~只今、全面改訂中~

こんにちは。

今回ご紹介しますのは、「幕末年表㊳:1874年」です。

征韓論に破れて下野した板垣退助、後藤象二郎、副島種臣、江藤新平らは「民撰議院設立建白書」を提出します。

国会開設を目指す「自由民権運動」です。

中心人物の1人、江藤新平は、郷里・佐賀の不平士族たちを抑えるつもりでしたが、

とても抑えられそうにないことを悟り、

不平士族たちの首領となることを決意しました。

こうして起きたのが「佐賀の乱」です。

この戦いは、徴兵制が生まれて初めての戦いでした。

戊辰戦争を戦った百戦錬磨の旧士族相手に、徴兵軍が勝利します。

江藤新平は裁判による判決を望みましたが、願いむなしく処刑されます。

「台湾出兵」が行われたのもこの年でした。

1874年(明治7年)年表

1/12板垣退助ら、東京で愛国公党」結成(※1)
1/14喰違の変

※岩倉具視暗殺未遂事件
※征韓派の不平士族による
1/17板垣退助、後藤象二郎、副島種臣、江藤新平ら、「民撰議院設立建白書」を左院に提出(※1)

※民撰議院論争が始まる(加藤弘之は「時期尚早論」で対立)
※「日新真事誌」(イギリス人ブラックが発行)に掲載。
2/1「佐賀の乱」勃発(※2)

※征韓論で破れて下野した江藤新平が郷里の不平士族「征韓党」首領に担がれた。
※1万人規模。
2/6「台湾出兵」決定(※3)

※大久保利通、大隈重信。琉球は古来、日本の領土であり、他方、琉球人民を殺害した人々が住む台湾は清王朝の支配が及ばない地域であるため、日本は台湾に報復すべきである、とした。
3/1「佐賀の乱」鎮定(※2)

※徴兵軍としては初めての大規模な戦いであったが、士族に勝利する
※大久保利通。
3「明六雑誌」創刊

※福沢諭吉、中村正直、西周、津田真道らも参加。
4/10板垣退助ら、高知で「立志社」結成(※1)

※片岡健吉
4/13江藤新平処刑(※2)

※裁判を望むが叶わず
※江藤新平の生首を見て大久保利通が高笑い
4/18木戸孝允、「台湾出兵」に反対して参議・文部卿辞職(※3)
5/22台湾出兵(※3)

※西郷従道麾下の鹿児島士族兵が、台湾に上陸
6西郷隆盛、郷里鹿児島で私学校設立

※鹿児島は政府の命令が及ばない半独立国家の様相を呈す
10/31台湾談判妥結(※3)
ちなみに1874年に青森・東京・長崎間の電信ネットワークが完成しています。

電話の完成となると1890年まで待たねばなりませんが。

(※1)自由民権運動の始まり

征韓論が入れられずに辞職した板垣退助・後藤象二郎・江藤新平らは、政府関係者の間に立憲政治論が広まるなかで、1874年1月、愛国公党を結成するとともに、

民撰議院設立の建白書を左院に提出した。

「詳説日本史研究」p350
板垣退助
一見、反政府運動を行っているように思うかも知れませんが、「愛国」の情があるからこそ自由民権運動を行っているのです。

また、当時、「党」っていい意味ではないので、「公党」としました。

もちろん、板垣殿が主張される前から、政府内で国会開設の必要性は立案されていましたけどね。
しかし、征韓論争によって、それどころではなくなってしまっていたのです。
政治を一握りの役人にやらせてはいけない…

納税者は国政に参加する権利がある。

それによって国力も高まるであろう。

板垣退助
「左院」に提出したのもポイントかな。

立法府は、「議政官の下局(1868)」→「公議所(1869)」→版籍奉還→「集議院(1869)」→廃藩置県→「左院(1871)」→立憲政体樹立の詔→「元老院(1875)」と変遷しています。

ちなみに、私、東京では愛国公党をつくったけど、うやむやになってしまった。

ので、郷里・土佐で「立志社」、大阪に「愛国社」を作ります。

立志社はのちに立志社建白(1877)を提出するほど勢いがあった。

加藤弘之
もちろん、国会開設が理想的なのはわかるのだが、

時期尚早では…

教育の充実こそ優先すべきでは…

イギリス人のブラックがやっていた日新真事誌に民撰議院設立建白書が掲載されました。

同紙は左院の議事などを独占的に掲載する契約を結んでいたんですよ。

加藤弘之の反論に対して、板垣らがさらに反論を出すんです。

板垣退助
人民の教育のためにも議会が必要なんですぅ。

といっても、選挙権をどこまで広げるかなど、論争は7月まで続きます。

民撰議院論争は他の新聞社でも行われます。

自由民権運動の展開に、日刊新聞も影響を与えました。

板垣退助は建白後、まもなく郷里土佐に帰り、片岡健吉・林有造らの同志を集めて1874年4月に立志社を結成し、自由民権思想の普及につとめた。

ついで翌年、立志社を中心に全国の民権派結社の代表が大阪に集まって愛国社を創立した。

「詳説日本史研究」p351
われわれも国会開設を目指している。

なんなら政府に戻って活動した方が良いんじゃない?

どう?

あぁ、それもいいなぁ。

って、あれ、なんで俺、政府辞めたんだっけ?

えーーーーっ!!

(※2)佐賀の乱

…江藤新平は郷里佐賀に帰って、1874年、不平士族に擁立され征韓党の首領となって反乱をおこした(佐賀の乱)。

この反乱を武力によって鎮圧した政府は取締りを一段と強化し、1875年には反政府的言論活動をおさえるため、讒謗律・新聞紙条例を発布した。

「詳説日本史研究」p347

江藤新平
「民撰議院設立建白書」にも参加した私は、郷里・佐賀に帰りました。

ただ佐賀に帰ると不平士族たちを抑えられそうにありませんでした。

そこで、一緒に立ち上がることにしたんです。

大久保利通
江藤め…。

この戦いは徴兵制度が出来てから最初の戦い。

相手は戊辰戦争を戦った旧士族とはいえ、負けるわけにはいきません。

…もちろん、不安もありますよ。

山県有朋
「山城屋事件」で、江藤さんには政治家生命を絶たれるところでした。

他にもいろいろあって長州閥は江藤さんにいいイメージありません…

江藤新平
ちなみに明治新政府の司法制度を整えたのはこの私で、「司法の父」と呼ばれております。

戦は負けましたが、裁判による判決を望みます。

大久保利通
そうはさせるか、即刻処刑じゃ、処刑。

歯向かったらどうなるかわからせてやる!

江藤の生首、醜体。笑止なり。カーカッカッカ。

https://news.yahoo.co.jp/articles/d9662c4742562f22b26d804b16c06d2030c7e3e3?page=1

ちょっと長いですがコチラ(↑)も。(2022/08/14:東洋経済オンライン)

実際に反乱の首領に担がれてしまった江藤の姿勢は意志の強い大久保には滑稽に写ったのであろう。そして大久保は満を持して台湾出兵へ。

(※3)台湾出兵

(1871年の琉球漂流民殺害事件における清との)交渉は難航し、1874年、日本政府は西郷従道(1843-1902)のもとに軍隊を台湾に派遣した(台湾出兵)

この後処理のために、大久保利通が全権として清国と交渉し、イギリス公使ウェードの調停もあって、清国は日本の出兵を義挙として認め、償金50万両を支払って解決した

「詳説日本史研究」p346
これで台湾が日本の領土になったわけではないですよー。

台湾が日本の領土になったのは、日清戦争後の1895年のこと。

木戸孝允
内治優先、と言ったではないか…

もう大久保とは一緒にやれん。

辞める。

大久保利通
当然、清王朝は台湾は自国の一部と主張し、事後交渉は難航しました。

清王朝との戦争も辞さない構えでしたが、最後はなんとかまとまりました。

1874年に日清戦争が起きた可能性がアルなぁ。
next:大阪会議で国会開設を約束。ロシアとは樺太千島交換条約を結ぶ。朝鮮とは江華島事件で衝突。