水戸藩に幕府転覆しろと言っているようなもの。これがのちの幕末の抗争の最大原因である。水戸藩も「激派」と「鎮派」に別れる。井伊直弼は戊午の密勅返納を水戸藩に要求するも、「激派」は阻止すべく気勢を上げる。これにより井伊直弼は「安政の大獄」を開始。

激派…「桜田門外の変」「坂下門外の変」「天狗党の乱」などを引き起こす。高橋多一郎、武田耕雲斎らが指導。

鎮派…尊皇攘夷を最初に唱えた会沢正志斎ら。

和宮…有栖川宮という婚約者がいたが、家茂と結婚することを受け入れる。幕府に対して攘夷の交換条件を画策したのが岩倉具視。1868年、江戸城開城に際して徳川慶喜の助命嘆願を働きかけたのは和宮であり、江戸城無血開城が行われたのは彼女のおかげである。ちなみに西郷隆盛は和宮のことを「賊の一味」と呼んでいる。西郷や大久保にそもそも「尊皇」の心はあったのだろうか

軍艦奉行木村喜毅…咸臨丸提督。三男駿吉はハーバードで電気工学を学び、無線機を発明。これが日露戦争時における「敵艦見ゆ」(バルチック艦隊発見)に役立つ。

南北戦争…ハリスは井伊に「列強が来たらアメリカは日本のために阻止する」と言っていたが、そのアメリカが南北戦争により国際社会どころではなくなった。1858年にはペリーも死去している。日本のアメリカ主軸の外交基本原則は破綻し、安藤信正は対馬事件に際しイギリスを頼ることになった。イギリス総領事オールコックは通商条約の緩和を行い幕府に恩を売り、主導権を握る。南北戦争においてイギリスは南を支援、ロシアは北を支援。

真木和泉…久留米水天宮第22代神主。急進的攘夷派の思想的リーダー。先祖が安徳天皇を祭る。「手始めに関白九条尚忠(幕府に協力的であった)と京都所司代酒井忠義を血祭りに上げる。」と宣言。九条尚忠は失脚、酒井忠義は二条城に逃げ込む。「天誅」の名のもとに貿易商や富家にも危害が。中山忠能(明治天皇の祖父)によれば、「彼ら尊攘派は薩長藩士ではなく、浮浪烏合の者で、勤王問屋といわれている。勤王を名として今日を暮している」と嘆く。

三条実美…京都の情勢に乗じて、幕府に攘夷を行わせようと天皇に上申し、出世。

♨やっぱり萩藩の外国船砲撃、下関戦争は八百長ではないか、とも思う…。そして、いつの世でも天皇の権威を利用して自らの野望を遂げようとするものはいる

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