こんにちは。
今回ご紹介しますのは、「幕末年表㉞:1870年」です。
箱館戦争は終結しましたが、「幕末=西南戦争終結まで」論に従い、続けます。
戊辰戦争は終わりましたが、今度は限られた財源の中で、集めた兵をどうするかが1つの問題となっておりました。
そんな中、山口藩(長州藩)では奇兵隊が解隊に反対して武力騒動を起こす事件が勃発。
これは山口藩の親玉に当たる木戸孝允によって鎮圧されました。
一方、鹿児島藩では西郷隆盛によって兵力が温存されることとなりました。
これがのち、影響を及ぼしますことになるのですね。
また、「日田騒動」や雲井龍雄の「政府転覆計画事件」、島津久光の大久保利通に対する激怒など、各地で問題が生じ、明治政府を悩ませました。
以下、年表です。
1870年(明治3年)年表
1/3 | 「大教宣布の詔」(だいきょうせんぷ の みことのり)(※1) ※国民へ神道を普及させる目的 ※儒教、仏教、キリスト教の反発あり成果得られず |
1/26 | 山口藩で奇兵隊士らの脱退騒動(※2) ※版籍奉還後の藩政改革に伴う解隊に反発(兵力が膨張しすぎて予算圧迫) ※1000名あまりが藩庁を武力包囲 |
2/11 | 木戸孝允、脱退騒動を武力鎮圧 ※前年12月に帰藩しており、藩兵を率いて鎮圧にあたる ※ちなみに鹿児島藩では西郷隆盛が兵を維持する方針をとる |
2/24 | 島津久光、改革への不平を大久保利通に爆発 ※木戸は毛利敬親を、大久保は島津久光を上京させ政府に協力させるという使命を受けて帰藩。毛利敬親は協力も、島津久光は新政府に対する不平を吐き出す。 ※久光は9月に東京から兵力を引き揚げて交代兵を出さず。 |
閏10/20 | 工部省設置 ※殖産興業推進(工部卿:1873年~伊藤博文) |
11/13 | 「徴兵規則」制定 ※1万石につき5人など ※大村益次郎暗殺後、山県有朋が徴兵論を引き継いだ ※しかし、実際の施行は難航 |
11/17 | 日田騒動(@大分県) ※日田県(大分県)で民衆騒擾。 ※山口藩士族で軍学を教えていた大楽源太郎(だいらく げんたろう)は大村益次郎の襲撃犯や奇兵隊脱退騒動の関係者を門人としていた。彼を慕う不平士族と民衆により、県庁を襲撃する事件が起きた。 (→1871年3月16日、大楽源太郎殺害で幕を閉じる) |
12/8 | 横浜毎日新聞創刊 ※日本最初の日本語日刊新聞 ※現在は消滅 |
12/19 | 中野騒動 ※中野県(現:長野県中野市)で起きた世直し一揆。 ※増税に苦しめられていた。 |
12/24 | 勅使岩倉具視、島津久光に上京を説得 |
12/25 | 西郷隆盛、自身の上京を岩倉に伝える ※岩倉の真の目的は西郷隆盛の帰京であったため、目的は果たした |
12/26 | 雲井龍雄ら、政府転覆計画の罪で処刑 ※米沢藩選出議員だった雲井龍雄は戊辰戦争の敗残兵を集め、彼らの救援活動を行った ※政府転覆のための武力集団を組織することを目標としていた |
(※1)大教宣布の詔
政府は初め(中略)、祭政一致の立場をとり、神祇官(のち神祇省)を再興し、多くの国学者・神道家を登用した。そして宣教師をおき、神道を中心とした国民教化をめざして1870年に大教宣布の詔を出し、ついで神社制度を設け、官弊社・国幣社など神社の社務を定め、祭式を統一するなど、政府の保護のもとに神社神道の普及に力を注いだ。
「詳説日本史研究」p340
ただ、1871年には神祇官は「神祇省」に格下げし、1872年には「教部省」に改組。
それに伴い、「宣教師」も「教導職」となった。
国家神道として無理やりに変えようとしたのが反発を受けた原因かも知れません。
(※2)各地で不平
たとえそれが苦楽を共にした相手だとしても…
兵たちを温存するでごわす。
四民平等路線で進め、着々と実績をあげます。
これもそれも新政府が悪い…
西洋かぶれの新政府を倒そう…
のち、「萩の乱」をおこすことになります。
(※3)日刊新聞創刊
最初の日刊新聞は1870年の『横浜毎日新聞』であった。1870年代には、『東京日日新聞』『郵便報知新聞』『朝野新聞』『朝日新聞』(のち『大阪朝日新聞』)をはじめ、新聞や雑誌がつぎつぎと創刊された。
「詳説日本史研究」p404-5
創刊 | 新聞名 | 中心人物 | 備考 |
---|---|---|---|
1870 | 横浜毎日新聞 | 島田豊寛 | 現在は消失。(毎日新聞の前身は東京日日新聞と大阪毎日新聞。) |
1872 | 東京日日新聞 | 福地源一郎 | 現在の毎日新聞の前身。1874年から福地源一郎が主筆に。政府の御用新聞となる。 |
1872 | 日新真事誌 | ブラック | イギリス人のブラックによるが、日本語。1874年、「民撰議院設立建白書」を掲載。1875年廃刊。 |
1872 | 郵便報知新聞 | 矢野文雄 | 現在の「スポーツ報知」の前身。 |
1874 | 朝野新聞 | 成島柳北 | |
1874 | 読売新聞 | 子安峻 | 小新聞(庶民に娯楽を与える色彩)としてスタート。 |
1875 | 東京曙新聞 | 末広鉄腸 | 新聞紙条例(1875)で初めて処分 |
1879 | 大阪朝日新聞 | 村山龍平 | 1898年の時点で発行部数第1位。1940年、東京朝日新聞と統一。 |
1879 | 東京横浜毎日新聞 | 沼間守一 | |
1882 | 時事新報 | 福沢諭吉 | 中立を唱える |
1888 | 東京朝日新聞 | 村山龍平 | |
1888 | 大阪毎日新聞 | 本山彦一 | 1898年の時点で発行部数第3位。大阪朝日新聞とともに大阪系が上位を占める。現在の毎日新聞の前身。 |
1890 | 日本 | 陸羯南 | くがかつなん。政府の欧化主義に反対し、出版停止を何度も食らう。 |
1890 | 国民新聞 | 徳富蘇峰 | 「国民新聞」は徳富蘇峰であるが、「国民主義」は陸羯南であるので注意。 |
1892 | 万朝報 | 黒岩涙香 | 「一に簡単、二に明瞭、三に痛快」。上流階級のスキャンダルなど。「三面記事」の由来はこの新聞から。1898年の時点で発行部数第2位。日露戦争で黒岩が主戦論に転じたため、内村鑑三、幸徳秋水らが退社。 |
1893 | 二六新報 | 秋山定輔 | 「万朝報」とともに大衆的色彩。 |
1903 | 平民新聞 | 幸徳秋水 | 「平民新聞」は幸徳秋水であるが、「平民主義」は徳富蘇峰なので注意。 |
京都新聞は1879年、中日新聞の前身の名古屋新聞は1886年です。
一方、福沢諭吉の「時事新報」は中立の立場をとります。