~「もう一つ上の日本史」出版に伴い、勉強方法も変える必要が出たので、全面改訂突入します~

☞【近現代史必読書!】『父が子に語る近現代史』(小島毅、2009年)読書メモ②:明治成立~日露戦争

①はコチラ。

新政府の制度と語彙

★1869年、五稜郭の戦が終わる。

★版籍奉還で、藩主は改めて知藩事に任命される。

★1871年に廃藩置県となり中央から知事がくる。

★当初は律令制度の微調整による官僚機構であったが、過度な中央集権政策への不満が自由民権運動につながり、政府側も憲法制作のために内閣を設けることに。これが1885年。ほぼ薩長政権。

最初、長州藩は政権に加入していない。

★1889年、大日本帝国憲法。

★1890年、教育勅語。教育勅語は天皇(実質はその名をかたる政府)が臣民たちを導く、という体制を作ったという点で重要。戦後、憲法より先に廃止されているのは軍国主義と結びついているとGHQが判断したから。

※「忠君愛国」が戦前の日本の対外侵略を正当化する論理として使われたことの意味を認識しなくてはいけない。 

岩倉使節団と教育改革の重視

★使節団がもう少し早ければ、1870年代前半までのさまざまな変革を見ることはできなかった。

事務方の一員だった久米邦武らは儒学や国学による観念的な歴史認識を正し、事実にもとづいた歴史の編纂を企てたが、保守的な人から嫌われることに。

【久米邦武】

神道としてありがたがっているものも、

「世界中どこにでも見られる太古の素朴な信仰形態に過ぎない」

と論文で喝破したことで東京大学を追われる

★明治政府の初等教育政策としては1872年に「学制」、1879年に「教育令」。

教育制度改革ができたのは江戸時代後半の恩恵。

民間側にも西洋風の教育を受けたいと言う欲求があった。

明治維新が高く評価される点としては、教育をきわめて重視したという点

★使節団が派遣された時期はアメリカも激動の時期。

南北戦争が終わり、黒人初の上院議員誕生(1870年)。

ネイティヴ・アメリカンとは戦争中(1876年にはカスター連隊全滅)。

1867年のアラスカ買収、1869年の大陸横断鉄道開通などで西部開拓が本格化。

★一方、イタリアとドイツが統一国家となるのもこの時期。

1861年イタリア王国成立、1870年、統一イタリア誕生。

1871年、普仏戦争のにちにドイツ皇帝誕生。

ドイツ統一は岩倉使節団に大きな印象を与えた。

★ロシアは1858年のアイグン条約、1860年の北京条約で中国からシベリア東部、沿海州を獲得。

アメリカ大陸ではなく、ユーラシア大陸国家となる意思を示す。

使節団帰国後、樺太千島交換条約。

国内では専制政治に対する不満あり、アレクサンドル2世は1881年に暗殺。

★イギリス、フランスでも選挙法改革。

イギリスでは労働組合法、教育法などもできる。

フランスでは第3共和政が成立するが、「パリ=コミューン」と呼ばれる労働者の自治政府が成立して対立。

久米邦武は早稲田大学へ。

早稲田からはのちに津田左右吉が出る。

【津田左右吉】

記紀神話を実証的に解体・批判し、不敬罪。

「学問、言論」の自由は、それにより「自分たちが信じたい偶像」を脅かされる人たちにより、古来よりさまざまな弾圧が加えられてきた。

♨「明治維新は正しかったか?」など当時なら口にできない。

★因みに使節団には津田梅子も帯同。

昌平坂学問所を切った東京大学

★大阪大学は懐徳堂(正当な朱子学。反荻生徂徠。)と適塾(緒方洪庵の私塾で西洋学問を導入。)という2つの学問を源流としている。

★一方、東京大学は意図的に昌平坂学問所(儒教)と断絶している。

これは西洋の学術を移入することを目的として作られたため。

法学、西洋医学、工学が重視。


★頼山陽も懐徳堂と交流。 福沢諭吉も適塾で学ぶ。

当時の教師の収入は高かった。今では相対的に低下してしまった。現在の教師の給与も高くしなければいけないと思う

一方、欧州でもアジアでもイスラムでももともとは人文学が中核で技術的なものは徒弟制度の中で教わるものであった。

文学部は被害を受けるが、人文学あってこそ、成功してきた部分があるというのに

チェンバレンとモースの見た日本

日本に来たお雇い外国人により「日本」が世界に紹介される。

  • チェンバレン(イギリス人)1873年、23歳で来日。東京大学で言語学を教え、30年近く日本で暮らす。「日本事物誌」を発刊。日本人の「当たり前」の日常を書く。算盤と公衆の面前での行水には驚いたよう。
  • モース(アメリカ人)39歳で来日、3か月後に大森貝塚発見。東大で進化論を授業。6年間滞在。「日本その日その日」を発刊。お歯黒を3,4日に1度するのに驚き。 
  • 当時の学生は英語。彼らが英語を日本語に訳して日本人向けに伝達したからこそ今がある。日本語で伝達することの重要性も大事と思う。文化の基礎は言語であるから。(※荻生徂徠の古文辞学ではないが。)  

窮余の太陽暦採用

★昔は寺の鐘で時刻を知った。太陽暦になったのは1873年。幕府の財政を担っていた大隈重信は19年に7回ある「閏月」の廃止を行い、月給を1回分カット。あわせて明治5年12月分もカット。いろいろ混乱をきたすも押し通す。

  • 江戸時代の渋川春海が貞享暦を定める。ただ、この頃は太陽だけではなく月の動きも活用して日付を決めているという点で古代中国と一緒。
  • 中韓では数十年遅れて太陽暦になるが、ベトナムとかはまだ旧暦で伝統的行事を行う。官公庁が休みになったり、華族で集まったりするのは旧暦の方。
  • 正月は旧暦なら立春前後である。ひな祭りもまだ寒い時期、七夕は梅雨時に行われるようになってしまって風情がない。 昔は鐘の音で決めるくらいだったからこそ地域が重要だったのかも知れないが、今はみな時計もっているのが普通。

鉄道物語

★1872年、はじめて鉄道が仮営業開始(品川~横浜)。その後30年で大きく進歩。他国の鉄道は郊外に出かけるためのものであるが、日本は早くから大都市内部の交通網として建設された。 これに反比例して、船による水運は力を失う。

  • 横浜独り勝ちであったが新幹線は直線でないと止まれないので小田原へ。しかしブレーキの進歩で止まれるようになり、新横浜駅が中心に。1960年代と現代の横浜の光景をみると横浜が港町であるとともに、鉄道によって栄えた町であることがよくわかる。

韓国問題と日清戦争

★明治維新後、日本は朝鮮に通交を求めるが拒絶。

これは朝鮮が頑固だった、とされているが、朝鮮側から見れば、中国を中心とする国際秩序から勝手に抜け出し、西洋人のモノマネをはじめた日本に対して不信感をもっていたからであろう。

欧米こそ文明というのは明治政府の判断に過ぎない。

1875年の江華島事件で日朝修好条規締結が結ばれるが、これは12年前にペリーがやったことと同じ手法。

朝鮮は日本派と清派に分かれ、1894年、日清戦争につながる。

朝鮮は独立国となり、台湾も日本の領土に。

ちょっと注意。下関条約で朝鮮が独立したわけではない。

  • 19世紀初めに幕府の財政悪化などで朝鮮通信使が廃絶していた。 征韓論という名前は三韓征伐からきている。

日露戦争は防衛戦争ではない

★司馬遼太郎の「朝鮮観」と「明治栄光論」は怪しい。

日清戦争はあくまでも朝鮮の利権をめぐる日清の争いであった

この構図は日露戦争でも同じ。

日露戦争最大の被害者は韓国(日清戦争後、大韓帝国に)である。

韓国は保護国化。

初代統監府に伊藤博文が赴いていることから、この地域がいかに重要視されていたか。

暗殺により侵略が進み、1910年、日韓併合となる(※)。

(※)日韓併合は諸説多過ぎ。とりあえず朝鮮人の寿命は伸びた。

こちらも文庫本化。感情論を廃した日韓併合の真実

  • 中塚明「司馬遼太郎の歴史観」(2009年)…坂の上の雲で問題なのは、朝鮮の描き方ではなく、朝鮮を描かなかったこと。日清戦争の直接の原因となった東学党の乱とか触れていない。 乃木希典を英雄にしたことが昭和の悲劇の原因、というのはまだ良いとしても。

 【東学党の乱は2回あった。

歴史に向き合うということ

★自虐史観なのか、自慰史観なのか。

日本がアジアでしてきたことを正当化する動きがあるが、植民地開発は日本にとって有益であったから植民地開発を行なったに過ぎない。

★日本が学校で武士道を教えたのは天皇に忠誠を尽くすことを刷り込むためである。

  • 第1次世界大戦、民族自決で多くの国家が成立。ドイツ、オーストリア、トルコは解体。韓国では三一独立運動、中国では五四運動。これはドイツがもっていた山東省の権益を日本が得ることへの反対。→満州事変→国際連盟脱退。

それでも他国の「ひどさ」も知らないと、って思うんだけど。

漱石の憂鬱

★「三四郎」で三四郎が日露戦争後の日本を広田先生に尋ねる場面があるが、この時の先生の答えは「滅びるね」であった

この予言は40年後的中する。

  • 「三四郎」を書く時代になると、西洋流近代国家成立を醒めた目で見る高等遊民的な人物が出現してくる。これは知識人の誕生でもある。
  • 漱石を近代小説の開祖のような扱いをする人たちがいるが、彼自身は江戸時代の芝居の影響を強く受けている。森鷗外もしかり。
  • 漱石が活躍したのは日露戦争から第1次世界大戦までの10年ほどだが、転換期を象徴する時代でもあった。この10年で日本人の精神構造は大きく変わる

人格の流行と国民文化の強調

★政府の命令で留学しながら、在野に下ることを選択した漱石の言おうとしたこととして、

イギリスが世界の強国である根源的な理由は科学技術の優秀さや政治制度の合理性と言った表層的な次元ではなく、根源的なところに正しい意味での個人主義が根付いていることだ

と漱石は喝破している。

この点で軍医の道を選んだ森鷗外とは対照的である。

  • 幕末の「国のため云々」から「人格」が取り入れられることに。
  • 和辻哲郎により道元が脚光。 飛鳥文化を絶賛する和辻と、飛鳥文化に低評価の津田左右吉であるが、「国民文化」というものを礼讃しているという点では一緒。
  • 漱石、鷗外は江戸後期の儒学教育の影響を受けているので、もうちょっと醒めた目で見るであろうが、和辻、津田の世代は欧米思想を最初から学んでいる世代。

③へつづく