~只今、全面改訂中~

(※5)琉球漂流民殺害事件

清国に対して、日本は1871年、日清修好条規・通称章程などを結んだ。

同年、台湾に漂着した50名余りの琉球民が原住民に殺される事件がおこった。

清国は、台湾の先住民を「化外の民」として、漂流民保護の責任をとろうとしなかったので、事件の処理をめぐって交渉は難航し、1874年、日本政府は西郷従道(1843-1902)のもとに軍隊を台湾に派遣した(台湾出兵)

「詳説日本史研究」p345-6
「日清修好条規」は、伊達宗城と李鴻章が全権でした。


相互に領事裁判権と協定関税、自由貿易を認めました。

また、両国の領土保全と相互援助も締約します。

ただ、この批准交換が行われたとき(1873年3月)、琉球島民殺害事件の話を持ち出しました

琉球島民殺害事件は、台湾に66人の琉球島民が漂着して、うち54人が原住民の高山族に殺された事件です。

この事件が鹿児島県に伝わったのは翌年(1872年)7月。

そして、10月に琉球国王尚泰を琉球藩王に封じるのです。

これで、琉球王国を日本の領土に編入しました。

また、鹿児島県関係者を含め政府一部はこの事件を利用して台湾に軍事的介入を果たしたい、と考えました。
外務卿副島種臣どの(佐賀藩出身)と外務省顧問のル=ジャンドル(アメリカ)は、「台湾半分領有」を掲げるなどかなりの強硬策でしたな。

もちろん政府内部には反対もごわしたよ。
その批准交換の席で、日本側が台湾問題を追求したとき、「台湾原住民は化外の民であるから統治していない」という文言を引き出すわけです。

日本としては「化外の民」なら日本が独自に処置しても構わないだろう、という論理です。

そして、1874年の台湾出兵へつながります。
同時期、進展しない朝鮮との交渉に武力行使を用いようという意見も出はじめていたんですね。

ただ、朝鮮は清王朝に服従していたので、清王朝と「日清修好条規」(対等条約)を結べば、朝鮮は日本の下になるので、交渉も進展するのではと考えました。

ところが、朝鮮は態度が相変わらずだったので征韓論が生まれるわけですね。

不平士族の仕事口という面もありまして、これで国内問題も解決できるかと考えるのです。

(※6)府県制の実施過程

まとめ年表

1868政体書により、府藩県三治制

※幕府直轄地は府、旧幕領・旗本領は県に。藩は諸大名が統制。
1869版籍奉還。藩主を知藩事に任命。

※開拓使を設置。蝦夷地は北海道と改称。
1871廃藩置県。1使3府302県に。知藩事は免官、府知事・県令を派遣。

※11月に302県から72県に。
※琉球は除く。
1878地方三新法
1879琉球処分

※沖縄県設置
1882開拓使廃止

※札幌、函館、根室の3県に
1886札幌、函館、根室の3県廃し、北海道庁設置
1888市制・町村制公布
1道3府43県に(以後変化なし)
1890府県制・郡制公布。地方自治確立。
ちなみに、「府」とは首都の代替になりうる、という意味があります。

(※7)四民平等

…大名・公家を華族、一般武士を士族、農工商ら庶民を平民に改めた。そして1871年には、いわゆる解放令を布告して、これまでのえた・非人の呼称を廃止して、身分・職業とも、すべて平民と同じにした。さらに四民平等の立場から、平民に苗字をつけることを公認し、平民と華士族との結婚、職業の選択や移転・居住の自由も認められた。

「詳説日本史研究」p335
しかし、身分解放令に見合うだけの十分な施策はなく、差別は続くのである。
えたの方々はそれまで従事していた皮革業が自由化されたことでその特権を失ってしまい、かえって生活苦に陥ったというケースもあります。
兵役も嫌じゃー、勉強も嫌じゃー。
next:1872年に徴兵告諭が制定されました。