~「もう一つ上の日本史」出版に伴い、勉強方法も変える必要が出たので、全面改訂突入します~

☞【日露戦争が終わりの始まり。】『日露戦争の真実~日本陸海軍の成功と失敗~』(山田朗、2010年、高文研)【読書メモ編】

コチラ】でも紹介させて頂いたが、この本はスゴイ。

日露戦争は「終わりのはじまり」だったとは・・・

以下、読書メモ。

はじめにー「坂の上の雲」が描かなかった日露戦争の真実

【失敗の種がまきつくされた日露戦争】

★明治=成功、昭和=失敗という二項対立はわかりやすいがそれで良いのか?

★日露戦争に勝利することで軍の立場は強められ、1つの強固な官僚組織として確立してしまう。

★さらにその後、韓国併合したのは失敗の種であった。

★日露戦争を経ることで列強との間にある合意が形成。

それは

日本の韓国支配を認める代わりに、日本は欧米のアジア支配を認めるという取引。

(ロシアに関しては日露協約で満蒙のどこまでが勢力圏かを決定)

「日露戦争によってアジア人が勇気づけられた」というが、当時の日本がそれをめざしていたわけではないことを認識しなくてはいけない。(むしろ逆)

そのため、太平洋戦争前に「日本がアジアのために戦う」という新たな物語を作る必要があった。(そしていまだにその文献による影響は強い)

【日露戦争の実相から見えてくるもの】

日本は幕末維新の頃からイギリスの世界戦略にまきこまれ、<ロシア脅威論>に突き動かされてロシアとの対決路線を強めていった

※ロシア脅威論は江戸時代からあるようにも考えられるが?

日英同盟と露仏同盟、その中間にドイツ、新興国としてアメリカ、という関係を理解しないと日露戦争はわからない

日英同盟は日本がロシアと戦争に踏み切ることを可能にした決定的な要因。イギリスが世界に構築した有線電信の海底ケーブル網と英米のマスコミ支援が日本の戦争遂行に有利に

★日本も陸海軍ともに失敗続きであったが、ロシアがもっと失敗続きであったためと、英米の支援によって判定勝ちを収めることができたに過ぎない。

<Ⅰ.近代日本の国家戦略>-日露戦争への道

【1.<ロシア脅威論>に基づく軍備拡張】

★明治維新以来の日本の対外戦略の特徴は2つ。1つは欧米列強の植民地になることをいかに回避するか、もう1つは欧米列強のやり方を取り入れて対外膨張路線を取り始めたこと。

★対外膨張論の一番の大きな要因である「ロシア脅威論」はイギリスからの情報であることが大きい(※そもそも日本に近づいていたのはロシアだけではない)。実際に、当時の時点でロシアは日本まで攻め込むまでの余裕はなかった

1871年山縣有朋の「軍備意見書」(→1873年「徴兵令」)、1875年の「樺太千島交換条約」はロシアへの備えとともに、ロシアとの衝突を避けるためのもの

【2.ロシアの<脅威>に備える北進論(朝鮮半島先取論)】

★ロシア脅威論に対しての朝鮮半島先進論は旧来の中国と朝鮮の関係を無視していた。まだ満州まで到達していないロシアに対して先に朝鮮への影響力を強めようとした結果、当然のように清とまず衝突した。これが日清戦争。つまり日清戦争と日露戦争は地続き。

★ちなみに清国はイギリス船「高しょう号」に乗せて増兵しようとしたが、東郷平八郎が撃沈させる。船長以下のイギリス人を日本側が救出したのでイギリスとは問題にならず、むしろイギリスはより日本を支援。清国兵は日本兵によって殺害されたが、英独仏の軍艦で救助されたものもいた。

★日清戦争後、イギリスにより世界水準の主力艦が建造される。当時の軍事費は39%もあった。イギリスはピークを若干過ぎており、他国に戦わせる手法をとっていた。(例:日中戦争でも蒋介石を支援して日本と戦わせるなど。)

【3.日露の膨張戦略ー利益線=勢力範囲の拡大をめぐる衝突】

台湾獲得後、児玉源太郎が行ったように中国大陸へ「南進」するという案もあったが、これは欧米列強の抗議で実現できず。日本の国家戦略としてはイギリスの支援が期待できる「北進」が良いとなった。

★日英同盟前に日本が韓国、ロシアが満州という「満韓交換論」(=日露協商論)もあったが、採用されず。結局、ロシアも満州を自国のものにするために韓国における優越権を確保しようと考えており衝突。 【コチラも

★日本は自国で軍艦を建造できない、兵力差が大きいなどの問題点があったが、イギリスは①日英同盟、②英仏協商、③ロシア国内の革命運動で日露戦争をアシスト。日本はイギリスから軍艦を購入し(借金も)、英仏協商を使ってフランスからロシアへの経済的協力関係を弱めてもらい、国内で革命を起こして混乱を招いてもらって勝つことができた。

<Ⅱ.日露戦争の世界史的意味>

【1.日英同盟の役割ー日露戦争遂行の大前提】

★戦争では臨時軍事費が必要になる。これには戦時国債を政府が発行し、企業や国民がこれを購入するか、外国人が購入することで実際に使える資金となる。外国で日本の国債を発行する場合、これを外債と呼ぶが、日露戦争時は増税と国債(内債)だけでは賄えず、戦費の4割は外債であった。

★最初にイギリスの諸銀行が日本の外債を引き受け、イギリス国民がその国債を購入。次にアメリカのクーン・レーブ商会(ロスチャイルド系ユダヤ)が日本の国債を何度も買い、日本は戦争することができた。

★クーン・レーブ商会が日本国債を購入したのは、ロシアの反ユダヤ政策に反発、という説明が多いが、実際は日露戦争後の満州での鉄道開発をめざす鉄道王ハリマンに対する最大の出資者だからである。彼らにとっても満州をロシアに独占されては困る。(のちジェイコブ・ヘンリー・シフには旭日大勲章)

★日本が英米にした借金はその返還のためにさらに外債を発行せざるをえず、1920年代には残高16億円くらいに増加。

その後ちょっと減るが、借金を抱えたまま借金相手との太平洋戦争に突入してしまう。

★海底テーブル網の完成とそれによる情報提供も大きい。イギリスは1902年には海底テーブル網を完成しており(50年かけて)、世界のニュースはいったんロンドンに届けられてからイギリス政府、新聞社、通信社により世界に流されると言う構造に。日本にとって有利な情報が流されたため日本の外債がよく売れた。また、バルチック艦隊をイギリス軍艦が追跡し、行く先々で情報を伝えたため艦隊が行方をくらますことは不可能になった。(当時ヨーロッパにいた明石元二郎はイギリスと一緒に攪乱工作を行っていたと思われる。例としてドッガーバンク事件。)

♨ドッガーバンク事件・・・バルチック艦隊が極東への出発直後にイギリス沖で日本の水雷艇と間違えてイギリス漁船に砲撃すると言う事件。イギリスに日本の水雷艇がいるわけないのに。

★ロシア船はフランスの影響が強く、荒海に向かない設計。

★日本が戦争を継続できなかったのは、日本の「勝ちすぎ」を恐れたイギリスがある程度ロシアが満州に力を残した段階でロシア寄りに傾いたから。これにより日本は戦費調達がままならなくなった。これがイギリスのドライなところ。

【2.日露戦争が世界政治に与えた影響】

★日露戦争後、日露協約が結ばれて北部満州はロシア、南部満州は日本とされたことは米英にとっては不満。これによりアメリカは満州に入れなくなってしまった。

日米の関係が悪化したのはここから。

ハリマンと桂太郎の話し合いで満鉄共同経営案が決定されるが小村寿太郎により撤回。(♨副島論に依ればこれは小村がロックフェラー系だったため、と言う。)

★この頃、日露、英露は手を結んでおり、アメリカが満州に入ってくることをブロック。

★英仏露が1つのブロックとなっており、ここに日本も入り、ドイツと対決、という構図がすでにできつつある。

【3.日露戦争がアジアに与えた影響】

日露戦争が結果的にアジアの民衆運動に影響を与えたことは、イギリスによる宣伝によるものが大きい。(♨しかし民衆運動が起きることで各地に植民地をもつイギリスは不利益を被るという可能性を考えられなかったのか?考えていたけどロシアの方が脅威だったのか?)もっともこれは日本が意図的に目指したものではない

★韓国人は日本による支配強化を目の当たりにした。彼らは義兵闘争を行い、日本が白人支配の対極ではなく抑圧者であることを訴えるが、情報そのものが帝国主義側に握られていた当時は他の地域には届かなかった。(♨このあたりがいつまで経っても歴史認識が平行線であることの1つなんだろうな…)

★1904年、第1次日韓協約で日本人財政顧問を韓国に送り、1905年11月、第2次日韓協約で韓国の外交権を剥奪。統監府をおく。

【4.日露戦争と<韓国併合><大陸経営>】

★ポーツマス講和会議(1905年6月30日)。日本側の最重要事項は①朝鮮に対する日本の支配権をロシアが承認すること、②満州からロシア軍撤退(日本軍も撤退)、③清国がロシアから得た遼東半島租借権とロシアが建設した鉄道の譲渡の3点。つまり日本が帝国主義的な権益を確保するための要求である。(♨ただし建前は自衛戦争。)

★比較的必要条件は④賠償金、⑤中立国に入ったロシア艦艇引き渡し、⑥樺太割譲、⑦沿海州沿岸の漁業権。駆け引きとしては⑧極東ロシア軍の制限、⑨ウラジオストク軍港の防衛撤廃。

★日清戦争後の経過を見ると、三国干渉→閔氏一族はロシアと手を結ぶ→閔妃殺害事件(直接的な目的としては日本が敷設した電信線確保)。日露開戦前に在韓ロシア公使は韓国脱出、韓国とロシアの連絡が遮断 したことを利用して日韓秘密条約よりさらに強い「日韓議定書」締結(1904年2月)。

1905年の桂タフト協定、日英同盟更新、1907年の日仏協約、日露協約はすべて三国干渉の二の舞を避けるため。

(♨この考えは実にわかりやすい!)

★第2次日韓協約の効果は1907年のハーグ密使事件でも効果覿面。日本と連携した列強により韓国側の工作はすべて失敗。さらにこれを機に第3次日韓協約を締結させ内政も掌握。韓国軍も解散させたが、将兵の多くは農民義兵に合流し、反日義兵運動に。一方、日本が支援する韓国政権は弱体で、伊藤博文の構想通りには進まず。1909年6月統監辞任、7月韓国併合方針が閣議決定。10月に伊藤博文暗殺。

★伊藤の死で漸進的併合路線はなくなり、直接的併合路線へ。国家の形態については未定であったが、アメリカの満州参入意思表示に危機感を抱き、イギリス、ロシアと急遽利害関係をはかり、強制併合した。

★強制併合はこれまで日本が口にしていた「韓国独立の尊重」と「韓国が不況骨化になるまでの保護」という建前に完全に反する。以後、支配貫徹のために、より強圧的な体制を構築せねばいけない状態になり泥沼に陥る。

★1906年、遼東半島先端部を関東州と名付け、関東総督府を設置。これは1919年関東庁に。関東軍は天皇直属として大きな力を得る。結局、日露戦争で獲得した「関東州」「満鉄」「関東軍」という満蒙三大権益を守るためにその周辺へ勢力を広げる膨張主義政策をとることになり日本は大陸経営に走ることになる。(♨石原莞爾は満蒙と中国を大きく区別している点は触れるべきであろう。そもそも満州は満州人が住むところであり、中国人が住むところではない。

<Ⅲ.日本陸軍の戦略ー成功と失敗>

【1.日本陸軍の基本戦略構想】

★北方戦線での先手必勝と兵力集中。ロシア軍兵力集中が未完成な時期(当時、日本20万、極東ロシア12万)に先手をとって極東ロシア軍を南方の旅順と北方の奉天に分断し、数的優位を保ったうえで各個に撃破するというもの。北方戦線で決戦がおこなわれている間、旅順は早期に海軍殲滅あるいは少数兵力で封じ込めておくプラン。数的優位を保つためには土地の占領よりも相手の兵力を奪うことを念頭に置いた。

★部隊間相互連携のために当時としては画期的な野戦においての電線の敷設が行われた。

進軍と同じスピードで電柱を立て、電信線を敷いたことで相互連絡が可能になり日本陸軍は成功した

★①日本海軍により黄海の制海権が得られていること(輸送路確保)、②開戦直後に朝鮮が制圧でき、陸路から南部満鉄への急進が実現すること、③遼東半島への奇襲が成功し、ロシア軍を南北に分断することの3つが基本戦略実現の必要条件。①は海軍、②は第1軍、③は第2軍が主に任務を背負う。

 【2.日本陸軍の戦略の<成功>(主に戦争前半)】

★前半は成功していたが想定外のことが起きると失敗。「日韓議定書」を早期に結び、韓国国内を確保したことは局地的に観れば成功であったが、国際的には中立国であるはずの韓国を無視したことで成功とはいえない。

★日本海軍は旅順艦隊を誘い出す戦略をとるが3度とも失敗。第2軍の上陸は時間がかかるものの、ロシア軍は攻撃を開始しなかったため黄海の制海権は不安定だったものの第2軍は無血上陸できた。もっともロシアは戦争になるとは思っていなく、完全に意表をつかれた。

★1904年8月の最初の大会戦である遼陽会戦でロシア軍は22万、日本軍は13万。以後も決して日本軍が数で上回ることはなく、当初のプラン通りではない。それでも何とかなったのは、電信線のおかげと優秀な中隊長・小隊長クラスの存在。後半になればなるほど優秀な隊長は戦死し、質が低下(「坂の上の雲」では日本軍の連携の巧みさが書かれるが、なぜそれが可能であったかは書かれていない)。(♨優秀な指揮官はみな日露戦争と太平洋戦争初期で死んでしまった、というのは信憑性が高い。)

★海軍からの要請にこたえる形で第3陸軍は旅順要塞攻略を行い多数の犠牲を払うが、陸海軍の連携は良かった。

【3.日本陸軍の戦略の<失敗>(主に戦争後半)】

★日本の最初のプランでは旅順は孤立させるだけで他で優位を保つことが目標であったのだが、バルチック艦隊来航するというニュースを聞いて大本営の考えが変わった。これにより日本海すら危ういと判断した。結果的にロシア軍を分断させるつもりが、日本軍が南北に分断させられることになった

★旅順陥落はバルチック艦隊到来の2か月前には行いたいとの意向で、早期の旅順陥落を乃木希典に要求したことが大きな失敗の1つであった。参謀総長山縣有朋の意向で弾薬不足のまま突入。戦争の作戦は現場を見たものが立案し、臨機応変に修正することが必要であるが、現場を見ないものがスケジュールを決めたことがそもそもの間違い。(結果的にはロシアの不手際でバルチック艦隊出航は遅れに遅れた。)

★大本営は203高地さえ押さえれば良いと既に方針転換。第3軍司令部と満州軍総司令部は要塞陥落にこだわっていた。児玉源太郎も初期はこの考えであったが、状況を見て、方針転換。乃木希典から指揮権をとって、203高地とその後方陣地への大規模な砲撃でようやく203高地制圧。ここから盛り返し、旅順は陥落したが、その犠牲はあまりに大きかった。

★さらには旅順艦隊の艦艇の殆どは日本軍によって破壊されたというより修理されて使われることを恐れての自沈であることがわかった。

<Ⅳ.日本海軍の戦略ー成功と失敗>

【1.日本海軍の基本戦略構想】

★旅順艦隊早期撃滅作戦。あるいは封じ込め。しかし、これはなかなか厳しいプラン。

【2.日本海軍の戦略の<失敗>(戦争前半)】

★旅順艦隊おびき出し作戦は失敗。アレクセーエフ総督と太平洋艦隊司令長官スタルク中将は増援が来るまで持久作戦。旅順閉塞作戦は米西戦争で使われた戦法であるがこれも失敗。

★ロシア政府は逆に業を煮やしてスタルクを解任し、積極論者のマカロフを派遣。4月より方針が180度変わり出撃。一大決戦が起きると思いきや「ペトロパブロフスク」は旅順港外で大爆発。これは日本側がひそかに敷設した機雷によるものであるが、これによりマカロフ戦死。再び立て籠もりに。

★しかし今度はロシア側の機雷にひっかかる件が急増し大苦戦。砲艦と砲艦が衝突するなどの事故も起きる。

★その後、ロシアのウラジオストク回航作戦も失敗、日本のT字戦法も未遂に終わる。

★その次の黄海海戦ではウラジオストク行きを阻止し、相手へも大打撃を与えたが相手の自滅によるところが大きかった。残った旅順艦隊はいまだ脅威。

★それどころかあまり警戒していなかったウラジオストク艦隊に苦しめられることに。輸送部隊が幾度となく撃沈。

【3.日本海軍の戦略の<成功>(戦争後半)】

★黄海海戦直後、1904年8月14日の蔚山沖海戦でようやく活路。この時、初めて主力艦1隻撃沈、ウラジオストク艦隊壊滅。もっとも、これは「T字作戦」にこだわらなかったことが勝因でもある。さらには、この現場に東郷平八郎も秋山真之もいなかったことも押さえておきたい

日本海海戦においても「T字戦法」で勝ったように書かれるが実際はやや異なる。それでも「当初の計画通り」勝利したと総括し、戦術至上主義に陥る

★長距離を遠征してきたロシア軍の疲弊も忘れてはならない。(♨行く先々でイギリスが嫌がらせしたことも)

<おわりに>

★「坂の上の雲」はよくできた小説とは思うが、映像化されるのは危険が伴う。たとえば戦国時代の合戦などは誰も見たことがないのに、繰り返し映像化されることによってあたかも「白兵戦」が主だったような気がしてしまう。(実際は弓矢などの飛び道具が中心であった。)江戸時代に「飛び道具は卑怯なり」という新たな武士道が形成されてしまったのも一因。「日本ではもともと白兵戦重視」、という史観が参謀本部「日本戦史」によってつくられてしまったが、これは江戸時代の講談本のようなものが元ネタであったりして、さらにこれをネタに現在の「歴史小説」が書かれているのである。)

★司馬遼太郎は明治と昭和の連続性を軽視している。また、同時代人の目で見る手法であったために、日本の後ろにイギリスがあったこと、米英の思惑の中で戦っていたことが希薄になってしまっている。

太平洋戦争が近づけば近づくほど、「日露戦争はアジアのため」的な発想が生じるが、これは誤った歴史観。最近でも再燃しているのが問題

★自国の外で「自衛戦争」がおこなわれていることはおかしなこと。日中戦争でも同じ。明治時代の発想に批判的視点はない。

★日本軍は数々の失敗をしたが、それが勝利によって覆われてしまったことが最大の失敗。「少数精鋭主義」「弾がなくても戦える」なんていうのもそれ。さらには遡って桶狭間の戦いが引き合いに出されてしまう。ドイツ流火力主義で始まった日本陸軍はいつのまにか「火力がなくても白兵戦、銃剣突撃で勝てる日本軍」という総括になってしまう。(一方、本当の要因である情報伝達などは秘密にされてしまい、おのおのが勇敢であったから、という結論に替えられてしまう。)

★さらなる失敗は亡くなった人を「軍神」にしてしまったことも失敗の1つ。亡くなってしまったという失敗を強行した幹部は批判されてしかるべきであろう。日露戦争をテキストとして学んだ人たちは、結局、何が成功で何が失敗かわからないまま戦争の姿を思い込むこととなった。(太平洋戦争を戦った上級幹部は当時、陸軍学校、海軍学校の生徒。)