~「もう一つ上の日本史」出版に伴い、勉強方法も変える必要が出たので、全面改訂突入します~

何気なく使っている「~である」という言葉が、言文一致を達成する重要な言葉だったとは。「日本語の歴史」を知ることで、日本語に対して敏感になることができた。

§5.言文一致をもとめるー明治時代以後

<「話し言葉」すら統一が難しかった>

★ルネサンス以後、西洋諸国は話し言葉と書き言葉を一致させる(言文一致)努力をしてきた。ところが、日本は言文不一致。

「これでは日本はダメだ」、となったのが、幕末である

しかし、「話し言葉」すら各藩で違う。江戸語を基準にするのか、薩長を基準にするのか、そこから既に苦難が始まった。

★多くの知識人たちは「べえべえ」ではない、

「武士や知識人たち」が使っていた言葉こそ「標準語」にふさわしい

と主張した。

ただ、結局、その意見が全国的に認められたと言えるのは1913年(大正2年)頃と言える。明治政府になってすぐにとはならなかったところに、この問題の難しさが見て取れる。

<「言文一致運動」の開始>

★話し言葉と書き言葉が最も近かったのは平安時代であるというが、なぜ「言文不一致」となるのか。理由は、

話し言葉が変化していくのに対して、書き言葉はなかなか変化しないからである。

江戸時代になるとその差は絶望的なほど離れていた。

せめて会話文だけでも自分たちの話し言葉にしようとしたのが洒落本や滑稽本、人情本であった。

しかし、それでも会話文だけであり、地の分は文語文であった。

★これほど言文が乖離していては国民全員にものを伝えることができないと危機感を抱く人々もいた。

「漢字を廃止すべき」とした前島密

「日本語をローマ字表記にしよう」とした西周

「漢字を2000~3000程度にしよう」とした福沢諭吉、などなど。

ちなみに、現在の常用漢字は1945字。当時、いかに漢字が多かったのかがわかるであろう。

★有名な「五箇条のご誓文」は公用文を漢字カナ交じり文で書かれた。「広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決スベシ」である。「万機」「公論」など、書き言葉でしか使わないような漢語はたくさん使われているとはいえ、これは画期的なことであった。エリートは漢文を読めたが、エリートにだけわかる文章では近代国家は実現しないということを政府は十分に承知していた。

★しかし、言文一致運動は明治11年頃には暗礁に乗り上げる。

これには

①人々がまだ江戸時代の身分意識から離れなかったこと、
文末の表現方法など言文一致がそもそも難しかったこと

が理由として考えられる。

<新漢語>

★また、西洋語が怒涛の如く押し寄せた。

ここでも西周らが活躍して、漢語を新たに作っていった。

「衛生学」「幾何学」「心理学」「会社」「価値」「広告」「必要」「哲学」など、当時造られ、現在でも使われているものも多い。中国に輸出された<新漢語>も少なくない。

★なぜ和語で翻訳語を造らなかったのかというと、

①当時のエリートたちは主に漢学を教養として身につけており、漢語の方が身近であったこと、

②和語よりも漢語の方が客観的・中性的な感じがして、翻訳語になりやすかったこと、

③和語で翻訳すると長くなってしまうこと、
などが挙げられる。

<明治16年からの言文一致運動>

★さて、西洋の書物であるが、これは漢文を直訳したような「文語文」で翻訳された。このような流れで言文一致運動は消え行くように見えたが、明治16年(1883年)、「かなのくわい」が結成。

言文一致運動が再始動する。

★洋学者たちは明治18年に「羅馬字会(ローマじかい)」を設立。

ただ、機関紙ですら漢文直訳調のものをローマ字にしただけのものであり、これに耐えかねた東京大学博言学講師のチェンバレンは「難解な漢語を廃すべし」と主張。

そこで「であります」調のローマ字文が増えた。

★これらに連動して文学界でも動きがあった。

代表は二葉亭四迷。坪内逍遥の勧めで落語調を取り入れることで言文一致を実現させた。代表作は「浮雲」(明治20年)。ロシア文学を翻訳した「あひびき」(明治21年)も名訳の誉れが高い。

★しかし、再び言文一致運動は暗礁に。

理由は幸田露伴であり、森鴎外。幸田露伴は「風流仏」(明治22年)を西鶴流の雅俗折衷体で書き、高い評価を得た。さらに、明治23年、森鴎外は「舞姫」を雅文体で書いて、同じく高い評価を得た。

これらの華麗な美文の前ではどうしても言文一致体は色あせて見える。二葉亭四迷は筆を折り、同じく言文一致運動を行っていた山田美妙も飽きられてしまった。

★続いて、「普通文」が台頭。

「普通文」とは漢字かな交じり文で書かれる一種の文語文である。福沢諭吉の流れを引くものであり、西周もこの路線に乗っていた。新聞・教科書も「普通文」で記されるようになった。

<明治24年からの言文一致運動>

★この言文一致運動の停滞を打破した救世主は尾崎紅葉である。

文語文ではどうしても会話文が地の文と調和しない。そのため、明治24年より言文一致を採用した。紅葉の「である」口調は田山花袋、島崎藤村、泉鏡花などに影響を与えた。

尾崎紅葉。写真はwikipediaより。1868-1903。その生涯は35年と短かった。代表作は「金色夜叉」(1897~)。1885年、硯友社を創立して「我楽多文庫」発刊。同世代である幸田露伴とともに「紅露時代」ともてはやされた。山田美妙、夏目漱石もみな1867-68年生まれと同世代。森鴎外は1862年生まれでちょっと上。

★それまで用いられていたのは「でございます」「であります」「です」「だ」といった読み手に直接働きかける言葉であったが、客観的に話したいときには「である」が向いている。

(例:「彼はあの人が好きです」→「彼はあの人が好きである」とすることで客観性が出る)

「である」の登場は言文一致運動において画期的なことであった

★1900年(明治33年)、帝国教育会内に「言文一致会」が設立されて、翌年には「言文一致の実行に就ての請願」が貴族院、衆議院で可決。

明治36年の国定教科書「尋常小学読本」では口語文が多く含まれるようになった。

新聞は大正10年(1921年)にようやく東京日日新聞、読売新聞が、翌1922年に朝日新聞が口語体に。

官公庁などの公用文が言文一致を採用したのは昭和20年(1945年)、敗戦後。

★現在、我々は言文一致体を自由に使っているが、言文一致運動のおかげで文章に個性が出せるようになった。

終章.日本語をいつくしむ

最もすばらしい過去からの贈り物は日本語の文章だ

・語と語の間を切らずに書ける。(世界でも珍しい)

・言文一致のため、思いをストレートに表現できる。(しかし、油断すると乖離が生じる)

・漢字により微妙な意味の差も表現できる。

(「泣く」「鳴く」「啼く」など)

一方、知識があっても漢字が読めないという事態も生じる。

(「幸子」という簡単な名前すら「ゆきこ」か「さちこ」で悩む。)

※「識字率が高いのに読めない漢字が多い、名前すら読めない」理由を外国人に尋ねられて説明するのは非常に難しい。昨今の「きらきらネーム」がさらにそれを助長している。

・語彙が潤沢。

(「やどや」「ホテル」「旅館」と少しずつ意味が違う。)

しかし、そのせいで日本語は1000語覚えたところで6割しか理解できないという。一方、英語は1000語覚えれば8割。

さらに漢語を造り過ぎて同音異義語が多すぎる

(「公園」「口演」「後援」「公演」「好演」などなど)

★増え続けるカタカナ語をどうするか、という問題もある。

「イノベーション」→「技術革新」など言い換えもされるが、それにより余計、漢語も増える。カタカナ語はカタカナ語のまま使うので良いと思う。

★日本語をあいまいな文章と言う人もいるが、そうではない。ただ、日本人が論理的に話を進める訓練をしていないだけである

アメリカ人だって小学校から訓練しているから論理的に話を進めて議論をすることができる。日本も今後はそういったトレーニングが必要であろう。(日本語のせいにしては先祖に申し訳が立たない。)

♨これには激しく同意。日本語でも論理的な文章は書ける。日本語が悪いのではない。

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【終】

【追記】安倍さんがなぜ不人気か

「緊急事態宣言」を聞いたが、まあ、ひどい。

やたら「削減」と言う言葉を使うんだけど、「削減」って言葉は話し言葉では普通出てこない。

これは、書き言葉。しかもお役所の。

書き言葉で話しても国民に伝わらないだろう、と考えたのが明治政府じゃなかったっけ。

誰かそういうこと教えてあげれなかったのか。

マスクの受注先が麻生さんの会社とかいうのはどうしようもないレベルだけど、

不人気の理由がよくわかった。

良い時期もあったのかも知れないけど、ちょっと長くやりすぎた。

身内の垢を落とせなかったのは痛い。(麻生さんは遠戚。空気の読めない奥さんは論外。)