~只今、全面改訂中~

§3.通商条約の違勅調印

アロー戦争・天津条約で列強の脅威が目前に。1858年3月に締結するはずであった『日米修好通商条約』は朝廷の許可が得られずに度々延期されていたが、ついに許勅のないまま7月に条約調印。これに徳川斉昭、松平春嶽らが江戸城へ来て反論。井伊直弼は翌月、「不時登城」を理由に彼らに謹慎を命じる。

【年表】(※注:世界史との関連から新暦記載)

1855年10月 堀田正睦老中に。
1856年7月 アメリカ総領事ハリスが下田へ到着。
1856年9月 清でアロー号事件。当時の広東在住イギリス領事はパークス、イギリス首相はパーマストン。
1857年6月 阿部正弘病死。
1857年10月 ハリスー堀田会談開始。ハリスの恫喝に驚いた堀田は岩瀬忠震を全権に委任。13回の交渉を経て、ついに条約締結へ。
1858年1月 日米通商条約14カ条および貿易章程7則を制定。「武器の輸入は幕府に限る」という制約も。3月5日調印予定。
1858年3月 朝廷の攘夷論で調印許可得られず。
1858年4月 井伊直弼44歳、大老に。
1858年6月 天津条約。ハリスは下田から横浜に来て、「英仏が今度は日本に来て、もっと過酷な条件を要求するであろう」と流布。
1858年7月 勅許のないままハリスと岩瀬・井上の間で「日米修好通商条約」調印。その5日後、徳川斉昭、慶篤親子(水戸)、徳川慶勝(尾張)、松平春嶽(越前)らが江戸城に押しかけ、井伊直弼を詰問。
1858年8月 不時登城を理由に徳川斉昭らを謹慎処分。 オランダ、ロシア、イギリスと通商条約。10月にはフランスとも結ぶ。

堀田正睦…彦根藩主井伊直弼により阿部正弘の次の老中に起用される(1855年10月)。積極的開国論者である彼が抜擢されたということは、幕府が開国の方針となったことを示す。徳川斉昭の「出貿易論」を聞かずに却下したことがのちに問題。阿部正弘と徳川斉昭は良好な関係であったが、堀田正睦は徳川斉昭と激突。

井伊直弼…1858年1月に制定された通商条約は調印するだけだったが、朝廷攘夷論者により暗礁に乗り上げていた。そのタイミングで大老に。国学者の長野義言を師と仰ぐなど、基本的には尊皇。

橋本左内憎むべきは書生の輩がしきりに流言を飛ばすことだ。公卿たちに西洋の事情を話して説得しても昔気質でほとんど理解せず、困ったものだ。

「出貿易論」…勝海舟、長井雅楽、徳川斉昭らが唱えていた。出貿易先がルソンなのか琉球なのか、小笠原なのかはわからないが、来日外国人に抵抗のある朝廷も納得、幕府もアメリカも交易が可能となり、良いことづくめであった。

日本本土でないところで通商を行うというアイデアは当時の状況を考えると良いアイデアだっだと思うんだけどな…。

岩瀬忠震…「開国に踏み切ることにより徳川政権が崩壊したとしても国の政治を預かる重職は自分自身の保身より国家の命運を優先するべき」

井上清直…下田奉行。現地交渉担当者。万一、京都からの勅許が得られなくても条約調印してもやむを得ないと井伊直弼に許される。

「南紀派」と「一橋派」…14代将軍には、系図的に近い紀州藩主慶福が妥当であると主張するのが「南紀派」。有能であると評判の慶喜を推していたのが「一橋派」。南紀派の代表が井伊直弼。江戸城不時登城事件ではひたすら平身低頭していたが、翌日、慶福を14代とすることを宣言。水戸派が大奥に不評であったことも一因。(大奥こそ政治の弊害という意見も。)