こんにちは。
まず、今回ご紹介しますのは「1902年の日露関係」です。
実はニコライ2世は日本人を妻に娶りたいというくらい親日家でした。
しかし、1902年、ロシアが本格的に朝鮮支配を考えたそうです。
これには対日強硬派のアレクセイエフ(のち日露戦争でロシア軍全権)が強硬に主張したことも一因と考えられております。
目次
⑤ロシアが朝鮮半島を支配下に置くことを具体的に企図したのは1902年から(p106)
まずは当時の年表を。
日露関連年表 1898~1904年
1898年 | 西・ローゼン協定 これによりロシアは満州進出に力を入れる。 |
1899年 | 義和団事件 山東省から始まり、満州にも波及する。 各国は満州に派兵。(※満州には元々ロシア軍しか派兵していなかった。) ロシア軍の満州への増員を見て、日本は危機感を抱く。 ※義和団は帝国主義の象徴でもある鉄道と教会を破壊。 列強は日本に掃蕩を任せて、自分たちは掠奪に専心。 欧米外交官の中でも義和団に同情的な人々がいたほど。 |
1900年 | 満韓交換論 伊藤博文、井上馨らは満州をロシアに譲る代わりに韓国を日本にという「満韓交換論」を提唱。 しかし、山県有朋、桂太郎、小村寿太郎らがどうせすぐにロシアは放棄すると反対。「日英同盟論」を提唱。 |
1902年 | 日英同盟締結(1月) ロシアとの衝突は不可避と考えたため締結。【コチラも】 ※日英同盟後に満韓交換論が出たのではない。 ロシアとの戦争を回避しようとしていたわけでもない。 |
1902年 | エフゲニー・アレクセイエフが朝鮮半島進出を主張 ロシアでも「対日強硬論」と「対日融和論」に分かれた。 海軍出身のアレクセイエフは「朝鮮も支配下に置くべし」と主張した。 彼が極東総督に任じられてからは日本への要求が厳しくなる。 |
1904年2月4日 | 御前会議 日露国交断絶を決定。 |
ニコライ2世に関して言えば、彼は大の日本好き。
日本人の嫁をもらうことも真剣に検討していたようだ。
大津事件(1891年)で襲撃されたにも関わらず、「どこの国にも狂人はいるものだ」と日本人全体と津田三蔵(犯人)を明確に区別しています。
問題は、アレクセイエフ。
【日露関係】
1902年、日英同盟。
ロシア国内ではアレクセイエフの「対日強硬論」が採用。
日露戦争へ向かう。
⑥「バルティック艦隊」は世界最強だったわけではない(p115)
続いて、「日露の戦力比較」についてです。
圧倒的にロシア有利と考えていましたが、海軍に関しましてはそうでもなかったようです。
まず、日本とロシアの比較ですが、1人あたりのGDPは実は拮抗しております。
常備軍は10倍ほどの違いですが、動員された兵力に大差はありません。(ロシアはなんせ広いですものね・・・)
そして、日本海軍は、イギリス製軍艦を擁し、規律・練度の高さがピカイチ。
陸軍は「ロシア優位」でも、海軍は「日本優位」と見られていたことが高橋是清自伝や、バルティック艦隊の一艦長ブファウォストフ大佐などの言葉からわかります。
つまり、バルティック艦隊は、世界最強とは言い切れませんでした。
「ロシア海軍世界最強説」はポーツマス条約の講和の不調に対する不満を緩和するために流布された、という説があるけど、どうなんだろう。
【日露の戦力差】
各国からは、「陸軍はロシア優位、海軍は日本優位」と見られていた。
日本海軍は規律・練度がピカイチ。
強かったのはバルチック艦隊だけではない。
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