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☞【南北朝時代第3期⑯:1383年】『前代未聞!後円融によるDV事件!』

こんにちは。

今回ご紹介しますのは、「南北朝時代第3期⑯:1383年」です。

前代未聞ですが、後円融上皇による妻へのDV事件が生じます。

その後、後円融は錯乱状態となり自殺する勢いでしたが、母の説得で正気を取り戻しました。

永徳3年/弘和3年(1383年)年表

1/14足利義満、「武家としてはじめて」源氏長者となる。

★源氏長者は伝統的に村上源氏が担っており、源頼朝ですら源氏長者ではなかった。

♨ちなみに、「源」は「姓」(=天皇からもらったもの)であって、「名字」(=自分でつけたもの)ではない。そう考えると、足利家がなぜ源氏に関係するかがわかりやすいかと。
1/16足利義満、淳和院別当奨学院別当を兼職

★両職は源氏長者が務めるものという認識が浸透していたが絶対条件ではない。
★いずれにしてもこれにより義満はさらに強い権力を得る。
1/29後円融上皇主催で御光厳上皇の命日の追善仏事が行われるも出席者なし

★公卿・殿上人は義満に睨まれるのを恐れて全員出席せず。
★タイミング的には院になった直後であるが、朝廷上層部が全員義満を選んだことで、後円融の院政は完全否定された。

♨もちろん義満が廷臣に出席するように言えば出席したであろう。しかし、それをしなかった。
2/1後円融上皇、DV事件

★夜、後円融が厳子を風呂場に呼ぶ。しかし、厳子は湯巻と袴が手元にないことを理由に現れず。(身体を洗う時に衣服が汚れないように上半身は湯巻という白い衣服で覆い、下半身は袴を穿くのが通常であった)
★すると、後円融は逆上し、厳子の部屋に乱入して、刀の峰で厳子を滅多打ちにした。
★厳子は出血多量の重傷を負い、意識不明となる。
2/2厳子、御所を脱出

★後円融の生母である広橋仲子が御所を訪れ、後円融に酒を飲ませている間に厳子を脱出させる。
2/9後円融、丹波へ没落するという噂が立つ

★後円融、天皇直轄領の丹波国山国荘へ没落するという噂が立つ。
★義満から連絡を受けた仲子が再び御所に駆けつけて、なんとか制止。
★義満は北山にある仲子の邸宅へ連れて帰り落ちかせることを提案。
★後円融は京都にいると後鳥羽上皇や後醍醐天皇のように自分の身に危害が及ぶと思っていたようだ。
2/11後円融、寵愛していた按察局(橘知繁娘)を出家させて追放する

★義満との密通を疑ったため。
★後円融は被害妄想に襲われており、自分の大事なものが次々に奪われ、最後は命を奪われると思っていた。
2/15後円融上皇、切腹すると宣言

★義満が後円融を流罪にして京都から追放するという噂が後円融の耳に入った
★そのため、御所を訪れた義満の使者を流罪を告げる使者と思い込み、持仏堂に立て籠もって、切腹すると宣言。
★結局、仲子の取りなしがあって気を静め、使者には会ったが追い返した。
2/16後円融上皇、母の邸宅へ

★夜、後円融は母の仲子に伴われつつ、北山の梅町殿(梅松殿)に移る。
★すると次第におとなしくなる。
3/1義満、按察局との密通を否定する文書を届ける

★義満は「絶対に按察局と密通していません」と誓う誓文を届け、後円融は受け入れた。
3/3後円融、義満と同じ車で京都に戻る

★後円融、義満と同じ車に乗って、新居となる小河殿(勧修寺家の邸宅)に遷幸。
★ちなみに、義満も後円融も当時24歳。
3/27懐良親王(55、病死

★懐良親王:領地なしの状態から一時期は九州を統一する勢いだった傑物であった。懐良親王の活躍こそが中央の南朝の望みでもあり、懐良親王は九州から四国をおさえて中央へ進出する策も模索していた。
★また、明との国交という事実は大きく、以後、足利義満が明から日本国王として認められるまで30年を要した。明との関係においては、倭寇を取り締まるように叱責する明に対して強めの返答をしたことで洪武帝は懐良親王、ひいては日本に攻め込むことも考えるほどであった。元寇の例があったため中止したが、このように懐良親王が一方的に明に隷属したわけではない。
★征西将軍の座は1374年から甥にあたる後村上天皇第6皇子の良成親王が継いで活動を続けていたが、思わしくない戦況であったため懐良親王と良成親王の関係も決して良くはなかった。
3/28院評定開催

★後円融は政務に戻る。
★しかし、この10年後、34歳の若さでひっそりと逝去する。
4/相良実頼、南朝に帰順

★九州における南朝衰退を憂いた相良実頼が突如、南朝に帰順。今川より対抗の軍が送られるもこれらを撃破し、南朝が活気づいた。

♨のちに相良氏は戦国大名家となる。お家騒動や、島津氏の圧力などを経ながらも、明治時代になっても華族として存続する。
5/28後円融上皇・二条良基・足利義満の三者で酒宴が開かれ、関係修復が図られる

★義満が崇光上皇の院政を阻止すべく院政を支える羽林家の廷臣を自らに取り込んだ結果、後円融の近臣集団も解体されてしまっていた。
★そのため義満は、事件後に後円融院政の仕切り直しを行うべく、新たに勧修寺経重を中心に新たな近臣層を形成してあげた。
6/26足利義満、准三后を得る

★後円融は理性を取り戻すと、なんだかんだで救ってくれた義満への感謝で准三后を宣下
★公武の一体化がますます進む
★愛妾を差し出す公家も現れる

※准三后…皇后、皇太后、太閤皇后に準じる。
-/-細川頼元、摂津守護に復帰

★摂津はのちに日明貿易の拠点となるなど重要な位置を占める。
★細川頼元は1374年から1379年まで守護であったが、自身の南朝との戦いにおける敗北および、康暦の政変による兄・細川頼之の失脚により山名氏清に代わっていた。

♨細川頼元のひ孫が「細川勝元」、山名氏清の娘が「山名宗全」の母親であった(つまり山名氏清の孫が山名宗全)。子孫が「応仁の乱」に至るがこの時代から細川頼元と山名氏清の間には「因縁」めいたものがある。
11/-長慶天皇、この頃、弟の後亀山天皇に譲位

★すでに北朝との間には圧倒的な差が生じており、そこに和平派の後亀山天皇が就任したことで、南北朝合一に進んでいく。
★一方、長慶天皇はこの間に南朝再興に向けて各地を巡ったという伝説も。
後円融上皇
おーい、厳子。

こっちへ来いー。

三条厳子
ごめーん、今、ちょっと無理ー
後円融上皇
……。
三条厳子
え、え、え、何??
後円融上皇
ううう、、お前なんか、お前なんか…!!!
三条厳子
ぎょええええええー、こわいこわい、

ころされるーーーーっ!!

 
足利義満
やれやれ、ついに壊れてしまいましたか

これから後処理しますが、もう後円融はダメでしょうな…

懐良親王
思えば波乱万丈だった

もう1度、南朝の再興を見たかったが無念じゃ