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☞【日清・日露戦争の1st Book!】『世界史劇場 日清・日露戦争はこうして起こった』(神野正史、2013年、ベレ出版)

日清戦争、日露戦争までの流れが今一つわからない、という人はこの本がオススメ。著者は世界史のカリスマ講師であるが、この時代なんて世界史と日本史の区別などない。日本史の理解が進まない原因の1つは案外世界史の知識不足だったりする。ドラマを見るような感覚。是非、選り好みせず、一読を。

以下、読書メモ。

目次

§1.清朝の昏迷

①空前の絶頂に巣食う汚吏ー清朝腐敗の浸透

康熙帝(1661-1722)・雍正帝(1722-35)・乾隆帝(1735-96)の3代は「三世の春」と呼ばれる絶頂期にあった。しかし、同時に腐敗の温床も育っていった。雍正帝までは良いとしても乾隆帝は決して名君ではない。その証拠に乾隆帝後期に出現した和珅という汚吏を挙げよう。彼は清朝の国家予算10年分以上を賄賂で稼ぎ、密告者を左遷させていた。かつて圧倒的強さを誇った八旗軍は軍事訓練を怠り弱体化し、清朝の崩壊の序章は足音を立て始めた。

②イエヘナラの呪いー乾隆帝以降の清朝系図

19世紀は清朝滅亡の幕開けである。7代嘉慶帝で白蓮教徒の乱、8代道光帝でアヘン戦争、9代カンポウテイで太平天国の乱とアロー戦争、10代同治帝は5歳で即位したが、西太后(9代の后)が実権を握ってしまった時でもある。「中国三大悪女」と呼ばれる西太后は実はヌルハチに滅ぼされたイエヘナラ族の子孫であり、ヌルハチは「今後、彼らの子孫を絶対に宮廷に入れるな」と言ったという言い伝えもある。西太后は謀略を尽くし実権を握ると、息子の同治帝、甥の光緒帝を毒殺、東太后も毒殺したと言われ、さらに食費に現在の日本円で年間50億円、化粧代に80億円。還暦祝いに最新鋭艦8台分、頤和園建立に25台分を費やした(!)。もっとも、西太后が出現せずに、もしこの費用が軍事費にまわっていればまず日清戦争で日本に勝ち目はなかったであろう。

③秀才たちの近代化はいかにー洋務運動の展開

カンポウテイの崩御を機に「洋務運動」と言われる近代化運動が進む。その顔触れは曽国藩(湘軍を率いて太平天国の乱を鎮圧)、李鴻章(淮軍を率いた)、左ソウトウ(楚軍を率いた「今孔明」)、張之洞(科挙3位)。しかし、「中体西洋」を唱え、根本を変えなかったため、30年も足踏み。その間に日本は明治維新に成功。

④朝鮮、いまだ攘夷鎖国にありー大院君摂政

1860年代の朝鮮は11歳で国王となった高宗を父親である大院君が操るという形式であった。当時、日清に挟まれることで鎖国体制を維持できていたが、このまま攘夷を実現できると思い、そのためにも思想統制を敷こうと新興宗教である東学・西学(キリスト教)ともに大弾圧した。しかし、高宗の后、閔妃という西太后のコピーのような悪女も出現した、という状況であった。

§2.日本開国

①黒船来航の衝撃ー日米和親条約の締結

【年表】

  • 1792 根室 ラスクマン(ロシア)ー(老中 松平定信「どうしてもしたければ長崎へ行け」)
  • 1804 長崎 レザノフ(ロシア)ー(老中 土井利厚「わざと怒らせてやれ」)
  • 1808 長崎 フェートン号事件(イギリス)
  • 1820- イギリス船多数(その後、清朝への外交に忙殺され、英仏露↓、米↑)
  • 1825 無二念打払令(11代将軍家斉)
  • 1840 アヘン戦争
  • 1842 薪水給与令(老中 水野忠邦)
  • 1843 『海国図志』(林則徐の友人、魏源)⇒佐久間象山、吉田松蔭へ伝わる
  • 1846 浦賀 ビッドル(善隣外交で失敗)
  • 1853 浦賀 ペリー(12代将軍家慶が重病で帰ってもらう)
  • 1854 浦賀 ペリー⇒日米和親条約(老中 阿部正弘)
  • 1856 下田 ハリス(⇒1858 日米修好通商条約:老中 堀田正睦、大老 井伊直弼)

②条文に仕組まれた陰謀ー日米修好通商条約の締結

日米和親条約はわざと誤訳されてアメリカに伝わった可能性がある。これをもとにアメリカが押し寄せ、日米修好通商条約が結ばれ、下田に領事が駐在することになった。当時、日本では13代将軍として家定が就いていたが、子供がいないため、後継者を8歳の慶福(のちの家茂)にするか(南紀派)、17歳の一橋慶喜にするか(一橋派)で問題となっていた。堀田正睦は121代孝明天皇に日米修好通商条約締結の勅許を願うも却下されたが、アロー戦争で清国が敗北した情報を受け、しょうがなく井伊直弼は勅許なしで日米修好通商条約を結んだ。

③「短刀一本あらば…」大政奉還

そうこうしているうちに13代将軍家定が崩御。慶福が即位して家茂(いえもち)となる。一橋派、尊皇派左右からの突き上げを喰らった幕府は、「安政の大獄」で大弾圧。この中には吉田松蔭も含まれている。そして、「桜田門外の変」で大老井伊直弼が殺害され、幕府の威信も地に落ちる。そこで、公武合体を画策し、1861年、将軍家茂と孝明天皇の妹である和宮と縁談が持たれるも、家茂が20歳で急死(暗殺説も)、そして121代孝明天皇も死去し、公武合体はあっけなく崩れる。15代将軍となった慶喜は「大政奉還」し、「列藩会議議長」として生き残りを図るが、そうなると尊皇派は名目が立たないため、岩倉具視らが慶喜不在で「小御所会議」というクーデターを起こし、徳川家の辞官納地を迫る。大政奉還を献策した山内容堂とは激しいバトルがあったが、休憩時に西郷隆盛に「短刀一本あらば片つくことにごわす」とアドバイスを受けた岩倉は休憩後、実際に短刀を携え議論を再開したところ、山内容堂も静かになる。周囲は薩摩の兵に囲まれていたことを考えれば致し方ない。しかし、辞官納地はのらりくらりとなかなか進まずであった。慶喜は、このままのらりくらりとしていこうとしていたが、西郷は江戸に放火などをしかけ挑発し、これが江戸の幕臣蜂起へとつながった。相手の挑発に乗り、慶喜の策略も水の泡になった瞬間でもある。

④江戸幕府の最期ー戊辰戦争

新政府軍と旧幕府軍は鳥羽伏見で激突。この時の兵力は5000vs15000であったが、旧幕府軍は油断が蔓延していた。そこへ「錦の御旗」を掲げた新政府軍が登場したことで旧幕府軍は戦意喪失となり総崩れ。新撰組ですら壊滅的打撃を受ける。残兵は慶喜のいる大坂城へと向かったが、最初は激励したものの、その日のうちに慶喜は江戸へ遁走。なぜ遁走したのかは諸説あるが、この慶喜の行動こそ日本を亡国から救ったのかも知れない。その後、「江戸城無血開城」、新政府による「版籍奉還」が行われ、諸外国と外交調整に入る。ところが、朝鮮とは「皇」「勅」の字などを理由にいきなり確執が始まる。

⑤「独力にては、西欧列強に抗しがたく…」-日清条約交渉

日本としては朝鮮の宗主国である清朝と対等の条約を結べば、朝鮮ともスムーズに外交が行われるであろうと思い、外務大臣柳原前光を派遣し清朝(担当:李鴻章)と交渉に入った。一方、日本国内では「版籍奉還」だけでは「大名」が「知藩事」に変わっただけであるので、「廃藩置県(1871)」を行い、中央から役人が派遣されることで中央集権が完成した。そんなことをしたら戦争が起きるだろうと思っていた欧米人もこれには驚愕。駐日大使ハリー=パークスは「こんなことができる天皇は神である!」と言う。そんな折、「宮古島島民虐殺事件」が勃発。

⑥日本、台湾に出兵す!-日清修好条規の締結と国境画定

日清修好条規(1873)が結ばれたものの、「宮古島島民虐殺事件(1871)」の賠償金を求めたところ、李鴻章は「台湾は化外の地」と言い放ち、これにより堂々と台湾出兵(1874)を行った。李鴻章は海軍増強の必要性を感じ、「北洋艦隊」作成に着手。もっとも、左ソウトウは対露・陸軍重視を主張し対立する。日本の国境画定はその後もつづき、1875年「千島・樺太交換条約」をロシアと(榎本武揚・ゴルチャコフ)、1876年「小笠原諸島領有宣言」を米英と結び、いよいよ朝鮮開国へ迫る。

§3.日清戦争

【年表】

  • 1873 大院君失脚
  • 1875 江華島事件(→1876 日朝修好条規)
  • 1882 壬午軍乱(旧式軍隊のクーデター。黒幕は大院君であるが、袁世凱により鎮圧。)
  • 1884 清仏戦争(→1885 天津条約③ ベトナムはフランスの保護国に)
  • 1884 甲申事変(金玉均のクーデター。→1885 天津条約② 李鴻章ー伊藤博文)
  • 1894 甲午農民戦争
  • 1894 日清戦争(7/25豊島沖→7/29成歓→7/30牙山→9/15平壌→9/17黄海→10/25鴨緑江→1/20 栄成→2/12威海衛)
  • 1895 下関条約(→三国干渉)

①砲艦外交と見え透いたワナー江華島事件

1873年の朝鮮では、閔妃(開国派)のクーデターにより大院君(鎖国派)が失脚した年でもあった。これにより日本は交渉しやすくなったのかと思いきや、中華思想にガチガチに冒された状態は変わっておらず、1875年の日朝修好交渉は本題に入る前に決裂。「善隣外交」の限界を感じ、「砲艦外交」に切り替える。日本は軍艦を江華島に向かわせ勝手に測量し挑発。これはペリーが日本にやったことでもある。当時の日本はその挑発には乗らなかったが、朝鮮はいとも簡単に砲撃(しかも届かない)。この砲撃をネタにして日朝交渉が再開。

②朝鮮ついに開国すー日朝修好条規の締結

朝鮮は清朝に助けを求めるも清朝は清朝でフランス、ロシアと睨みあっており日本との対立は避けたいために黙殺。こうして、日朝修好条規が締結される(1876)。もっとも、これは不当な条約ではなく、朝鮮に自主独立を求めたものでもある。開国により日本はイギリス綿製品の中継貿易をして儲けを得て、これが朝鮮の財政悪化の原因のように言われることもあるが、それよりも国内の汚職・買占め、閔妃の浪費の方が大きい。閔妃に至っては我が子の長寿祈願に国家予算12年分を費やしている。

③旧式軍隊の不満爆発ー壬午軍乱の勃発

朝鮮は開国して、金玉均を筆頭に近代化が推進される。日本からは堀本礼造が軍事顧問として招かれ、日本式の近代軍(別技軍)が創設される。日本としては朝鮮が白人列強の植民地となると危険なので朝鮮に強くなってもらう必要があったのだ。しかし、予算には限りがあり、もともとあった軍隊へは給与がストップ。13カ月ぶりに給与が出ると思ったらコメの半分は役人が着服しており、糠や砂が入っていたというようなことがあり、旧来の軍隊は大院君を祭り上げ、クーデターを起こした。これが「壬午事変」である。これにより堀本は惨殺。高宗は王宮に隠れ、閔妃は旦那を置き去りにして亡命した。

④三日天下の末に…事大党と開化派の対立

壬午軍乱の黒幕は大院君。クーデターは成功したかに見えたが、閔妃は清国の駐朝鮮軍司令官・袁世凱(齢23)に援軍を要請した。野心家でもある袁世凱は即座に3000の兵を送ったが、これでは日朝修好条規違反が水の泡。山縣有朋は1500の兵を送るも、この時、すでに大院君は失脚しており、朝鮮と清朝の宗属関係も復活しており、軍も鎮静化してしまっていた。日本は「済物捕条約」を結び首都駐兵権を得るので精一杯であったが、これがのちに重要な意味を持つことになる。閔氏政権は「開化派」に見切りをつけ、清にすがる「事大党」を形成する。

⑤李鴻章の憂鬱、そしてその裏でー清仏戦争

閔氏政権の路線変更により金玉均は窮地に追い込まれる。日本に出兵を要請するが、日本とて北洋艦隊を有する清国とは戦いたくない。しかし、ナポレオン3世が阮朝越南に侵攻し、清仏戦争が勃発したことで李鴻章は西太后の命もあり、しょうがなく3000の兵のうち1500を撤兵させ不測の事態に備える。これを勝機と見た金玉均はクーデターを起こすことに。

⑥見切り発車のクーデターー甲申事変

1884年12月4日、放火を合図に開化派が王宮へ攻め込み、閔氏一族、政府要人を一気に誅殺する。金玉均は新政府樹立を宣言。ところが見通しが甘かった。2日後に袁世凱が軍事介入。朝鮮大使の竹添進一郎は加納治五郎の岳父であるが、金玉均に「有事の際は日本が助ける」、と政府の承諾を得ずに勝手に言っていたのも後押しとなった。袁世凱軍1500、日本軍150という兵力の差もあり撤退。一部日本兵は開化派とともに戦い討死、竹添進一郎、金玉均は日本に逃げる。これが12月7日、わずか三日の天下であった。甲申事変は失態の連続であったが、金玉均の見切りが甘かった。

⑦軍拡の10年、その成果はいかにー甲申事変後の日清

甲申事変の戦後処理として天津条約(1885)が結ばれた。清朝は李鴻章、日本は伊藤博文。翌年には清朝はドイツから購入した巨大戦艦を見せびらかしに長崎までやってくる。しかし、これを見た日本は文字通り「挙国一致」となり、甲申事変後の10年間は日本が清国の脅威に直面して、「全国力を日清戦争のための準備に傾けた期間」となった。天皇陛下はポケットマネー30万円(現在の価値で60億円)寄付、全国からの義捐金で200万円が集まる。一方、清は西太后が頤和園を作ったり、還暦祝いをしたり浪費。

⑧日清両軍出兵、そして「最後通牒」-甲午農民戦争

甲申事変から10年。朝鮮では社会が悪化の一途。ついに全羅道から反乱が起きるが、これを「甲午農民戦争」と呼ぶ。名目上の指導者は東学党の崔時亨であったが、事実上は全琫準。閔氏政権は直ちに清に援軍を要請し、袁世凱は出兵。しかし、これは明らかに「天津条約」の第3款(※1)違反。日本は抗議するも交渉決裂となり、8000の軍を送ることに。袁世凱も日本を甘く見ていた。日本軍は清の4倍にあたり、清は増員を決意。日本はこれ以上の増員は戦争行為とみなす、と最後通牒。7/24以降にイギリス輸送船で清国兵を輸送しようとした「高陞号事件」なども起きるが、これは国際法に明るい東郷平八郎が制圧した。一方、朝鮮の反乱軍は日清両国からの軍隊に動揺し、反乱は鎮静されていた。
(※1)「もし、将来、朝鮮に変乱が起こって、日清両国またはその一方が朝鮮に出兵する必要が生じた場合には、事前かつ相互に外交文書を取り交わし、相手に了解を得なければならない」

⑨一進一退の激戦!-日清戦争

朝鮮には清軍の国外退去を迫るも、返答なし。首都漢城を制圧し、閔妃を失脚させ大院君を擁立しようとするが拒絶される。日清戦争の初戦は日本が相手の補給船を見つけた豊島(ブンド)沖海戦となったが、敵方艦長は「方伯謙」という「逃げ艦長」と呼ばれた腰抜け。日本の戦死者がゼロであるのに対して、清国は「高陞号事件」の高陞号含め戦死者1100の大損害で逃げ出す。続いての成歓(ソンファン)の戦でも清国軍はすぐ敗走。次に攻め入った牙山(アサン)ではもぬけの殻で、日本は清国軍を完全に見失う。実は「逃げ将軍」と呼ばれた「葉志超」率いる清国軍ははるか平壌まで逃走しており、牙山の軍と含めて2万の軍が平壌に立て籠もった。対して日本軍は1万。平壌は隠し要塞もあり、日本軍の兵站は1-2日分。絶望感に打ちひしがれていたが、開戦直後、なんとまたしても「葉志超」が降伏。白旗を掲げながら逃げ出す。黄海ではまたしても逃げ艦長「方伯謙」が戦闘の最中突然逃げ出し、清軍が混乱。最終的に敗走して旅順、威海衛に逃げ込んだ北洋艦隊を陸軍と海軍とで挟み撃ちにして壊滅させた。北洋艦隊水師・丁汝昌自決。「逃げ将軍」と「逃げ艦長」がいたことが日本にとって最大の幸運であった。

⑩喜びも束の間のうちにー下関条約と三国干渉

下関条約が締結。全権は10年前と同じく李鴻章と伊藤博文。しかし、李鴻章が日本の暴漢に襲われることで大幅な譲歩を余儀なくされてしまった。最終的に「朝鮮が独立国であると認めること」、「2億両の賠償金」、「遼東半島、台湾、澎湖列島」を得るなど。遼東半島は日本にとっては列強の橋頭堡とならないために必要だったのだが、同じく遼東半島を狙っていたロシアとドイツ・フランスの三国干渉を受け、遼東半島を手放す。賠償金の84%は軍事費に投入され、残りの資本で産業革命にとりかかるべく、1901年、八幡製鉄所を建設。朝鮮では閔妃が何者かによって暗殺。

§4.中国分割と日露対立編はコチラ↓↓

§5.日露戦争編はコチラ↓↓

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