~「もう一つ上の日本史」出版に伴い、勉強方法も変える必要が出たので、全面改訂突入します~

☞【近現代史必読書!】『父が子に語る近現代史』(小島毅、2009年)読書メモ①:幕末から明治維新まで

以下、読書メモと随想(♨)。

何のための日本史?

★外国人とコミュニケーションをとる必要が生じているからこそ日本史を学ぶ必要がある。

他者の視線への配慮

バブル崩壊で自信を失ってから、「日本はすごいんだ」的な言説が増えた(※)。

しかし、それは他国には通用しない。

昔と国境が大きく変わってしまっているような国の人にも日本の良さを主張できるか?

※この意見には反論もあり。

江戸の2つの歴史意識

★「尊皇攘夷」がいかにモノを知らない人間の考えであったことか。

近松門左衛門の芝居や本居宣長の本にも「だから日本は素晴らしい」といったものがある。【コチラも

★これまでそういうのは公家や僧侶の見解であったが、江戸時代にはこういう考えが草の根レベルに広がっていた。

武士は武士で沿岸に来る西洋諸国を脅威に思い、日本の歴史を美化する運動が起きていた

世襲支える「忠義」の理屈

★1701年、赤穂事件。

幕府は赤穂浪士たちに切腹を命じたが、二律背反を抱えていた。

なぜなら彼らが大事にしていたのが、「忠義」である。

それこそが凡庸な人物でも権力を世襲できる概念であったからだ。

  • 仮名手本忠臣蔵はなんで仮名手本というかというと、赤穂浪士が全員で47人でカナ文字の数と一致したから。
  • もともと「忠」は「他者に誠実な心」という意味だったが、その対象はもっぱら「君主」となってしまった。江戸時代に幕府が旗本や御家人に求めたのは「義」と合わせての「忠義」。

定信の画期的教育行政

★武士は学問をする必要はなかったが、定信は漢文の素養と朱子学の理解を旗本御家人の子弟にテストして優秀者を身分にかかわらず抜擢した(「学問吟味」)。

役職が世襲で決まっていた江戸幕府においてわずかではあるが大きな変化。

  • 当時、東アジアは朱子学全盛。日本ではそれにやや批判的な荻生徂徠派が盛ん。朱子学は孟子の性善説を継承し、個々人の道徳性を高めることを目標。徂徠はむしろ荀子の性悪説で、道徳性に頼るのではなくきちんとした制度や仕組みを打ち立てることを主張。(→そのために、古代中国の言葉から学ぶべきという発想で古文辞学をうちたてる)
  • 松平定信は荻生徂徠学の追放を目指す。これが「寛政異学の禁」(※子供が学ぶのが禁止)。しかし、どうも個人的には惹かれていたらしい。

武士道の成立と幕府の誤算

★松平定信は武芸の中にも精神性を求めて「武士道」というものが成立。この頃になると赤穂浪士は英雄に。

★また、朱子学を知ることで徳川幕府よりも上位のものの存在を知ることになる。実際に水戸藩や長州藩は直接朝廷から命令を仰ぐように。

  • 親子の仁、君臣の義、夫婦の別、長幼の序、朋友の信。
  • 朱子学と陽明学は対立するように書かれるがそもそも近い。読書を重視する朱子学に対して、陽明学はいざと言う時にも動じない心を持つことを重視。新渡戸は禅、陽明学、神道が武士道のベースと言う。
  • やはり鎌倉時代の武士とは全く違う。江戸時代は安定が前提。
  • 17世紀の幕府の御用学者が最初に言い出した。これにより幕府を権威づけようと思ったが、逆効果。定信の「大政委任論」も然り。

教育熱

★1789年、松平定信は「尊号一件」で光格天皇の父親に太上天皇の尊号を贈ることを拒否。

  •  家斉と定信は意見が対立。これが定信が老中をやめる一因とも。いずれにしても幕府と朝廷が対立。
  • 定信の後を継いだ松平信明(のぶあきら)は3年の離職期を除いて30年に渡り老中をつとめた。
  • 滝沢馬琴が活躍したのもこの時期であるが、8つの玉に込めてちゃっかり儒教の思想教育も入れている。彼の基本コンセプトは勧善懲悪。
  • 平田篤胤の本は草の根レベルで国学の普及に関与。
  • 藩校は18世紀末から増え始め、19世紀半ばに急速に増える。寺子屋は農民や町民のもので、19世紀の日本の教育水準は世界トップレベルであったとも。大英帝国は庶民の教育などなかった。ただ、この時期の日本の教育熱の原因はまだ解明途上。

清朝の衰退

★イギリスのアヘン戦争はギリギリ議会で採決されたもの。対して清は挙国一致にはほど遠い有様。南京占領後の洪秀全はこれまでの皇帝と同じような豪奢な生活に浸ったテロリスト。1864年、死亡。

  • 乾隆帝時代にも白蓮教徒の乱はあった。

♨その前に、国家財政15年分を使い込んだ役人やつとかもいたよね。

幕末動乱早わかり

武士道精神を身に付けたはずの人たちが背信行為、謀略に明け暮れるのが幕末

桜田門外の変で失墜した権威を、公武合体で取り戻そうとするが、坂下門外の変が起きる。

そこで孝明天皇のもと、慶喜を後見職とした新体制となるが、長州藩が朝廷を通じて家茂に攘夷を約束させるなどきな臭い。

ここで禁門の変が起き、長州は退けられる。

さらに幕府は長州征伐を試みるが、長州藩内で攘夷派が粛清され、本格的な戦闘は回避される。

→木戸孝允、大村益次郎などにより政権交代。攘夷は諦め倒幕に狙いを定める

→第2次長州征討が始まるが薩摩と長州は盟約を結ぶ。家茂は病死、慶喜は攻撃取りやめ、孝明天皇急逝、岩倉具視の台頭となる。

→慶喜は大政奉還。鳥羽伏見の戦となるが、慶喜は江戸に帰ってしまう。 尊王といいながら天皇の意向に逆らったり、捏造したり。

吉田松蔭・久坂玄瑞・坂本龍馬

★吉田松蔭の良かったのは松下村塾での教育であるが、高杉晋作、久坂玄瑞はいいとして、伊藤博文、山縣有朋ら末端がその理想を受け継いだかどうかは怪しい。いずれにしても松蔭、久坂、龍馬は靖国神社へ。

  •  吉田松蔭。山鹿流は山鹿素行の流れである兵学。大石内蔵助も同じ流派。松蔭は山鹿流は時代遅れと思って、蘭学者佐久間象山のもとへ。その後、無断で水戸や会津に旅行して武士身分剥脱。さらにペリーの船に乗ろうとして送還。入牢。その後、松下村塾を継ぐが、開国に憤慨し老中暗殺を計画。周囲の反対で未遂に終わるも、藩に自首して再び入獄。安政の大獄で斬首。 ♨松蔭は妹を久坂と結婚させるほど将来を嘱望。もっともイギリス公使館焼打ちなど、やることは過激テロリストではあったが。しかし、久坂以外が開国派に転じるなか、筋金入りの攘夷である久坂が生きていたらどうなっていただろうか?
  • 坂本龍馬はそもそも日露戦争の日本海海戦の直前に皇后の夢に出てきて有名に。

井伊直弼・近藤勇・篠田儀三郎ー祀られぬ人々

井伊直弼の決断が間違っていなかったことはその後の明治維新の文明開化路線からも明らか19世紀風の武士道をしっかり身に付けた近藤勇は与えられた職務を忠実にまっとうしようとしたがために悲劇的な最期を迎えることとなった。 殿様が京都守護職であったために会津藩は追い詰められ、白虎隊の悲劇を生んだ。 彼らも立派な国事殉難者と思うが靖国の英霊ではない。(ちなみに西郷隆盛も大久保利通も) 。

  • 直弼の墓は松蔭神社(世田谷)のそばの豪徳寺に。
  • 松平容保はもと尾張高須藩主の出身で慶喜とは親戚。
  • ♨容保、慶喜、慶勝の関係は?→慶勝の弟が容保。慶勝と慶喜は母方の従兄弟。 ※ちなみに桑名の松平定敬は容保の弟。

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