~「もう一つ上の日本史」出版に伴い、勉強方法も変える必要が出たので、全面改訂突入します~

☞【日清・日露戦争の1st Book!】『世界史劇場 日清・日露戦争はこうして起こった』(神野正史、2013年、ベレ出版)

日清戦争、日露戦争までの流れが今一つわからない、という人はこの本がオススメ。著者は世界史のカリスマ講師であるが、この時代なんて世界史と日本史の区別などない。日本史の理解が進まない原因の1つは案外世界史の知識不足だったりする。ドラマを見るような感覚。是非、選り好みせず、一読を。

以下、読書メモ。

目次

§1.清朝の昏迷

①空前の絶頂に巣食う汚吏ー清朝腐敗の浸透

康熙帝(1661-1722)・雍正帝(1722-35)・乾隆帝(1735-96)の3代は「三世の春」と呼ばれる絶頂期にあった。しかし、同時に腐敗の温床も育っていった。雍正帝までは良いとしても乾隆帝は決して名君ではない。その証拠に乾隆帝後期に出現した和珅という汚吏を挙げよう。彼は清朝の国家予算10年分以上を賄賂で稼ぎ、密告者を左遷させていた。かつて圧倒的強さを誇った八旗軍は軍事訓練を怠り弱体化し、清朝の崩壊の序章は足音を立て始めた。

②イエヘナラの呪いー乾隆帝以降の清朝系図

19世紀は清朝滅亡の幕開けである。7代嘉慶帝で白蓮教徒の乱、8代道光帝でアヘン戦争、9代カンポウテイで太平天国の乱とアロー戦争、10代同治帝は5歳で即位したが、西太后(9代の后)が実権を握ってしまった時でもある。「中国三大悪女」と呼ばれる西太后は実はヌルハチに滅ぼされたイエヘナラ族の子孫であり、ヌルハチは「今後、彼らの子孫を絶対に宮廷に入れるな」と言ったという言い伝えもある。西太后は謀略を尽くし実権を握ると、息子の同治帝、甥の光緒帝を毒殺、東太后も毒殺したと言われ、さらに食費に現在の日本円で年間50億円、化粧代に80億円。還暦祝いに最新鋭艦8台分、頤和園建立に25台分を費やした(!)。もっとも、西太后が出現せずに、もしこの費用が軍事費にまわっていればまず日清戦争で日本に勝ち目はなかったであろう。

③秀才たちの近代化はいかにー洋務運動の展開

カンポウテイの崩御を機に「洋務運動」と言われる近代化運動が進む。その顔触れは曽国藩(湘軍を率いて太平天国の乱を鎮圧)、李鴻章(淮軍を率いた)、左ソウトウ(楚軍を率いた「今孔明」)、張之洞(科挙3位)。しかし、「中体西洋」を唱え、根本を変えなかったため、30年も足踏み。その間に日本は明治維新に成功。

④朝鮮、いまだ攘夷鎖国にありー大院君摂政

1860年代の朝鮮は11歳で国王となった高宗を父親である大院君が操るという形式であった。当時、日清に挟まれることで鎖国体制を維持できていたが、このまま攘夷を実現できると思い、そのためにも思想統制を敷こうと新興宗教である東学・西学(キリスト教)ともに大弾圧した。しかし、高宗の后、閔妃という西太后のコピーのような悪女も出現した、という状況であった。

§2.日本開国

①黒船来航の衝撃ー日米和親条約の締結

【年表】

  • 1792 根室 ラスクマン(ロシア)ー(老中 松平定信「どうしてもしたければ長崎へ行け」)
  • 1804 長崎 レザノフ(ロシア)ー(老中 土井利厚「わざと怒らせてやれ」)
  • 1808 長崎 フェートン号事件(イギリス)
  • 1820- イギリス船多数(その後、清朝への外交に忙殺され、英仏露↓、米↑)
  • 1825 無二念打払令(11代将軍家斉)
  • 1840 アヘン戦争
  • 1842 薪水給与令(老中 水野忠邦)
  • 1843 『海国図志』(林則徐の友人、魏源)⇒佐久間象山、吉田松蔭へ伝わる
  • 1846 浦賀 ビッドル(善隣外交で失敗)
  • 1853 浦賀 ペリー(12代将軍家慶が重病で帰ってもらう)
  • 1854 浦賀 ペリー⇒日米和親条約(老中 阿部正弘)
  • 1856 下田 ハリス(⇒1858 日米修好通商条約:老中 堀田正睦、大老 井伊直弼)

②条文に仕組まれた陰謀ー日米修好通商条約の締結

日米和親条約はわざと誤訳されてアメリカに伝わった可能性がある。これをもとにアメリカが押し寄せ、日米修好通商条約が結ばれ、下田に領事が駐在することになった。当時、日本では13代将軍として家定が就いていたが、子供がいないため、後継者を8歳の慶福(のちの家茂)にするか(南紀派)、17歳の一橋慶喜にするか(一橋派)で問題となっていた。堀田正睦は121代孝明天皇に日米修好通商条約締結の勅許を願うも却下されたが、アロー戦争で清国が敗北した情報を受け、しょうがなく井伊直弼は勅許なしで日米修好通商条約を結んだ。

③「短刀一本あらば…」大政奉還

そうこうしているうちに13代将軍家定が崩御。慶福が即位して家茂(いえもち)となる。一橋派、尊皇派左右からの突き上げを喰らった幕府は、「安政の大獄」で大弾圧。この中には吉田松蔭も含まれている。そして、「桜田門外の変」で大老井伊直弼が殺害され、幕府の威信も地に落ちる。そこで、公武合体を画策し、1861年、将軍家茂と孝明天皇の妹である和宮と縁談が持たれるも、家茂が20歳で急死(暗殺説も)、そして121代孝明天皇も死去し、公武合体はあっけなく崩れる。15代将軍となった慶喜は「大政奉還」し、「列藩会議議長」として生き残りを図るが、そうなると尊皇派は名目が立たないため、岩倉具視らが慶喜不在で「小御所会議」というクーデターを起こし、徳川家の辞官納地を迫る。大政奉還を献策した山内容堂とは激しいバトルがあったが、休憩時に西郷隆盛に「短刀一本あらば片つくことにごわす」とアドバイスを受けた岩倉は休憩後、実際に短刀を携え議論を再開したところ、山内容堂も静かになる。周囲は薩摩の兵に囲まれていたことを考えれば致し方ない。しかし、辞官納地はのらりくらりとなかなか進まずであった。慶喜は、このままのらりくらりとしていこうとしていたが、西郷は江戸に放火などをしかけ挑発し、これが江戸の幕臣蜂起へとつながった。相手の挑発に乗り、慶喜の策略も水の泡になった瞬間でもある。

④江戸幕府の最期ー戊辰戦争

新政府軍と旧幕府軍は鳥羽伏見で激突。この時の兵力は5000vs15000であったが、旧幕府軍は油断が蔓延していた。そこへ「錦の御旗」を掲げた新政府軍が登場したことで旧幕府軍は戦意喪失となり総崩れ。新撰組ですら壊滅的打撃を受ける。残兵は慶喜のいる大坂城へと向かったが、最初は激励したものの、その日のうちに慶喜は江戸へ遁走。なぜ遁走したのかは諸説あるが、この慶喜の行動こそ日本を亡国から救ったのかも知れない。その後、「江戸城無血開城」、新政府による「版籍奉還」が行われ、諸外国と外交調整に入る。ところが、朝鮮とは「皇」「勅」の字などを理由にいきなり確執が始まる。

⑤「独力にては、西欧列強に抗しがたく…」-日清条約交渉

日本としては朝鮮の宗主国である清朝と対等の条約を結べば、朝鮮ともスムーズに外交が行われるであろうと思い、外務大臣柳原前光を派遣し清朝(担当:李鴻章)と交渉に入った。一方、日本国内では「版籍奉還」だけでは「大名」が「知藩事」に変わっただけであるので、「廃藩置県(1871)」を行い、中央から役人が派遣されることで中央集権が完成した。そんなことをしたら戦争が起きるだろうと思っていた欧米人もこれには驚愕。駐日大使ハリー=パークスは「こんなことができる天皇は神である!」と言う。そんな折、「宮古島島民虐殺事件」が勃発。

⑥日本、台湾に出兵す!-日清修好条規の締結と国境画定

日清修好条規(1873)が結ばれたものの、「宮古島島民虐殺事件(1871)」の賠償金を求めたところ、李鴻章は「台湾は化外の地」と言い放ち、これにより堂々と台湾出兵(1874)を行った。李鴻章は海軍増強の必要性を感じ、「北洋艦隊」作成に着手。もっとも、左ソウトウは対露・陸軍重視を主張し対立する。日本の国境画定はその後もつづき、1875年「千島・樺太交換条約」をロシアと(榎本武揚・ゴルチャコフ)、1876年「小笠原諸島領有宣言」を米英と結び、いよいよ朝鮮開国へ迫る。

§3.日清戦争

【年表】

  • 1873 大院君失脚
  • 1875 江華島事件(→1876 日朝修好条規)
  • 1882 壬午軍乱(旧式軍隊のクーデター。黒幕は大院君であるが、袁世凱により鎮圧。)
  • 1884 清仏戦争(→1885 天津条約③ ベトナムはフランスの保護国に)
  • 1884 甲申事変(金玉均のクーデター。→1885 天津条約② 李鴻章ー伊藤博文)
  • 1894 甲午農民戦争
  • 1894 日清戦争(7/25豊島沖→7/29成歓→7/30牙山→9/15平壌→9/17黄海→10/25鴨緑江→1/20 栄成→2/12威海衛)
  • 1895 下関条約(→三国干渉)

①砲艦外交と見え透いたワナー江華島事件

1873年の朝鮮では、閔妃(開国派)のクーデターにより大院君(鎖国派)が失脚した年でもあった。これにより日本は交渉しやすくなったのかと思いきや、中華思想にガチガチに冒された状態は変わっておらず、1875年の日朝修好交渉は本題に入る前に決裂。「善隣外交」の限界を感じ、「砲艦外交」に切り替える。日本は軍艦を江華島に向かわせ勝手に測量し挑発。これはペリーが日本にやったことでもある。当時の日本はその挑発には乗らなかったが、朝鮮はいとも簡単に砲撃(しかも届かない)。この砲撃をネタにして日朝交渉が再開。

②朝鮮ついに開国すー日朝修好条規の締結

朝鮮は清朝に助けを求めるも清朝は清朝でフランス、ロシアと睨みあっており日本との対立は避けたいために黙殺。こうして、日朝修好条規が締結される(1876)。もっとも、これは不当な条約ではなく、朝鮮に自主独立を求めたものでもある。開国により日本はイギリス綿製品の中継貿易をして儲けを得て、これが朝鮮の財政悪化の原因のように言われることもあるが、それよりも国内の汚職・買占め、閔妃の浪費の方が大きい。閔妃に至っては我が子の長寿祈願に国家予算12年分を費やしている。

③旧式軍隊の不満爆発ー壬午軍乱の勃発

朝鮮は開国して、金玉均を筆頭に近代化が推進される。日本からは堀本礼造が軍事顧問として招かれ、日本式の近代軍(別技軍)が創設される。日本としては朝鮮が白人列強の植民地となると危険なので朝鮮に強くなってもらう必要があったのだ。しかし、予算には限りがあり、もともとあった軍隊へは給与がストップ。13カ月ぶりに給与が出ると思ったらコメの半分は役人が着服しており、糠や砂が入っていたというようなことがあり、旧来の軍隊は大院君を祭り上げ、クーデターを起こした。これが「壬午事変」である。これにより堀本は惨殺。高宗は王宮に隠れ、閔妃は旦那を置き去りにして亡命した。

④三日天下の末に…事大党と開化派の対立

壬午軍乱の黒幕は大院君。クーデターは成功したかに見えたが、閔妃は清国の駐朝鮮軍司令官・袁世凱(齢23)に援軍を要請した。野心家でもある袁世凱は即座に3000の兵を送ったが、これでは日朝修好条規違反が水の泡。山縣有朋は1500の兵を送るも、この時、すでに大院君は失脚しており、朝鮮と清朝の宗属関係も復活しており、軍も鎮静化してしまっていた。日本は「済物捕条約」を結び首都駐兵権を得るので精一杯であったが、これがのちに重要な意味を持つことになる。閔氏政権は「開化派」に見切りをつけ、清にすがる「事大党」を形成する。

⑤李鴻章の憂鬱、そしてその裏でー清仏戦争

閔氏政権の路線変更により金玉均は窮地に追い込まれる。日本に出兵を要請するが、日本とて北洋艦隊を有する清国とは戦いたくない。しかし、ナポレオン3世が阮朝越南に侵攻し、清仏戦争が勃発したことで李鴻章は西太后の命もあり、しょうがなく3000の兵のうち1500を撤兵させ不測の事態に備える。これを勝機と見た金玉均はクーデターを起こすことに。

⑥見切り発車のクーデターー甲申事変

1884年12月4日、放火を合図に開化派が王宮へ攻め込み、閔氏一族、政府要人を一気に誅殺する。金玉均は新政府樹立を宣言。ところが見通しが甘かった。2日後に袁世凱が軍事介入。朝鮮大使の竹添進一郎は加納治五郎の岳父であるが、金玉均に「有事の際は日本が助ける」、と政府の承諾を得ずに勝手に言っていたのも後押しとなった。袁世凱軍1500、日本軍150という兵力の差もあり撤退。一部日本兵は開化派とともに戦い討死、竹添進一郎、金玉均は日本に逃げる。これが12月7日、わずか三日の天下であった。甲申事変は失態の連続であったが、金玉均の見切りが甘かった。

⑦軍拡の10年、その成果はいかにー甲申事変後の日清

甲申事変の戦後処理として天津条約(1885)が結ばれた。清朝は李鴻章、日本は伊藤博文。翌年には清朝はドイツから購入した巨大戦艦を見せびらかしに長崎までやってくる。しかし、これを見た日本は文字通り「挙国一致」となり、甲申事変後の10年間は日本が清国の脅威に直面して、「全国力を日清戦争のための準備に傾けた期間」となった。天皇陛下はポケットマネー30万円(現在の価値で60億円)寄付、全国からの義捐金で200万円が集まる。一方、清は西太后が頤和園を作ったり、還暦祝いをしたり浪費。

⑧日清両軍出兵、そして「最後通牒」-甲午農民戦争

甲申事変から10年。朝鮮では社会が悪化の一途。ついに全羅道から反乱が起きるが、これを「甲午農民戦争」と呼ぶ。名目上の指導者は東学党の崔時亨であったが、事実上は全琫準。閔氏政権は直ちに清に援軍を要請し、袁世凱は出兵。しかし、これは明らかに「天津条約」の第3款(※1)違反。日本は抗議するも交渉決裂となり、8000の軍を送ることに。袁世凱も日本を甘く見ていた。日本軍は清の4倍にあたり、清は増員を決意。日本はこれ以上の増員は戦争行為とみなす、と最後通牒。7/24以降にイギリス輸送船で清国兵を輸送しようとした「高陞号事件」なども起きるが、これは国際法に明るい東郷平八郎が制圧した。一方、朝鮮の反乱軍は日清両国からの軍隊に動揺し、反乱は鎮静されていた。
(※1)「もし、将来、朝鮮に変乱が起こって、日清両国またはその一方が朝鮮に出兵する必要が生じた場合には、事前かつ相互に外交文書を取り交わし、相手に了解を得なければならない」

⑨一進一退の激戦!-日清戦争

朝鮮には清軍の国外退去を迫るも、返答なし。首都漢城を制圧し、閔妃を失脚させ大院君を擁立しようとするが拒絶される。日清戦争の初戦は日本が相手の補給船を見つけた豊島(ブンド)沖海戦となったが、敵方艦長は「方伯謙」という「逃げ艦長」と呼ばれた腰抜け。日本の戦死者がゼロであるのに対して、清国は「高陞号事件」の高陞号含め戦死者1100の大損害で逃げ出す。続いての成歓(ソンファン)の戦でも清国軍はすぐ敗走。次に攻め入った牙山(アサン)ではもぬけの殻で、日本は清国軍を完全に見失う。実は「逃げ将軍」と呼ばれた「葉志超」率いる清国軍ははるか平壌まで逃走しており、牙山の軍と含めて2万の軍が平壌に立て籠もった。対して日本軍は1万。平壌は隠し要塞もあり、日本軍の兵站は1-2日分。絶望感に打ちひしがれていたが、開戦直後、なんとまたしても「葉志超」が降伏。白旗を掲げながら逃げ出す。黄海ではまたしても逃げ艦長「方伯謙」が戦闘の最中突然逃げ出し、清軍が混乱。最終的に敗走して旅順、威海衛に逃げ込んだ北洋艦隊を陸軍と海軍とで挟み撃ちにして壊滅させた。北洋艦隊水師・丁汝昌自決。「逃げ将軍」と「逃げ艦長」がいたことが日本にとって最大の幸運であった。

⑩喜びも束の間のうちにー下関条約と三国干渉

下関条約が締結。全権は10年前と同じく李鴻章と伊藤博文。しかし、李鴻章が日本の暴漢に襲われることで大幅な譲歩を余儀なくされてしまった。最終的に「朝鮮が独立国であると認めること」、「2億両の賠償金」、「遼東半島、台湾、澎湖列島」を得るなど。遼東半島は日本にとっては列強の橋頭堡とならないために必要だったのだが、同じく遼東半島を狙っていたロシアとドイツ・フランスの三国干渉を受け、遼東半島を手放す。賠償金の84%は軍事費に投入され、残りの資本で産業革命にとりかかるべく、1901年、八幡製鉄所を建設。朝鮮では閔妃が何者かによって暗殺。

§4.中国分割と日露対立

【年表】

  • 1891 ロシア、国力の大半をシベリア鉄道建設に投入
  • 1896 露清条約(→東清鉄道敷設権。李鴻章賄賂。1891東清鉄道完成。)
  • 1898 戊戌の変法(変法自強運動、百日維新とも。)
  • 1898 中国分割ほぼ終わる
  • 1899 米国、門戸開放宣言
  • 1899 義和団の乱(6/21→八か国共同出兵)
  • 1901 北京議定書

①ハイエナがごとく、我先に!-中国大陸の勢力範囲争奪戦

三国干渉が終わるとロシアは清国に東清鉄道敷設権を要求し、露清条約を結ぶ(1896)。これは不平等条約であり、実質上は領土割譲である。李鴻章が交渉に当たったが、賄賂を受け取りあっさり認める。その後もロシアは鉄道敷設を続け、旅順、大連まで到達。これでは黄海、東シナ海への出没が可能になるためイギリスも慌てて、威海衛を租借し、封じ込めにかかる。ドイツは膠州湾、フランスは広州湾、日本は福建省を租借。中国分割がほぼ完了したのが1898年、米西戦争で太平洋まで勢力範囲としたアメリカが自分も中国分割に参加したいと表明したのが「門戸開放宣言」。

②光緒帝の希望の星、康有為ー変法自強運動

康有為は「日本が30年なら我が国は3年で近代化できる!」と宣い、光緒帝の信頼を得て改革に着手。張之洞、劉坤一、袁世凱ら錚々たるメンバーがスポンサーを買って出るが、なんとこれを門前払い。

③改革の壁と裏切りとー戊戌の政変

西太后が実権を握っていたため、光緒帝が次々に新法を発布しても西太后の許可のない法令は官僚が握りつぶすという事態に。康有為はこうなったらクーデターしかないとばかりに差し違え覚悟で袁世凱に頼み込む。しかし、袁世凱はその場ではお茶を濁し、そのまま密告。以後、光緒帝は小さな島に流され10年間監視され、西太后の亡くなる前日に暗殺される(1908)。

④「扶清滅洋」を叫びつつー義和団の乱

飢餓にあえぐ民衆の中には「ライス・クリスチャン」となるものと、「義和団」に入るものがいた。ドイツの割譲にあった山東省は孔子の出生地であり、中国人とキリスト教徒の対立が常態化し、仇教運動が起こる。これが義和団と結びつき、中国北部一帯に「義和団の乱」が生じる。清は当初は鎮圧しようとするも、「扶清滅洋」のスローガンを聞くとこれを支援。ロシアはこれ幸いと8000の軍隊を送るが、イギリスはブール戦争、アメリカは米比戦争で余裕がなく、イギリスの要求を受けた日本が13000の軍を送り、ほぼ日露軍で構成された八か国共同出兵により鎮圧される。西太后は旗色が悪くなると見るや、今度は義和団鎮圧を指示。

⑤ロシアの脅威、迫る!-北京議定書

北京議定書で賠償金の決定、外国軍隊の駐兵権と共に各国は清国から撤退することが決まったが、ロシアだけは満州に居続けて不法占拠。これに日本は危機感を抱き、さまざまな主張を行うも、全く無効。シベリア鉄道を着々と作り、日本制圧を目論む。

§5.日露戦争

【年表】

  • 1900 アムール河事件(ブラゴヴェシチェンスク虐殺事件)…「虐殺の世紀」幕開け
  • 1902 日英同盟1/30(→満州還付協定4/8)
  • 1903 (無鄰菴会議4/21、東大七博士意見書6/10→)満韓交換論10/17
  • 1904 御前会議2/4(→国交断絶状2/6→宣戦布告2/10→壮行会2/24)
  • 1904 日露戦争緒戦(仁川2/9→鴨緑江5/1→南山5/26→第1次日韓協約8/22)
  • 1904 日露戦争激戦(黄海8/10→旅順陥落1/1)ドッガーバンク事件10/21
  • 1905 日露戦争最終決戦(奉天会戦3/1→日本海海戦5/27)
  • 1905 桂タフト協定(7/29)
  • 1905 ポーツマス条約(8/10-9/5)ヴィッテー小村寿太郎。立会人セオドア・ルーズベルト。
  • 1905 第2次日英同盟(8/12)
  • 1905 日比谷焼打ち事件(9/5)
  • 1907 日仏協約(6/10)、第1次日露協約(7/30)

①戦争は避けられるか、一縷の望みー

日英同盟の成立 ロシアはシベリア鉄道を着々と作り、複線化をも狙う。複線化すれば日本に勝機はなく、時間がたてばたつほど日本は不利となる。日本でも穏健派の伊藤博文と主戦派の山縣有朋、桂太郎が議論の応酬をするが、伊藤の訪欧の間に日英同盟が成立。伊藤はロシアを刺激することを恐れたが、さすがにロシアもイギリスとは事を構えたくないので、ニコライ2世は満州還付協定を結び、3回に分けて順次撤退することに。しかし、これも2度目ですでに破られ、無鄰菴会議を経て伊藤博文が『満韓交換論』をロシアに要望するが聞き入れられず、ロシアに有利な代替案を出された時点で交渉決裂。

②絶望的な見通しの中でー日露戦争 

準備 1904年2月4日、御前会議で開戦が決議。そうと決まったら伊藤博文は貴族院議員・金子堅太郎をアメリカへ、日本銀行副総裁・高橋是清を欧州へ派遣。金子堅太郎はセオドア・ルーズベルトとは学友だったものの、アメリカは南北戦争でロシアに恩があり、経済的にもロシアとつながっていることなどを理由に固辞するも、伊藤の渾身の説得でアメリカ行きを決意。アメリカ行き前に参謀本部次長・児玉源太郎、および海軍大臣・山本権兵衛に勝算を聞くが、児玉は「頑張って五分五分、そこを六四にならないかと日夜考えている」、山本は「日本の軍艦は半分は沈められるが残り半分で倒す」という悲壮なもの。

③快進撃は続くかー日露戦争 緒戦

高橋是清の借款を円滑に進めるためにも緒戦は重要であった。主戦場は満州であるため、どうやって兵を運ぶかが問題であった。ロシア艦隊はすでに旅順と仁川と浦塩に入港しており、陸軍としては大弧山まで上陸したいが、海路が長すぎると旅順艦隊に攻撃される危険があるので、仁川ルートが採用された。そこで仁川沖海戦からスタート。短期決戦を目指すべく兵力を集中させた日本軍が勝利。満州までは朝鮮を通過するため、「第1次日韓協約」で朝鮮がロシアと軍事同盟を結ばないように外交権を掌握してから北上。「ジェネラル・クロキ」こと黒木タメモト第一軍司令官の名采配で鴨緑江の戦いを制し、高橋是清の借款もスムーズに。第二軍は日清戦争時は容易に陥落させた南山を通過しようとするが、コンクリートで覆われ、機関銃とダムダム弾を配備し当時と全く異なる要塞と化した南山の戦いで死者6200人。1日で陥落させたが、1日で日清戦争で消費した全砲弾量と死者数を超えた。乃木希典を大将に第三軍が編成され、旅順を押さえに入る間に、第二軍、第四軍が遼陽まで攻め込み、満州軍司令官クロパトキンを追いこむ。

④旅順要塞の死闘ー日露戦争 激戦

ニコライ2世は旅順艦隊の浦塩入港を指令。黄海で丁字戦法を試みるが、逃げられる。必死で追い、相手の二番艦がエンジントラブル。ここで追いつき、三笠から出された運命の一撃が旗艦ツェサレーヴィッチの司令室に命中!二番艦に旗艦権委任の信号を送ろうとするも、またもや奇跡の二発目が命中!これで司令部に生き残っていたものも全滅。相手艦隊はまさかの事態に気づかず、パニック。ここで旅順艦隊をほぼ壊滅に追い込むが、どれだけの被害を与えたのかがわからなかったため、バルチック艦隊と挟み撃ちを避けるべく陸軍に旅順攻略を要請。乃木希典および参謀・伊地知幸介は大本営の二百三高地案を退け、正面突破にこだわり、地形が変わるほどの戦死者(約14万)を出す。そこで満州総司令官・大山巌より全権を委任された児玉源太郎が「相談役」として着任するや、4日で旅順陥落。これで陸軍は安心して奉天に、海軍はバルチック艦隊との決戦に集中できることに。

⑤バルチック艦隊、現る!-日露戦争 最終決戦

クロパトキン率いる奉天軍37万、日本は25万。苦戦を強いられるが、クロパトキンは「我、包囲されたり!」と電報を打ち、撤退。そこに南風とともに大砂塵。奉天軍は大打撃。しかし、ニコライ2世はバルチック艦隊を浦塩に派遣。どこを通るかが問題であるが、対馬で待ち受け、実際に巡洋艦が発見。「皇国の興廃はこの一戦にあり!」として改良型丁字戦法で待ち受ける。バルチック艦隊が対馬を通る時は濃霧であったが、接近するにつれて薄霧に。日本艦隊は隠してくれるが、敵艦隊は丸見え、という状況になり、いよいよ接近した時に快晴に。東郷ターンで敵艦に併走、30分で38隻をほぼ全滅させる大勝利。これにはさすがにニコライ2世も挫け、講和会議へ。 ちなみにバルチック艦隊はリバウ出発後、漁船を襲い被害者を救助しなかったドッガーバンク事件でフランスの協力を失い、イギリスにより各地で妨害を受け整備不良、旅順陥落の報を受け、日本海に着くころには戦意喪失に追い込まれていた。

⑥決裂寸前の講和会議ーポーツマス条約

ニコライ2世は「局地戦には敗れたものの、戦争には負けていない」とし、強気の交渉を強いる。結局、賠償金はなし、樺太の北緯50度以南を割譲、沿海州の漁業権、長春以南の東清鉄道租借権(のちの南満鉄)、旅順・大連の租借権、朝鮮における日本の優先権などが認められる。戦費に17億円かかったが賠償金がとれなかったことは日中戦争、太平洋戦争とつながるわけだが、ロシアに滅ぼされるところであったので、この結果は上出来のはず。日比谷焼打ち事件へ発展し、桂太郎内閣は総辞職。

⑦新たなる時代の幕開けー日露戦争の世界史的影響

日露戦争の勝利により、欧米人に劣等感を持っていたアジア人は歓喜。欧米人も第2次日英同盟、桂タフト協定(日本の韓国優先権の承認)、日仏協約、日露協約と対等条約が結ばれることに。日本の勝利はアジアの救いとなるも、もう1つの帝国主義国家が加わったことも意味した。

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