こんにちは。
「韓国併合」のつづき(日露戦争以後)をご紹介します。
日韓関連年表 1905年~1910年
1905年9月5日 | ポーツマス条約 日本が大韓帝国を保護国とすることをロシアに認めさせた。 |
1905年11月17日 | 第2次日韓協約 大韓帝国の外交権を日本が掌握する。 |
1907年7月18日 | ハーグ密使事件により高宗退位 第2次日韓協約を日本の内政干渉を批判した高宗であったが、これを協約違反として高宗は退位。 |
1907年7月24日 | 第3次日韓協約 内政権も日本が統轄。韓国軍隊解散 |
1909年10月26日 | 伊藤博文暗殺 ※伊藤博文は併合には慎重であったことから併合強硬派による犯行の疑いももたれている。 |
1910年8月29日 | 韓国併合 ※一進会という政治結社が日韓合邦を望んだという説があるが、日本人内田良平(アジア主義者、政治運動家)が黒幕である。一進会は皇族存続など「対等な合併」を主張していた。 |
1911年2月11日 | 小村寿太郎、日米通商航海条約改訂 日本は関税自主権回復。 |
非常に難しい問題ですが、それこそ日本がアジアの代表として列強に立ち向かうには、日本単独では力が及ばないので、権利の及ぶ範囲を朝鮮まで広げる、という考え方は、その点だけを考えれば一理あるのかと思います。
しかし、それを「された」方としてはたまったものではないでしょう。
いずれにしても今でも議論の分かれる点だと思います。
(しかし、日本以上に責められるべきは列強だと思います。)
しかし、植民地支配というのはそんなにひどかったのでしょうか?
「帝国主義諸国の植民地支配の多様性」について追求したことはなかっただけに、その事実は意外でした。
⑨スペインがその初期において南米に行なったような植民地支配は、19世紀後半以降、行なわれていません。(p133)

「植民地支配=収奪型」と考えるのが誤った理解なのです。

イギリスは現地に鉄道を敷き、インフラを整備しました。
そして、学校も設立し、教育も行ないましたよ。

フランスは「同化政策」。
町並みもフランス式に。
植民地化する前のアルジェリアは半数が5歳前に死んでいました。
植民地してからは人口3倍ですよ。

日本も大韓帝国保護国化によって、30年足らずで人口は2倍、平均寿命は24→42歳になりました。
あと、変な刑罰廃止なども禁止しました。
朝鮮が日本式に近代化することで日本も得られた恩恵があったので、感謝を求めるものでもありませんが。

ちなみに、「奴隷制廃止」も人道的な理由というのは表向きで、「安価な労働力の創出」が背景にありまっせ。

いつまでも「植民地=収奪」じゃないんだな。
