~只今、全面改訂中~

こんにちは。

今回ご紹介しますのは、「幕末年表㊲:1873年」です。

1873年は明治6年です。

「明治6年の政変」で西郷隆盛らは大久保利通らと袂を分かちました。

また、「地租改正」も行われました。

1873年(明治6年)年表

1/4神武天皇即位日・天長節を祝日とし、五節句の廃止を達す
1/9名古屋、広島に鎮台を設置
1/10徴兵令制定

※各地に反対一揆
1/14廃城令

※正式名称は「全国城郭存廃ノ処分並兵営地等撰定方」。
※陸軍の軍用財産として残すものは「存城」、それ以外は「廃城」。「廃城」=「取り壊し」ではなく、「軍用施設ではなくなる」という意味。
※存城処分でも破却されて改築された城もあるし、廃城処分でもそのままの城もある。
※江戸時代の城郭が大きく減ったのは、老朽化や火災、空襲によるもので、廃城令が原因ではない。
※江戸時代の「一国一城令」と混同しないように!
2仇討ち禁止

キリスト教黙認、禁制の高札撤去

※五榜の掲示によってキリスト教は禁止されており、長崎では浦上教徒弾圧事件なふぉが生じていた。しかし、岩倉使節団が欧米列国を視察したとき、キリスト教禁教が条約改正交渉に悪影響を及ぼしていることを知ったため、禁教を解いた。
3/7神武天皇即位日を紀元節と改称

※2月11日。
5/26大久保利通帰国
6/11第一国立銀行設立
6/24集議院廃止
7/23木戸孝允帰国
7/28地租改正条例(※1)
8/明六社結成

※アメリカ帰りの森有礼(薩摩藩出身)をはじめとして啓蒙思想家たちが西洋の学会にならって結成。
※明治6年に結成されたため明六社であるが、正式発足は翌年2月。
※1875年6月に政府が讒謗律、新聞紙条例などを制定して自由な言論活動を制限したため、1875年11月に廃刊。
8/17西郷隆盛、朝鮮派遣を内定
9/13岩倉具視帰国
10/15西郷隆盛、朝鮮派遣決定
10/24岩倉具視の建議により西郷隆盛の朝鮮派遣を無期延期とする(※2)

※西郷隆盛、参議、近衛都督辞任
10/25明治六年の政変(※2)

※西郷隆盛に続き、板垣退助、後藤象二郎、江藤新平、副島種臣も参議を辞任
(→伊藤博文、勝海舟、寺島宗則らが参議に)
11/10内務省設置

内務卿:大久保利通。大蔵省の機能は縮小された。
※内務省と連動した工部卿は伊藤博文、大蔵卿は大隈重信。
※国内の治安維持を司る。(「国内安寧人民保護ノ事務」
※1874年、内務省の管轄のもと、東京に警視庁が設けられる。(警察制度確立には川路利良)
12秩禄奉還(※3)

(※1)地租改正

改正の内容は、
(1)地価を課税の標準にしたこと(これまでは収穫高が標準)
(2)税率を地価の100分の3とし、原則として豊凶によって増減しないこと
(3)貨幣によって納入させたこと
(4)地租負担者は地券を交付された土地所有者としたこと、など

「詳説日本史研究」p336改編
「百分ノの三ヲ以テ地租ト相定ムヘキ!」
もともと明治新政府は「国土はすべて天皇のもの」としていましたが、

前年、地券と引き換えに土地の私有制度が認められていたんですねー。

これで税収が安定すればよいですが。

県によって税率も異なっていましたし。

あ、ちなみに地租改正の基本構想は旧幕臣の神田孝平らが行っております。

数年かけて実行されたけど、1876年には地租改正反対一揆が茨城、三重、岐阜県などでおこってます。
そこで、1877年には地租率は100分の2.5に引き下げました。

「竹槍でどんと突き出す2分5厘」ってやつです。

あれ、江戸時代より負担が少ない?

地租改正の結果、旧領主ではなく農民の土地所有権が認められ、土地に対する単一の所有権が確定し、近代的土地所有制度が確立された

「詳説日本史研究」p337
山川出版社のものは江戸時代より負担が少ないことを強調しております。

しかし、東京法令出版の「日本史のライブラリー」では、

むしろ、地主が高率の小作料を搾取する「寄生地主制」が確立したこと、

金納のため米価が下落すると自作農は経営困難となったこと、

小作農は小作料が高率で窮乏したことなど、デメリットを強調しております。

ちなみに、この「寄生地主制度」は第二次世界大戦後の「農地改革」まで続くんだ。

土地だけもってて働かんでも収入のある地主なんてもんは解体してやった。

でもって、小作農は現物納から金納に代えた。

地租改正みたいな大きな事業を行うのに、国民の了解などお構いなしだったこともポイントですね。

そうしたことも「国会開設」への原動力となります。

ただ、地租改正が税収上成功だったのかといいますと、大幅減額でした。

しかし、その後の産業の振興などにより地租収入割合は徐々に低下し、国会開設後の時点では酒税に抜かれるまでになります。

(※2)征韓論争、明治6年の政変

幕末以来、朝鮮は鎖国政策を取り続け、明治政府の交渉態度に不満をいだき、日本の国交要求を再三拒否した。そのため日本国内では、武力を背景に朝鮮に対し強硬方針をもってのぞむべきだとする征韓論が高まった

政府部内でも西郷隆盛・板垣退助・江藤新平・副島種臣らの参議がいわゆる征韓論を唱えた。

板垣は即時出兵を唱えたが、西郷はこれに反対し、1873年8月、政府は西郷隆盛を使節として朝鮮に派遣して交渉にあたらせ、国交要求が受け入れなければ、兵力を送り、武力に訴えても朝鮮の開国を実現させるという方針を内定した

「詳説日本史研究」p344-5
西郷隆盛
ちょっと誤解されている方もいるかも知れないですが、ここにも書いているように、おいどんは即時朝鮮出兵を主張しているわけではないのです。

即時出兵を主張しておられたのは退助どので、おいどんはむしろそれをなだめる感じでごわした。

この征韓論は同時に、政府に強い不満をいだき、朝鮮への積極的進出に期待をかけ、それを望んでいる士族層をなだめ、彼らの矛先を海外に向けさせるためでもあった。

しかし、1873年9月、岩倉具視一行が帰国すると、欧米先進列強の著しい発展をみてきた大久保利通・木戸孝允らはあくまで内治の整備が先決であるとして征韓論に強く反対し、結局、同年10月、初めの方針は取り消され、西郷ら征韓派の参議はいっせいに辞職した(明治6年の政変)

「詳説日本研究」p345
木戸孝允
というより、内治の整備が必要と主張したのは私。

のちの台湾出兵などを見たらわかるように、大久保利通の対外政策は内治優先とは言い難い。

そのため、私は抗議の意味を込めて辞職するのです。

そうそう。教科書的に「征韓派」と呼ばれる人の中にも意見の相違はあったし、「内治派」と呼ばれる人の中にも意見の相違があった。

大久保利通と木戸孝允を同じ意見と考えちゃうと、その後の政府の行動が理解できないよね。

岩倉具視
三条実美は西郷に気圧されて失神した。

わしはそんなことはならん。

西郷はわしが止める。

大久保利通
西郷さんとの関係もここまでか…

私も引く気はありません。

(※3)秩禄奉還

武士の特権はなくなったとはいえ、まだ私たちには俸禄が支給されていたんですね。

廃藩置県後は支払い元が藩から国へ変わりました。

これだけで国家財政の約30%の負担を負わされていた

そこで政府はこの整理、いわゆる秩禄処分に着手し、これを公債にかえる方針を進めた。

まず、1873年、秩禄奉還の法を定めて、公債及び現金と引き換えに自発的な俸禄の奉還を行わせ

ついで1875年には、これまで現米で支給していた俸禄を貨幣で支給(金禄)することにした。

さらに、1876年8月、金禄公債条例を制定して家禄制度を全廃し、金禄公債証書を交付して俸禄の支給を打ち切ることにした(翌年から実施)。

「詳説日本史研究」p335
士族の多くは生活苦のため、自発的に俸禄奉還しました。
得た金で商売始めたりもしたけど、うまくいかないのよ、これが。

しょうがないじゃん、全くそんな訓練されていないんだから。

「士族の商法」ってバカにされましたねー。

そうした士族たちは自由民権運動に身を投じたり…。

「士族授産」って言って、
資金貸付したり、
官有地を安く払い下げたり、
救済にあたってやったんだけどなー。
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