こんにちは。
本日ご紹介するのは『父が子に語る近現代史』。
2019年に文庫本化されました。
明治維新から日露戦争までを紹介したいと思います。
夏目漱石の言葉とか刺さるものがありますね・・・。
新政府の制度と語彙
★版籍奉還で、藩主は改めて知藩事に任命されたが、1871年の廃藩置県では中央から知事がきた。
★当初は律令制度の微調整による官僚機構であったが、過度な中央集権政策への不満が自由民権運動につながり、政府側も憲法制作のために内閣を設けることになった。これが1885年。しかし実際はほぼ薩長政権。
★1889年、大日本帝国憲法。
★1890年、教育勅語。教育勅語は天皇(実質はその名をかたる政府)が臣民たちを導く、という体制を作ったという点で重要。戦後、憲法より先に廃止されたのは軍国主義と結びついているとGHQが判断したから。
※「忠君愛国」が戦前の日本の対外侵略を正当化する論理として使われたことの意味を認識しなくてはいけない。
岩倉使節団と教育改革の重視
事務方の一員だった久米邦武は、事実に基づいた歴史の編纂を企てたが、保守層から嫌われる。
【久米邦武】
神道としてありがたがっているものも、
「世界中どこにでも見られる太古の素朴な信仰形態に過ぎない」
と論文で喝破したことで東京大学を追われる。
儒学や国学による観念的な歴史認識を正そうとした。
★久米邦武は早稲田大学へ。早稲田からはのちに津田左右吉が出る。
【津田左右吉】
記紀神話を実証的に解体・批判し、不敬罪。
※「学問、言論」の自由は、それにより「自分たちが信じたい偶像」を脅かされる人たちにより、古来よりさまざまな弾圧が加えられてきた。
使節団がもう少し早ければ、1870年代前半の諸外国の変革を見ることはできなかった。
★使節団が派遣された時期はアメリカも激動の時期。
南北戦争が終わり、黒人初の上院議員誕生(1870年)。
ネイティヴ・アメリカンとは戦争中(1876年にはカスター連隊全滅)。
1867年のアラスカ買収、1869年の大陸横断鉄道開通などで西部開拓が本格化。
★一方、イタリアとドイツが統一国家となるのもこの時期。
1861年イタリア王国成立、1870年、統一イタリア誕生。
1871年、普仏戦争のにちにドイツ皇帝誕生。
ドイツ統一は岩倉使節団に大きな印象を与えた。
★ロシアは1858年のアイグン条約、1860年の北京条約で中国からシベリア東部、沿海州を獲得。
アメリカ大陸ではなく、ユーラシア大陸国家となる意思を示す。
使節団は帰国後、樺太千島交換条約を結ぶ。
国内では専制政治に対する不満あり、アレクサンドル2世は1881年に暗殺。
★イギリス、フランスでも選挙法改革。
イギリスでは労働組合法、教育法などもできる。
フランスでは第3共和政が成立するが、「パリ=コミューン」と呼ばれる労働者の自治政府が成立して対立。
★因みに使節団には津田梅子も帯同。
明治維新が高く評価される点としては、教育を重視した点。
明治政府の初等教育政策としては1872年に「学制」、1879年に「教育令」。
教育制度改革ができたのは江戸時代後半の恩恵。
民間側にも西洋風の教育を受けたいと言う欲求があった。
昌平坂学問所を切った東京大学
★大阪大学は懐徳堂(正当な朱子学。反荻生徂徠。)と適塾(緒方洪庵の私塾で西洋学問を導入。)を源流としている。
★一方、東京大学は意図的に昌平坂学問所(儒教)と断絶している。
これは西洋の学術を移入することを目的として作られたためであり、法学、西洋医学、工学を重視するためでもある。
欧州でもアジアでもイスラムでも大学の中核は人文学で、技術的なものは徒弟制度の中で教わるものであった。
(人文学あってこそ、成功してきた部分があるというのに断絶するとは・・・。)
※当時の教師の収入は相対的に高かった。教育に力を注ぐなら現在の教師の給与も高めるべき。
チェンバレンとモースの見た日本
日本に来たお雇い外国人により「日本」が世界に紹介される。
- チェンバレン(イギリス人)1873年、23歳で来日。東京大学で言語学を教え、30年近く日本で暮らす。「日本事物誌」を発刊。日本人の「当たり前」の日常を書く。算盤と公衆の面前での行水には驚いたよう。
- モース(アメリカ人)39歳で来日、3か月後に大森貝塚発見。東大で進化論を授業。6年間滞在。「日本その日その日」を発刊。お歯黒を3,4日に1度するのに驚き。
- 当時の学生は英語。彼らが英語を日本語に訳して日本人向けに伝達したからこそ今がある。
窮余の太陽暦採用
★太陽暦になったのは1873年。幕府の財政を担っていた大隈重信は19年に7回ある「閏月」の廃止を行い、月給カット。混乱をきたすも押し通す。
- 江戸時代の渋川春海が貞享暦を定める。ただ、太陽だけではなく月の動きも活用して日付を決めているという点で古代中国と一緒。
- 中韓では数十年遅れて太陽暦になるが、ベトナムはいまだに旧暦で伝統的行事を行う。官公庁が休みになったりするのは旧暦の方。
- 正月は旧暦なら立春前後である。ひな祭りもまだ寒い時期、七夕は梅雨時に行われるようになってしまって風情がない。
鉄道物語
★1872年、はじめて鉄道が仮営業開始(品川~横浜)。その後30年で大きく進歩。他国の鉄道は郊外に出かけるためのものであるが、日本は早くから大都市内部の交通網として建設された。これに反比例して、船による水運は力を失う。
- 横浜独り勝ちであったが新幹線は直線でないと止まれないので小田原へ。しかしブレーキの進歩で止まれるようになり、新横浜駅が再び中心に。
- 1960年代と現代の横浜の光景を比べると横浜が鉄道によって栄えた町であることがよくわかる。
韓国問題と日清戦争
★明治維新後、日本は朝鮮に通交を求めるが拒絶。
朝鮮側から見れば、中国を中心とする国際秩序から勝手に抜け出し、西洋人のモノマネをはじめた日本に対して不信感をもっていたからであろう。
欧米こそ文明というのは明治政府の判断に過ぎない。
朝鮮は日本派と清派に分かれ、1894年、日清戦争につながる。
日露戦争は防衛戦争ではない
★司馬遼太郎の「朝鮮観」と「明治栄光論」は怪しい。
日清戦争はあくまでも朝鮮の利権をめぐる日清の争いであった。
この構図は日露戦争でも同じ。
初代統監府に伊藤博文が赴いていることから、朝鮮がいかに重要視されていたかがわかる。
暗殺により侵略が進み、1910年、日韓併合となる(※)。
- 中塚明「司馬遼太郎の歴史観」(2009年)…坂の上の雲で問題なのは、朝鮮の描き方ではなく、朝鮮を描かなかったこと。日清戦争の直接の原因となった東学党の乱とか触れていない。
漱石の憂鬱
★「三四郎」で三四郎が日露戦争後の日本を広田先生に尋ねる場面があるが、この時の先生の答えは「滅びるね」であった。
この予言は40年後的中する。
- 「三四郎」を書く時代になると、西洋流近代国家成立を醒めた目で見る高等遊民的な人物が出現してくる。これは知識人の誕生でもある。
- 漱石を近代小説の開祖のような扱いをする人たちがいるが、彼自身は江戸時代の芝居の影響を強く受けている。森鷗外もしかり。
- 漱石が活躍したのは日露戦争から第1次世界大戦までの10年ほどだが、転換期を象徴する時代でもあった。この10年で日本人の精神構造は大きく変わる。
人格の流行と国民文化の強調
★政府の命令で留学しながら、在野に下ることを選択した漱石は、
イギリスが世界の強国である根源的な理由は科学技術の優秀さや政治制度の合理性と言った表層的な次元ではなく、根源的なところに正しい意味での個人主義が根付いていることだ
と喝破している。
軍医の道を選んだ森鷗外とは対照的である。