~只今、全面改訂中~

こんにちは。

今回ご紹介しますのは、「幕末年表㉕:1868年2月」です。

東征軍の前に、徳川慶喜はひたすら恭順の意を示し、江戸城を出て寺に籠もりました。

一方、近畿地方では前月の「神戸事件」につづき、「堺事件」「パークス襲撃事件」という2つの攘夷事件も起こりました。

これらにより朝廷、および新政府は、諸外国に向けて「開国和親」の姿勢を打ち出します。

1868年(慶応4年)2月

2/9有栖川宮熾仁親王、東征大総督に任命される
2/12徳川慶喜、寛永寺に入り、恭順の意を示す
2/14東征軍、出陣

※先陣は板垣退助。
2/15堺事件(※1)

※土佐藩士によるフランス人水兵を殺害
※フランス人水兵は街で狼藉を働いた
※土佐藩士たちが切腹することに
※森鴎外も「堺事件」のタイトルでこの事件を小説に書く
2/16松平容保、江戸を去る
2/23「彰義隊」結成
2/30パークス襲撃事件

※「最後の攘夷事件」とも言われる。
※護衛していた後藤象二郎らの活躍もありパークス一行は死傷者ナシ。
※朝廷、新政府の素早い謝罪対応もあり、英国はこの件を不問に。
※というより、戊辰戦争のために外国と争いたくなかった。
やがて志士たちの不満は新政府に向けられる。(→「士族の反乱」の遠因?)

(※1)堺事件

教科書で扱われることはないのですが、文豪・森鴎外が作品にしております。

森鴎外「堺事件」
https://www.aozora.gr.jp/cards/000129/files/2547.html

端的に説明いたしますと、

慶喜が大坂城から逃げたあと、大坂・兵庫・堺の幕府役人も姿を消しました。

そこで、新政府(朝廷)は、薩摩を大坂の、長州を兵庫の、土佐を堺の治安担当に命じました。

その堺で、フランス人が不法行為、および狼藉を働いておりました。

もとより土佐藩は神戸事件のあとにおきた「錦旗紛失事件」でフランス人に悪感情を抱いておりました。(そもそも当時、日本人全員が大なり小なり攘夷思想と考えて良いでしょう。)

その最中、相手からの発砲があり、警備を担当していた土佐藩士たちも一斉射撃で、フランス人を射殺した、という話です。

しかし、話のクライマックスはここからで、裁かれることになった土佐藩士たちは切腹することになりました。

この、あまりの切腹のすごさに、見ていたフランス人行使たちがおそれおののき、予定の人数を前に、切腹打ち切りになったほどだった、という話です。

武士とは何か、切腹とは何か、がよくわかりますね。
腸を引き出して見せつける…

日本人はここまでやるのか…

フランス人共聴け。

おれはうぬらのためには死なぬ。

皇国のために死ぬる。


日本男子の切腹を好く見て置け。
井伊直弼
かわいそうに。開国和親の方針なら最初からワシがそうしていただろうが。
攘夷も方便だってか?

最初からそうなら、あんなに無駄な血を流さずに済んだのに。

まずは戊辰戦争に注力するもんで外国と争っている場合ではない。
西郷隆盛
(いや、ホントに攘夷なんて口実でごわすよ…)
パークス
その後、よもや私を襲ってくるとはなぁ。

私を襲った件はナシにしてやるから、

その分、わかってんだろうなぁー。

2月30日の「パークス襲撃事件」後、パークスの要望で、新政府は「開国和親」の姿勢を翌月の「五榜の掲示」で、より鮮明に出すことになるのです。

「パークス襲撃事件」が「最後の攘夷事件」と言われております。

next:江戸城無血開城が決定。一方、朝廷は「五箇条の御誓文」で開国和親の方針を示しました。