~「もう一つ上の日本史」出版に伴い、勉強方法も変える必要が出たので、全面改訂突入します~

日露戦争については【コチラ】や【コチラ】の本などを。

日清戦争・日露戦争を総括すると、こうなります。(↓)

7遊 「脱亜入欧」を選択し、その延長上の外交政策が作り出した国際関係の結果が、日清戦争であり、日露戦争だった(p126)

良い悪いの問題ではないです。

「脱亜論」の福沢諭吉、

共同でアジアを興すという余裕はない。

という一言に集約されているのではないかと思います。

日本の近代化は、東アジアにもう一つの「列強」を作り出すことでもあり、列強を模す以上、政治体制、対外政策も模すことになるのです。

「日本の勝利はアジア諸民族を勇気付けた。」っていうネルー首相(インド)の言葉には続きがあるんです。

 

「しかし、それは、すぐに失望に変わった。」
「・・・一握りの侵略的帝国主義グループにもう一国を加えたというに過ぎなかった。」

このまま民族解放に向かえば、すごいことだったのかも知れませんけど、「そこまでの余裕はなかった」んでしょう。

あんまりそこを責めないで欲しいかな。(むしろ真っ先に責められるべきは列強でしょ。)

アジア諸国を失望させた例としては、ベトナムの「東遊運動(ドンズー運動)」中止があります。

 

ファン・ボイ・チャウらが中心となり明治維新を学ぼうとしていましたが、宗主国フランスの横槍で日本は留学生を全員国外退去させました。

根本的なことを忘れちゃいないか?

 

日英同盟あってこその日本、日英同盟あってこその日露戦争勝利なんだろ?

それにこの時期は「英仏協商」が成立しているじゃないか。

単独でものごとを決められるほどの国はイギリスくらいじゃないかな。

イギリスに歩調を合わせるのは国家として当然じゃないか?

8捕 「韓国併合」への道は、日露戦争開戦と同時に始まりました(p130)

また、年表を。

1904年2月8日日露戦争開戦

日本軍、漢城制圧
1904年2月23日日韓議定書

朝鮮内での軍事行動と韓国政府の便宜供与、施設改善に日本が協力することを認めさせる。

(※大韓帝国を保護国とする動きは日露戦争中です。「保護国」=「外交処理を代わりに行なう」)
1904年4月8日英仏協商
1904年8月22日第1次日韓協約

韓国の財政、外交顧問は日本の推薦者とする
1905年1月22日ロシア国内で「血の日曜日事件」
1905年5月23日日英同盟強化の方針を決定
1905年5月27日日本海海戦
1905年7月29日桂ータフト協定(日本ーアメリカ)

アメリカによるフィリピン支配と、日本による韓国保護化の相互承認。
1905年8月12日第2次日英同盟協約

攻守同盟を結び、適用範囲をインドまで拡大。イギリスは韓国保護国化の保証と援助を了承。
1905年9月5日ポーツマス条約調印

同日、日比谷焼き討ち事件
保護国化の必要があったのか?、って言われるけど、何より韓国がロシアの傘下になったらまずいんじゃーっ。
「ロシア脅威論」っていうのはイギリスから伝わった情報じゃないかね?

日露戦争はイギリスの極東政策、対露政策の一環という考えもあるぞよ。

どうすれば良かったの?

っていうことを考えるのが、今につながると思います。

戦争に関して言うと、日露戦争におけるロシア人の敢闘精神はすごかった。

 

日本の勝利はイギリスの作った電信網によるところなどが大きかった。

でも、それでは各人に恩賞が行き渡らない。

そこで、個人の敢闘精神に勝因を求めてしまった。

これは、のちのちの太平洋戦争での失敗につながっていくのでもあります。【日露戦争の真実

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