こんにちは。
今回ご紹介しますのは、「幕末年表㉟:1871年」です。
この年は「廃藩置県」が行われた重要年です。
大きな暴動が起きずに廃藩置県が行われたことで、その後の中央集権化が比較的スムーズに進みました。
「岩倉使節団」が出航したのもこの年でした。
1871年(明治4年)年表
1/9 | 広沢真臣(長州藩)、東京で暗殺 ※下手人は不明 |
1/13 | 御親兵召し出しを決定 ※廃藩置県に対する暴動を予想し薩摩、長州、土佐から1万人を「御親兵」として東京に集結 |
3/1 | 郵便開始 ※東京ー大阪間 ※政府の意向を地方に渡らすのに必要 ※旧幕臣の前島密(1835-1919:新潟県出身)により郵便システムが整備。 ※前島密は江戸時代に難しい漢字を廃止するよう徳川慶喜に建議したことも。【コチラ】 ※東京を首都にすべきと大久保利通に建議したのも前島密。 ※鉄道敷設にも前島密が関与。 ※前島密=超有能官僚! |
3/25 | 毛利敬親(元長州藩主)死去 |
4/4 | 戸籍法制定 ※国民皆兵に向けて国民数を把握する必要があった。 |
4/ | 仮名垣魯文、戯作「安愚楽鍋」発表 ※文明開化の象徴ともいうべき「牛鍋屋」が舞台。 |
5/10 | 新貨条例(※1) ※金本位制、円単位、十進法 ※1両=1円=100銭、1銭=10厘 ※伊藤博文が建議、大隈重信が主導。 ※東日本では金、西日本では銀がメインだった。 ※実質的には金銀複本位制となる。 |
6/ | 長崎ー上海に海底ケーブル ※長崎ーウラジオストク間にも。 |
7/9 | 司法省設置 ※初代司法卿は江藤新平(1872-)。 |
7/14 | 廃藩置県断行(※2) ※261県を新しく置き、1使3府302県となる。(のちに1使3府72県) ※中央から府知事・県令が派遣され、全国が政府直轄となった。 ※261県の知藩事は免官されて東京在住の華族となった。 ※各藩は激しい一揆や財政破綻に苦しんでいたため大きな抵抗もなくこれを受け入れた。 ※欧米に対抗するには中央集権国家であるべきという認識も醸成されていた。 ※中央官制は三院制に ※廃藩を知らされた島津久光は怒りのため屋敷で花火を打ち上げて鬱憤を晴らす |
7/18 | 文部省設置 ※初代文部大臣は森有礼。 ※1872年東京師範学校設置。(→現在の筑波大学) ※1872年学制(フランス式)→1879年教育例(アメリカ式) |
7/29 | 二官六省制から、三院制に(※3) ※正院、左院、右院。 ※集議院は左院へ。 ※要職に就いたは薩長土肥と公家。(西郷、木戸、板垣、大隈の4参議が中心) ※太政官の権限を強めた。 |
8/8 | 神祇官を神祇省に(※3) ※神道国教化政策から国民教化政策へ転換。 ※1872年廃省、1873年にはキリスト教黙認。 |
8/9 | 散髪・脱刀令 ※「ザンギリ頭」にする旧武士も増えたが、散髪屋の腕前がイマイチでトラ刈りとなり、客が激怒する騒動なども起きていた。(横浜毎日新聞より) |
8/10 | 正院の納言を廃止し、左右大臣を設置(※3) ※正院…太政大臣:三条実美、左大臣:不在、右大臣:岩倉具視、参議:西郷隆盛、木戸孝允、板垣退助、大隈重信。左院…議長:後藤象二郎、副議長:江藤新平。 |
8/20 | 「徴兵規則」の施行を実質的に停止 |
8/23 | 華族、士族、平民の通婚を許可(※7) ※「四民平等」には労働者や兵士を大量に確保して富国強兵を行うために行われた身分再編成という側面もある。 ※華族(公卿、諸侯)や士族の内部にあった様々な身分や格式も一本化 |
8/28 | 身分解放令(※7) ※えた・非人の称を廃止 ※大江卓(土佐藩出身)が建議 |
9/7 | 田畑勝手作許可 ※1643年に「田畑勝手作禁止令」が出されていた |
9/13 | 日清修好条規(※5) ※欧米と不平等条約を結んでいる国どうしによる対等条約 |
9/21 | 大久保利通、鉄道試乗 「始めて蒸汽車に乗候処、実に百聞一見にしかず。愉快に堪ず。この便を起こさずんば、必ず国を起こすことは能はざるべし」 |
10/8 | 岩倉具視らの欧米回覧使節派遣決定 |
11/3 | 欧米回覧使節出航(※4) ※津田梅子ら米国留学 |
11/8 | 琉球漂流民殺害事件(※5) ※台湾に漂着した琉球民が現地人により殺害 ※清国は台湾を「化外の地」と表現、賠償に応じず |
11/13 | 県を統合(~11/22)(※6) ※1使3府72県となる |
12/18 | 華族・士族・卒(下級武士)に職業選択の自由を認める(※7) |
(※1)新貨条例
資本主義の発展のためには、貨幣・金融制度の確立がどうしても必要であった。これまで、一般の鋳貨のほか、藩札・外国貨幣などきわめて数多くの種類が流通しており、さらに財政難のため不換紙幣たる太政官札・民部省札などもしきりに発行され、混乱をもたらしていた。
「詳説日本史研究」p337-8
これらを整理するため、まず1871年、伊藤博文の建議によって新貨条例を公布して、金・銀・銅の新貨幣を造幣寮(のち造幣局)で鋳造し、金本位制を定め、円・銭・厘の十進法を採用した。
建前は金本位制であったが、貿易上では主に銀貨が通用していたので、事実上は金銀複本位制であった。
そのうえ、1878年には銀貨の通用制限が撤廃されたので、実質的には銀本位制となった。
また1872年には太政官札などの不換紙幣と引き換えるために、新しい政府紙幣を発行したが、これもまた不換紙幣であった。
ま、全部が全部悪いものじゃないですよ。
ただ、不換紙幣が増えすぎるとインフレ(物価上昇)となりますので、調整が必要なんです。
しかし、諸藩領では藩札に圧倒されて全く流通していませんでした。
そのため統一的な通貨が急務でした。
そのため、事実上は金銀複本位制という状態にとどまりました…
金兌換制をとる4つの国立銀行を開業させるのですが…
(※2)廃藩置県
農民一揆高揚後、政府は強力な中央集権体制の確立をめざして廃藩置県を断行した。政府は暴動が起こることを予想し、薩長土3藩兵を「御親兵」として東京に集結させてからこれを布告した。激しい一揆や財政破綻に苦しんでいた諸藩は、大きな抵抗もなくこれを受け入れた。以後、地租改正など中央集権化が進められていく。
「日本史のライブラリー」p211
同時に、これまでの知藩事を罷免して東京に住まわせることにし、新しく政府の官吏を派遣して県知事(のち、いったん県令と改称)に任命した。(中略)ここに幕藩体制はまったく解体され、全国は政府の直接統治のもとにおかれることになったのである。
「詳説日本史研究」p332
1868年閏4月の政体書で太政官制に。当初は七官制+府藩県三治制がとられ、
1869年7月の版籍奉還後に「二官六省制」となり神祇官・太政官がトップに、
1871年7月の廃藩置県後に「三院制」。
そして、1885年12月に内閣制度が形成される。
しょうがない、花火でも打ち上げてやるーっ。