~只今、全面改訂中~

こんにちは。

今回ご紹介しますのは、「日露戦争」のダイジェスト。

神野正史先生『世界史劇場 日清・日露戦争はこうして起こった』(2013年)、第5章「日露戦争」編をベースにさせて頂きました。

§4.日清・日露戦間期:露清密約~北京議定書はコチラ

【年表①】 日英同盟(1902年1月30日)~御前会議(1904年2月4日)

1902.1.30日英同盟締結(※1)
1902.4.8満州還付協定
1903.4.21無鄰菴会議(山県、伊藤、桂、小村)
1903.6.10東大七博士意見書
1903.10.17満韓交換論実現せず(※2)
1904.2.4御前会議(※3)
1904.2.6国交断絶状
1904.2.9仁川で緒戦
1904.2.10宣戦布告

(※1)日英同盟~満州還付協定

ロシアは極東アジア制圧に向けてシベリア鉄道を着々と作り、さらに複線化を狙っていました。

(複線化・・・往復が別の路線となるため、輸送スピードが倍。)

複線化すれば日本に勝機はなく、時間がたてばたつほど日本は不利となります。

日本でも穏健派の伊藤博文と主戦派の山縣有朋、桂太郎が議論の応酬をします。

しかし、伊藤の訪欧の間に日英同盟が成立します。

伊藤はロシアを刺激することを恐れましたが、ロシアはイギリスとは事を構えたくないので、「満州還付協定」を結び、3回に分けて満州から順次撤退することに決まりました。

ところが、2回目の撤兵約束が既に破られます。

(※2)満韓交換論

伊藤博文がロシアに『満韓交換論』を要望します。

これは、満州でのロシア帝国の権利を認める代わりに、朝鮮半島での日本の権利を認めてもらおうという考えでしたが、なんとロシアは朝鮮北部までよこせ、と言ってくる始末。

領土への野心を明らかにしてきました。

この時点で交渉決裂となります。

(※3)御前会議 

そして、1904年2月4日、「御前会議」で開戦が決議。

そうと決まれば伊藤博文は貴族院議員・金子堅太郎をアメリカへ、日本銀行副総裁・高橋是清を欧州へ派遣します。

(金子堅太郎はアメリカ大統領セオドア・ルーズベルトとハーバードで学友でした。)

金子は、アメリカは南北戦争でロシアに恩があり、経済的にもロシアとつながっていることなどを理由に固辞しましたが、伊藤の渾身の説得でアメリカ行きを決意しました。

アメリカ行き前に参謀本部次長・児玉源太郎、および海軍大臣・山本権兵衛に勝算を聞いたところ、

(児玉)「頑張って五分五分、そこを六四にならないかと日夜考えている」、

(山本)「日本の軍艦は半分は沈められるが残り半分で倒す」

という悲壮なもの。

【年表②】日露緒戦(1904年2月9日)~旅順陥落(1905年1月1日)

1904.2.9仁川沖海戦(※4:韓国西北部)
1904.2.10宣戦布告
1904.2.23日韓議定書(※5)
1904.2.24壮行会
1904.5.1鴨緑江の戦い(※6:北朝鮮と中国の国境)
1904.5.26南山の戦い(※7:遼東半島)
1904.8.10黄海海戦(※8:旅順沖)
1904.8.22第1次日韓協約
1904.10.21ドッガーバンク事件(※9)
1905.1.1旅順陥落(※10)

(※4)仁川沖海戦

高橋是清の借款を円滑に進めるためにも緒戦は重要でした。

主戦場は満州のため、どうやって兵を運ぶかも問題でした。

ロシア艦隊はすでに旅順と仁川と浦塩に入港しており、陸軍としては大弧山まで上陸したいのですが、海路が長すぎると旅順艦隊に攻撃される危険があるので、仁川ルートが採用されました。

そこで仁川沖海戦からスタート。

短期決戦を目指すべく兵力を集中させた日本軍が勝利します。

(※5)日韓議定書、第1次日韓協約

満州までは朝鮮を通過するため、「日韓議定書」で朝鮮内の通過権を得て、さらに朝鮮がロシアと軍事同盟を結ばないように「第1次日韓協約」を結び北上。

(※6)鴨緑江の戦い

「鴨緑江の戦い」は「ジェネラル・クロキ」こと黒木タメモト第一軍司令官の名采配でこれを制します。

これにより高橋是清の借款もスムーズに。

(※7)南山の戦い

「南山の戦い」は第二軍。

日清戦争時は容易に陥落させましたが、南山はコンクリートで覆われ、機関銃とダムダム弾を配備し「要塞」と化していました。

この戦いで死者6200人。

1日で陥落させましたが、1日で日清戦争で消費した全砲弾量と死者数を超えました。

(※8)黄海海戦

旅順艦隊をほぼ壊滅に追い込みましたが、どれだけの被害を与えたのかがわからなかったため、陸軍に旅順攻略を要請します。

(※9) ドッガーバンク事件

ドッガーバンク事件とは北海のドッガーバンク沖で夜間操業していたイギリス漁船を日本の水雷艇と誤認して砲撃し、死傷者を救出しなかった事件です。

これによりフランスの協力を失い、イギリスにより各地で妨害を受けます。

(北海に日本船がいることはないと思われますが、それほどまでに混乱させられていたのでしょう。おそるべしイギリス。)

(※10)旅順陥落

第三軍・乃木希典および参謀・伊地知幸介は大本営の二百三高地案を退け、正面突破にこだわり、地形が変わるほどの戦死者(約14万)を出しました。

そこで満州総司令官・大山巌より全権を委任された児玉源太郎が「相談役」として着任するや、4日で旅順陥落しました。

これで陸軍は安心して奉天に、海軍はバルチック艦隊との決戦に集中できることになりました。

【年表③】奉天会戦(1905年3月1日)~

1905.3.1奉天会戦
1905.5.27日本海海戦

(※11) 奉天会戦

クロパトキン率いる奉天軍37万、日本は25万。

日本軍は苦戦を強いられました。

しかし、クロパトキンは「我、包囲されたり!」と電報を打ち、撤退。

(※12)日本海海戦

「30分で38隻」(ほぼ全滅)を撃沈する大勝利となりました。

これにはさすがにニコライ2世も挫け、講和会議へ。

【年表④】桂タフト協定(1905年7月29日)~第1次日露協約(1907年7月30日)

1905.7.29桂ータフト協定(※13)
1905.8.10ポーツマス会議開幕(※14)
1905.8.12第2次日英同盟(※15)
1905.9.5ポーツマス条約締結
1905.9.5日比谷焼き打ち事件
1905.11.17第2次日韓協約
1907.6.10日仏協約
1907.7.24第3次日韓協約
1907.7.30第1次日露協約

(※13)桂タフト協定

日米間の秘密協定。

アメリカのフィリピン支配権を認める代わりに、日本の朝鮮支配を認めさせました。

(※14)ポーツマス条約(8/10-9/5)

ロシア側はセルゲイ・ウィッテ、日本側は小村寿太郎外務大臣。立会人セオドア・ルーズベルト大統領。

ニコライ2世は「局地戦には敗れたものの、戦争には負けていない」とし、強気の交渉を依頼しました。

結果、賠償金はナシです。

【ポーツマス条約】(要点)

1)日本の朝鮮における権利を承認
2)日露両軍とも18ヶ月以内に満州から撤兵
3)南満州鉄道を日本に譲渡、関東州租借
※南満州鉄道(長春~大連700キロ)の保護のため、鉄道1kmごとに15名の鉄道守備兵を置く権利を有す。

4)南樺太を日本に割譲
5)日本海、オホーツク海、ベーリング海の漁業権を日本が得る

6)賠償金はナシ

戦費に17億円かかったが賠償金がとれなかったため、日比谷焼き打ち事件が起こります。

(負ければロシアに滅ぼされる可能性があったことを考えると本来上出来なのですがね。しかも、もう弾薬も尽きていました。)

日比谷焼き打ち事件では戒厳令が敷かれます。

(※15)第2次日英同盟、日仏協約、日露協約

日露戦争の勝利により、欧米人に劣等感を持っていたアジア人は歓喜しました。

しかし、前述の桂タフト協定(フィリピンにおけるアメリカ、朝鮮における日本の優越権をそれぞれ認める)に加え、

第2次日英同盟(インドにおけるイギリスの、朝鮮における日本の優越権をそれぞれ認める)、

日仏協約(インドシナにおけるフランスの、朝鮮、満州などにおける日本の日本の優越権などをそれぞれ認める)、

第1次日露協約(北満州および外蒙古におけるロシアの、南満州および朝鮮における日本の優越権を確認:平たく言うと国境策定)と対等条約が結ばれることになりました。

日本の勝利はアジアの救いとなりましたが、日本は「帝国」の1つともなりました。